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【ショートストーリー】雪が降った日は走りたい気分

僕の寒い日のおすすめは「貼らないカイロ」だ。

中には「そんな馬鹿な。カイロは貼るもんだろ」と思った人もいるかもしれない。実際、今、隣にいる友人はカイロを袋から取り出し、一向に貼る気配のない僕に怪訝な目を向けている。僕は人差し指をチッチッチッとメトロノームのように揺らしながら、彼女の手のひらにカイロを置いてみせた。

「なっこっこれは、貼っていないカイロなのに温かいわ! こんなもの持ってるなんてあんたの癖に生意気だぞ」

友人は特徴的な長い黒髪を揺らしながら感心していた。窓の外を見てみると、雪が止めどなく降っており、地面は真っ白な色彩で埋め尽くされていた。誰かの手によって作られた雪だるまがゲレンデの上を走り回っている。

「さあ、冒険の始まりだ」

僕は早速、貼らないカイロをポケットに入れて、雪原へと飛び出した。遥か高い空から雪の結晶が流れるように降ってきていて、頬にぴたりと張り付いた。

宙に舞う雪粒がまるで止まっているかのごとくスローモーションに感じた。だが、一つ瞬きをすれば雪粒はハラリと地面に落ちていく。果たしてこの雪は止まっているのか、動いているのか。「ゼノンのパラドックス」の「飛ぶ矢」のことを思い出した。このパラドックスは、飛んでいる矢はいつの時点でも、その瞬間は止まっていて、止まっているのだから、動くことはない。というものだ。

「実に興味深い」

僕はひとりでにメガネをクイっとする仕草をした。そんなことはさておき、貼らないカイロの良いところは、自分の好きな場所を臨機応変に温められる点である。通常の貼るカイロであれば、貼っている場所を重点的に温められるが、その他の場所は一旦貼ったものを剥がさない限り、温められない。

「貼らないカイロさすがね」

友人が言った。彼女は手のひらにカイロを挟んで、温まっていた。ナイス使い方。

辺りを見てみると、相変わらず、雪だるまが楽しそうに走り回っていた。僕は雪だるまに並走するように雪原を駆け抜けた。雪だるまは僕を見遣ると、走るスピードを更に上げた。だが、侮ってもらっては困る。こう見えても、学生時代はリレーの選手に選ばれていたのだ。

自慢の脚力でしばらくは瞬足雪だるまについていけていたが、やがて体力は底をつき、とうとうその場で地面にへたり込んだ。前を走っている雪だるまが振り向いてニヤリと笑った。これであのニンジンの鼻はさらに長くなるに違いない。くっ悔しいぜ。

「お疲れさん。あんたは確かに雪だるまとの勝負には負けたかもしれないけど、良い走りは見せてたわよ」

友人がそう言って、僕の手に何かを握らせた。見てみるとそれは貼らないカイロだった。手は寒さでかじかんでいたので、その心遣いは大変ありがたかった。

「さあ、行こう」

友人は言った。彼女に手を引かれて、雪原の世界を歩く。辺りはしんと静まり、聞こえるのは雪が地面に落ちる微かな音と「ざくっざくっ」と雪を踏みしめる僕と彼女の足音くらいだ。二人の白い吐息がゆっくりと遥か高い空へと昇っていく。

「なあ、さっきゼノンのパラドックスについて考えてたんだけど」

「それは興味深いわね」

友人がメガネをクイっとする仕草をした。僕たちは顔を見合わせて、笑い合った。ハラリと頬に落ちる雪は冷たい。だが、貼らないカイロのおかげですぐに温かくなるから心配ない。それに僕は彼女と話していると、心が温かくなるのを感じていた。

降る雪がまるで止まっているかのようにスローモーションに感じた。静かな雪原を彼女と談笑しながら歩いた。この時間がずっと続けばいいのにと思いながら。

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