ゴーヤを食べたい。エモい。
とりあえず、今学期最初の中間テストが10分前に終わり、なんとなく晴れ晴れとした気持ちです。すけおです。
それでもまだテストが残っているので、勉強しなくてはと思いつつ、まだいいやという気持ちとせめぎあっています。
まあ、そんな勉強のことなんて今はどうでもいいので飛ばしますが、
先ほど、学校の中を自転車で移動しているときに、女子大生の3人組がなにやら話しながら3方向に分かれる瞬間に立ち会いました。
その3人組は、十字路のある道から交差点に来たようで、話を終え、各々帰路についたのですが、それぞれ別の道へ入ったのです。
わかりにくいので具体的に言うと、十字路を交差点を境にABCDの4本道に分けたとき、3人がAの道からきて、あ、ここで3人をEFG(さん(単位))としますが、EFG(さん)がAの道からきて、EさんがBの道へ、FさんがHの道へ、IさんがGの道へそれぞれ向かっていったんです。
あ~、もうごちゃごちゃしてきた。Iさん誰だよ。無関係の通行人数えちゃったよ。それよりいつの間にかGさん道になったよ。
人が一人アスファルトになったのは怖くて深掘りしたくないので、一旦具体的な人名出すのやめますが、(E,F,Gって名前だったんかい)簡単に言うと1方向から来た3人組が3方向へ分かれていったんです。
ここまではそんなに大事じゃないので飛ばしていただいて。
で、別れ際、そのうちの一人が
「全員が別の道むかうの、なんとかだね!」
って嬉しそうに言ったんです。なんていったかは覚えてないのですが、穴を抜けるときに頭から行った時の両手と頭が出てきた時みたいな感じだね、みたいな、そういうニュアンスのやつ。(実際には「3人きれいに分かれたね」みたいな。)
それに対して、一人が返事をしたのですが、その時の返答が、
「それな」
でした。終わり。
そのまま3人とも帰っていきました。
え⁉え、、、え⁉
なんか寂しくない⁉
スキル「それな」を未だ習得していないおじさんはその返答に対してなんかもやっとした気持ちが残りました。
それな
って、あしらわれているというか、いなされているというか、そんな風に感じないですか。
若者言葉って、表現しがたい感情をなんとなくの形にできるという意味では便利な面もあると思います。
「エモい」とか「まんじ」とか
どっちもよくわからんけど。
でも、やっぱり、コミュニケーションって他人と取るものであって、その間を「省く」っていう行為は同時に共通意識の一部を「削る」ということにつながるのではないかと思います。
若者言葉に限らずですけど。
会話って、話し手と聞き手の話の内容のイメージがなるべく近い状態にあることで、正しい意図が伝わると思います。
片方がサッカーについて話してるのに、片方はフェンシングだと思って聞いていたらそのコミュニケーションって当然ずれが生じるじゃないですか。
ボールって単語が出てきたらフェンシング上にいる聞き手は金玉のことかな?と思いながら聞くことになるじゃないですか。なるか?
そのイメージの土俵(環境)を統一させなければ、正確なコミュニケーションって難しいと思うんです。
意図していない伝わり方とか、形のはっきりしない曖昧な伝わり方しかしないと思うんです。
例えば、友達と二人で夕暮れ浜辺にて、堤防に座りながら海をみて
一方は 夕暮れ×友達というシチュエーションに対して、
他方は オレンジ色に反射した静かな波という景色に対して、
趣を感じたとして、どちらも
エモい
の一言で表現されるとき、二人はエモいの対称が共通してるという錯覚を起こしており、人の意見を聞いたところで自分の頭のイメージから外に出ることはできないんですよね。
(エモいの使い方あってるかわからないけど。)
だから、多くの場合、エモいは趣を感じるの意味で使うのだろうから、
オモい とか シュい
にした方がいいんじゃないかと。
あれ、なんか上っているようで横に歩いていただけで話のステップ一段も変わってないな。
とはいえ、言語にはそういう単語がたくさんあって、状況によってはあえて具体的な表現を避けた方が伝わりやすいことも少なくありません。
若者言葉に限らず、
ご飯を食べたときに感じる「美味しい」、
もっと言えば、「楽しい」や「悲しい」といった感情表現も、たまに結構曖昧だなと感じることがあります。
毎日全く違う献立のご飯を食べていても、毎回「美味しい」という言葉でしか表現できない。
肉と魚と野菜では味は全く違うのに、どれも
「美味しい」
で表現してしまう。
逆に、日常的なの食事の時間に、
ご飯を一口食べ、
「炊き立てのふわっとしながらももちっとした粘りによる弾力があり、唾液で分解された後のマルトースの甘さと、熱々のごはんから沸く湯気が鼻に抜けるときに感じる白米の香り、総じて美味しいな」
なんて言ってる人が横にいたら引きますよね。
あ、この人の隣で食べると味覚が情報過多に陥って狂いそうだから、とりあえず全部に醤油かけまくって「あ~、黒くてしょっぱい。」で済ませたい。
って思うじゃないですか。(知らんけど。)
まあ、「あ、この人うるさいな。」とは思うじゃないですか。
だから、ひとそれぞれ違う味を感じていても、そもそも料理が違っていようと、「美味しい」って一番適切な表現かもしれません。
グルメリポートも視聴者に具体的なイメージが浮かぶように味の感じ方とか舌触りとか、温度とか具体的に表現することもあれば、
「美味しい!」「うまい!」
の一言のほうが大きなインパクトを与えることもあって。
そもそも、モチッとか、ピリッとかほんのりとかの表現も人それぞれ感じ方は違うので、ある言葉から共通意識を統一させるのってほとんど不可能なんですよね。
宇宙遊泳したときみたいに、まっすぐ進んでいるようで途中から話の趣旨が変わっている気もしますが、
自分でご飯を作ったときは良いのですが、人にご飯を作ってもらったとき、メニューが豊富であれ、どの料理を食べても
「美味しい!」
でしか表現できない自分が悔しいし、
単語が同じであれば、結局相手にどのように伝わるかは、発言のテンションやスピード、ボリューム、表情や体のリアクションに依存してしまう、という事実が、感情を動きとして表に出すのが苦手な自分にとっては不利だと感じるんですよね。
それと、「エモい」とか「それな」のように感情表現を省略することで自分の会話のターンを短縮するのは、相手に対して失礼な気もするし、曖昧な言葉に頼って楽している自分がいるような気がしてやるせなくなるんですよね。
他の団体の中でこういう言葉が聞こえてもなんとも思いません。
え⁉え、、え⁉寂しくない⁉
くらいしか思いません。でも、その発言主や受言主が知り合いの時には気を遣ってしまうんですよね。
だから何だってわけではないんですけど、
ゴーヤは苦いので、僕は苦手です。
ということを伝えたかったのです。
ほら、言葉だと話の意図ってうまく伝わらないでしょ?
ごめんなさい。調子に乗りました。ゴーヤを食べられるよう精進します。
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