シェア
Jazz Drummer 大江陽象
2023年6月27日 17:39
2012年、娘が生まれた。新生児がいる中、僕は朝7時にマット配送の仕事にでかけ、1日40か所くらいのレンタルマット配送を行い、ハイエースを一日30キロ以上運転し、足がガクガクなるほど駆けずり回って帰宅する、、、そんな生活に突入していた。当然、ロクに満足のいくような練習などできず、それまでの音楽活動で培った貯金(ちっぽけな貯金だったが)を生かしながら、辛うじて音楽活動を継続していた。以前にも
2023年6月26日 14:30
2011年暮れ、僕は付き合っていた彼女と世田谷区役所に出向き、婚姻届を提出した。以来、11年半、一家の大黒柱を継続しているわけだが、当たり前だが独身の時とは全く違う生活になった。そして子供が生まれるとなったとき、、、多くの普通の感覚を持った男は夢をあきらめ、堅実な仕事に就こうとすることがほとんどだろう。だが、33歳の僕が選んだ道は『夕方までに終わる、家の近くにある会社』で『レンタ
2021年7月16日 17:26
2003年、2年留年した挙げ句、旧帝大の 九州大学経済学部を、なんとか卒業した僕は、そのまま上京し、歌舞伎町で新聞配達を始めた。。その後、福岡に2年間戻っていた時期はシティホテルの配膳係のバイトをしていた。そして再び上京して2007年から2010年まで、していた仕事も、西新宿での新聞配膳だった。。2011年年末に、結婚した彼女と同棲中も、線路工事 ビル清掃 居酒屋店員弁
2021年7月14日 09:14
2007年に、再び東京に戻ってきてから、僕は'Bebop'が、音楽性の根幹に据わったドラマーに、少しずつ、亀の歩みで成長してきた。。今回以降、何回かその過程で出会った、5歳から15歳!?年下の、凄い才能を持った若手ミュージシャン達に述べることにする(出会った年と、当時の彼の年齢)楠井五月(bass)(2007年頃。当時22歳。)伝統をいち早く消化した早熟のベーシスト。破竹の勢
2021年7月1日 13:46
2010年4月14日、自分の6人編成のバンドでライブをするため、僕は新宿の老舗ジャズスポット'J'にいた。メンバーは、早川惟雅(as)福代亮樹(ts)Mike Zacharnuk (tp)増田実裕(pf)大塚義将(bs)の当時20代のメンバーと私。メインに演奏したのは大森明さんのオリジナル曲。なぜ大森さんの曲を取り上げたかというと、シンプルなのに、とても想像力を掻き立てるような曲たちに
2021年6月30日 11:13
2007年4月、2年間の福岡での濃厚なbebop修行を経験し、性懲りも無く、また僕は東京に戻ってきた。しかも前職と同じ、新聞配達の職を得て。28歳。正直言って、賢い人から見れば、ここからはもう、完全に自分の人生を捨てた、無謀なバカにしか見えなかっただろう。。プロミュージシャンになる人間の普通とは何か、世間一般を観察してみよう。99%のプロミュージシャンは、幼少期、あるいは遅くとも10
2021年6月28日 23:59
2005年春、福岡でのフリーター生活が始まった。目的は、学生時代にご縁があったジャズギタリストの中川正浩氏のもとで修業しなおすこと。。東京では様々なスタイルでJAZZという音楽が演奏されている、、その多様性に圧倒され、自分が何をしたいのか、どんなドラマーになりたいのかを、見失ってしまっていた。僕に必要なのは、芯の通った、音楽性を確立したJAZZMENの下で、一貫した美学のJAZZを演奏し続
2021年6月23日 18:51
2004年、東京六本木にあったAll of me club..深夜セッションがあるというので、参加しに行った。店内には、人はまばらで、ロマンスグレーの白髪のドラマーと、オーソドックスで小粋なプレイのピアニストとベーシストをバックに、悠々とアルトを吹き鳴らすサックス奏者。そのアルト吹きの名は、大森明さんだった。その時点までの僕のサックス奏者体験といえば、、イントロで出会う若手サックス
2021年6月22日 23:51
2003年、不安と希望に満ちて新宿駅に降りたった。東京のジャズシーンって、どんなんだろ?強烈な思い出として残っていることの1つに高田馬場INTROでのセッション。おそらくかなり早い時間に行ったのだろう店内はガラガラだった。バーテンらしき人物(ゴッド井上氏)に自分はドラマーで、上京したばかりだと告げると、、すぐさまセッションに参加するようにつげられた。言われるがままに、ドラムに
2021年6月22日 13:22
2003年春、大学を2年も留年するほど、混沌とした精神状態の中で、ジャズにのめり込んでいた僕は、就職氷河期ですら引くて数多だったであろう、旧帝大 九州大学経済学部卒という学歴をかなぐり捨てて、新聞奨学生の制度を利用して(名目上はアンミュージックスクールの学生として)、東京、新宿の地に降り立った。そして2003年新宿歌舞伎町で、新聞配達を始めた。。せっかくなので、当時の歌舞伎町の様子を
2020年8月24日 22:36
1998年正月、突如としてjazzを志した僕は、毎日部室に行ってドラムを練習したり、レコードを聴いたりして何時間も過ごした、、かというと、じつはあまり覚えていなく、、、おそらく今から見れば、やっていたとしても、まったく効率の悪い、的を得ていない練習を毎日していたのだと思う。人間の精神というのは本当に幼少期の体験が影響すると思う。人間が一番感受性が豊かで、まともに育った人間なら、一番夢中にな
2020年8月20日 23:46
私は今年42歳。1997年に大学生になった年代だ。日本が今に至るデフレに突入した最初の年に高校を卒業し、社会に出た世代。以来、JAZZという音楽にかかわり始めて、早いもので23年もの月日が流れてしまった。ここらで、ひとつこれまでの音楽遍歴を記しておこうと思う。 私の生家は福岡市から車で1時間のド田舎で、先祖代々の土地を耕して生きてきた典型的な農家、公務員と兼業の父と祖父、祖母が携わる田んぼや畑
2020年8月21日 18:44
忘れもしない1997年12月29日。博多、赤坂バックステージ年末ジャムセッション97年春からジャズ研に属してはいたが、、実際に他人とセッションするのは片手で数えるほどの経験しか無かった当時、なぜ、福岡市近郊のアマチュアからセミプロミュージシャンが集うバックステージの年末セッションに行ったのか、、今となっては思い出せない、、ただ、非常に精神的に苦しい時期だったのは間違いない。大
2020年8月21日 13:30
1997年、九州大学経済学部経済学科に入学した僕は、'バンドをやろう、もしくは歌を歌おう'と思っていた。友人に勧められて、2つの音楽サークル、ジャズ研と軽音楽部に足を突っ込んでいた。ジャズ研では、他に直ぐ音がでる楽器がないし、前出の石塚さんのドラムに惹かれていたため、ドラムを選んだ。そして軽音楽部では、、なんと'ボーカル'を選んだ。これも他に出来そうな楽器が無かったからだ。高校の同級