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「ツイスト・イン・ライフ」第16話(全22話) 創作大賞2024応募作品

第一話:松尾誠司 その一
第二話:佐野涼平 その一
第三話:越智弘高 その一
第四話:藤吉礼美 その一

第五話:松尾誠司 その二
第六話:佐野涼平 その二
第七話:越智弘高 その二
第八話:藤吉礼美 その二

第九話:松尾誠司 その三
第十話:佐野涼平 その三
第十一話:越智弘高 その三
第十二話:藤吉礼美 その三

第十三話:松尾誠司 その四
第十四話:佐野涼平 その四
第十五話:越智弘高 その四

第十六話:藤吉礼美 その四


「うーん……つい建物の中に入ってきちゃったけど、やっぱり帰ろうかな……」
 藤吉ふじよし礼美れいみは、「バー・ツクシ」の入口の前で店内に入るべきか否か迷っていた。
 礼美は勤め先の音楽教室での講師交流会に参加し、二次会まで酒宴を満喫した後である。

「バー・ツクシ」は細長いビルの地下一階にあり、年季が入った木の扉の向こうからは人の笑い声が聞こえてくる。

 礼美は、仲のいい人に対してはある程度フランクに接することができるが、元々かなりの人見知りである。
 そんな礼美に、知っている人が全くいない空間に入っていく勇気はなかなか持てるものではない。

 しかし、せっかくここまで来たのだ。
「あとはこの扉を軽く押すだけ。私はまた美味しいお酒や面白い人々に出会えるかもしれない」
「もし失敗したって大丈夫。あのどん底の時代を思えば大したことない」

 お酒の勢いも借りて、礼美は恐る恐る扉を開いた。

 軋んだ音が、賑やかな店内に響く。

 数名の客がちらりとこちらを見て、またすぐにテーブルに向き直る。
 思っていたよりも大きな音で注目を集めてしまったことに、礼美は戸惑いを隠せない。


 礼美はキョロキョロと辺りを見回しながら、明らかに「初めてです」という雰囲気を醸し出して、店内に入っていく。

 バー・ツクシは「Lの字」の形をしたカウンターがあり、その内側に初老のマスターが立っていた。
 そして、店の隅にはシンプルなドラムセットが置かれている。パール製でタムタムが一つの簡素なものだ。礼美はそれに目を取られながらゆっくり店内に進む。

 マスターは「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」とグラスを拭きながら話しかける。

 礼美は奥から四番目の席に座ることにする。
 一番奥の席には明るい茶髪の若い女性が、その隣には恰幅のいい男性がおり、二人で会話を楽しんでいる。おそらくカップルか夫婦なのだろう。仲睦まじい様子が伝わってくる。
 恰幅のいい男性の、隣の隣に座る。
 男性はこちらに気づくと、笑顔で小さく会釈をしてくれる。礼美も返す。
 少しだけ緊張が解けた。

 礼美は目の前に立つマスターに恐る恐る尋ねる。
「あの、私、カクテルとか全然わからないんですが、大丈夫ですか?」
「もちろんです。もう当店の常連さんは生ビールとか角ハイボール、レモンサワーばっかりです。逆に初めての方はカクテルを頼まれる方もいますけど、最終的におしゃべりの場みたいな感じになりますね。何か味とか希望があればお作りできます」
 マスターはおそらく様々な一見さんから聞かれてきたであろう質問に笑顔で答える。

「ありがとうございます。それでしたら、ジンジャーハイボールをお願いします」
「かしこまりました。ウイスキーは角でよろしいですかね。あと当店のジンジャーエールは辛いのしかありませんですが、大丈夫でしょうか」
「あ、はい。おまかせします。飲んでみます」


 礼美とマスターのやりとりを眺めていた、隣の隣の男が微笑ましそうに言う。
進藤しんどうさん、半年前に俺が初めて『バー・ツクシ』に来た日とめっちゃ重なりますね」
「そういえばそうでしたね」

 進藤と呼ばれたこの店のマスターは、レモンを切りながら楽しげに笑い、礼美に説明する。
「この横にいる男性もね、半年前に突然フラッと来られて、もうすっかり常連さんになってくれたんですけどね、この方が最初に来られたときと全く同じ感じだったんですよ」

「すみません。つい。俺も初めて来た時に、マスターの進藤さんに全く同じような質問して、しかも一杯目の注文がハイボールだったのもあって、懐かしいなーって」と、恰幅のいい男は申し訳なさそうな笑顔で話す。
 そのお客の前には緑色の瓶が置かれている。何のお酒なのかはわからない。

「しかもこの店で運命的な出会いがあって、彼女までできてしまったんですよ。ねぇ」と進藤は付け加える。

 隣の席の若い女性がこちらを見て軽く手を振ってくれて、礼美は少し目を丸くしながら軽く会釈をする。やはり彼女さんだった。
「この店で会ったんですね……すごい」

 進藤はマドラーを軽くステアし、レモンをグラスの縁にひっかける。

 目の前にコースターが置かれ、マスターはその上に出来上がったジンジャーハイボールを載せて近づけてくれる。その一つ一つの所作に、礼美は目を奪われていた。

「では、すみません。いただきます」といって、口を付けた。

「えっ……すごい美味しい」
 礼美はこの日、三度目の感嘆の声を上げた。

 どうやら礼美は自分で思っているよりもお酒が好きなようだ。
 ウィルキンソンの辛口ジンジャーエールで作られているバー・ツクシのジンジャーエールは辛口で個性が強い。

「ありがとうございます。お口にあったようなら何よりです」
 マスターの顔が綻ぶ。

「ここの酒と雰囲気最高なんで、本当に常連になっちゃいます」と恰幅のいい男は笑い
「アンタもそうだもんね」とその彼女も、男を指でつつきながら笑う。

 こうして「一見さん」の礼美と、一番奥の席のカップル、マスターの進藤の四人で話が盛り上がっていく。

「そうだ、申し遅れました。私、このバーで店長やってます。進藤しんどう正信まさのぶと申します。これからもたまに来てくれると嬉しいです」
「はい。藤吉ふじよし礼美れいみです。よろしくお願いします」

「礼美……かっこいい名前だね! 私、高木たかぎしのぶ。よろしく。んで、このデカいのが越智おち弘高ひろたか
「どうも、越智です。この店では『おっちゃん』、この人からは『ヒロ』って呼ばれてます。よろしくお願いします」
「ありがとうございます。高木さん、越智さん、よろしくお願いします」

「私は忍でいいよ。呼び捨て歓迎」
「えと、それなら、忍さん、で。なかなかいきなり呼び捨ては……」
 礼美は少し困ったように返す。

「残念ー。礼美さん、年いくつ?」
「私は、二十九です」

「ええっ! 見えない! ウチらより先輩だ!」
 と忍は目を丸くする。

「えっ……『ウチより』ということは」と礼美は思わず声に出してしまう
「ふふふ……俺がこの店の最年少、二十四歳です」
 越智は得意げな顔を見せ、これには他の常連客からも笑いが漏れる。

 礼美は口を開けて固まってしまう。
 このリアクションを見て越智は笑いながら頭をかき、忍は
「礼美さん、正直だねー。おっちゃん! 残念!」と高笑いをする。
 進藤や他の客もつられて笑い始める。

 礼美はハッと我に返り
「あっ……越智さんごめんなさい。その、貫禄が……」
 と謝ると、越智は「ぜんぜん! 昔から言われ慣れてるんで!」と笑い飛ばす。

 このやり取りをきっかけに、礼美はバー・ツクシの空間に一気に溶け込んでいった。

 忍と越智は、二人とも愛知県の同じ児童養護施設で育ったと言う話をしてくれた。
 元々二人は知り合いであり、バー・ツクシで知り合ったというわけではなく、奇跡の再会を果たしたのだと言う。
 思春期の頃に二人がグレていたという話、忍が水商売をしていたときの話、越智の多忙すぎた職場の話など、刺激的なエピソードの数々を聞かせてもらった。

 礼美は、この日知り合ったばかりのカップルに自分の過去の話をしていった。
 地獄の結婚生活を経てバツイチになった話、それに伴ううつ病でプロオーケストラを辞めた話、三年半も療養していた話……
 そして現在は回復し駅前の音楽教室で講師として楽しい日々を過ごしているという話だ。

 忍と越智、そして進藤は、話を遮ったりすることなく、じっと礼美の話に耳を傾けていた。

「私は、本当に実家の家族仲は良好で、今のお仕事にもすごく恵まれてるので、お二人ほど大変な思いはしていないのですが」と礼美が言うと
「いやー! そんな! 礼美さんもめちゃくちゃ大変っすよ」と越智は即座に否定する。
「私は、礼美さんの立場のがキツいかも……」と忍も眉間に皺を寄せる。
 四人の間に静かな空気が流れ始め、礼美は気まずそうな表情を浮かべる。

「人生の苦悩は千差万別、ってとこでしょうか」
 進藤は独り言のようにポツリと言う。
「私も皆さんの倍以上生きていますから、皆さんほどではありませんが色々ありました」

「若い頃に事業で失敗して仲間たちが離れていったり、当時の親友からお金を騙し取られたり、当店の最初の常連さんが三十四歳で夭折したり……」

「私には、自分を支えてくれる妻がいたので耐えられました。もし彼女がいなかったら私は……どうなっていたかわかりません」

「一年前までは、いやほんの一ヶ月前までは幸せの絶頂だったのに、一気にそれが崩れ去ってしまう……人生は案外そういったことで溢れているものですよね」

「だから私は常に、今の生活を『有難い』と思いながら生きています」

「『今日も妻の美味しい手料理を食べられた』とか、それこそ『今日も忍さんと越智さんが来てくれたな』、『藤吉さんが初めて来てくれた』とかね。そして『今日も無事に過ごせた』と思いながら寝床につくのです」

 遠くを見ながら話す進藤の話を、三人は黙って聞いていた。
 他の席では、他の常連客同士が笑い話をしており、時折笑い声が聞こえてくる。そのため、店全体が湿っぽい空気になることはない。

「まぁ、皆さんが来てくれることを、私はこれだけ嬉しく思ってるんだよ、ってことです。ぜひ今後もご贔屓にお願いします」
 と進藤は笑顔で締めくくった。


「そういえば、礼美さんって音楽家なんだよね? どういう楽器をやってるの?」
 先ほどの話を思い出したように、忍は尋ねる。

「専門はヴァイオリンです。最近はピアノを教えることが多いかな。一応ギターとかベースとかも……広く浅くって感じでやってます」
「すげえ」と越智は目を見開く。
「すごっ! なんでもできるんだ!」

「えっ、じゃあさ、『アレ』も叩けるの?」
 忍が人差し指を向ける先には、バー・ツクシのドラムセットがある。

「はい。最近あまり叩いてませんが、一応」

「うおおおっ! マジか!」
 越智は目を輝かせ、驚いている。

「ちょっと! ライバル出現じゃん?」
 忍もどこか嬉しそうに、越智に話しかける。

「このデカいのも、スゴいドラマーなんだ。ちょっと、礼美さんの腕前見せつけてやってよ」
 忍は得意げな表情で礼美に言う。
「おい、ハードル上げんなってー」
 と言いつつも、越智もまんざらでもない様子だ。


「……では、お言葉に甘えて」
 礼美はスッと立ち上がると、背筋を伸ばしてドラムセットへと向かう。

 越智と忍は大喜びでその姿を見つめ、他の常連客も「おい、あの子……」とざわついている。
 バー・ツクシの全ての客が、礼美のステージを楽しみにしている。

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