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「ツイスト・イン・ライフ」第十一話

第一話:松尾誠司 その一
第二話:佐野涼平 その一
第三話:越智弘高 その一
第四話:藤吉礼美 その一

第五話:松尾誠司 その二
第六話:佐野涼平 その二
第七話:越智弘高 その二
第八話:藤吉礼美 その二

第九話:松尾誠司 その三
第十話:佐野涼平 その三

第十一話:越智弘高 その三


「いやぁ、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。すぐ復帰できると思います……多分」
 入院中の病室で、越智おち弘高ひろたかは弱弱しく笑う。視線の先には見舞いに来ている店長とエリアマネージャーがいる。

 越智が倒れた。途中から自分が何を喋っているのかわからなくなり、その後すぐに、重い貧血のようなめまいとともに意識を失い、ロッカールームで倒れこんだ。
 このとき、越智は十二連勤目だった。
 すぐに店長とアルバイトが救急車を呼び一命を取り留めたが、心不全の一歩手前だったという。
 こうして越智は二週間の入院生活を送ることとなった。
 
 見舞いに来た二人に対し、越智の主治医は「働かせすぎだ」ということと「彼が助かったのは奇跡で、亡くなってても不思議ではなかった」ということを口酸っぱく説明していた。

 この二週間は越智にとって長い時間であった。正社員になって六年、アルバイトを始めてから九年、これほど長い休暇を取ったことはない。
 そしてこの二週間で「もうあの店には戻りたくない」と考えている自分に気づいた。仕事を続けていける自信がなくなっていたのだ。
 心が折れるという感覚を、彼は生まれて初めて味わっていた。

 越智は病院から、自身の育った児童養護施設「青桜せいおうさと」に電話をかけた。
「お忙しいところ申し訳ありません。里の卒園生の越智弘高と申しますが。あっ、ハイ、そうです。ヒロです。ご無沙汰してます」

 電話口からは、職員からの元気のよい声が聞こえる。
「お電話ありがとうございます」と淡々と電話を取ったかと思えば、名前を伝えるなり
「えっ! もしかしてヒロくん?」と声が一オクターブくらい上がった。
電話口の職員と、ひとしきり世間話をした後

かえでさんっていますか? 代わってもらえませんか?」と聞くと
「いるよ! ちょっと待っててね!」と言い、保留音の「愛の挨拶」が流れる。

 保留音が止まるなり
「ヒロー! ちょっとー久しぶりじゃん!」と受話器から少し音割れした声が聞こえる。
 電話に出たのは越智が一番懐いていた職員の中谷なかたにかえでだ。
「相変わらずよく通る声だな」と苦笑いしながら、越智も挨拶をする。

「ヒロ、頑張ってる? 元気なの?」
「えっと……実は過労で入院しちゃいまして」
 と越智は笑いを含みながら話す。
「ええええええ!」
 電話口の楓の声は裏返っている。

「なんか心不全の一歩手前だったそうで。危うく死んでたかもー、なんて。ハハハ」
 と軽く話すも、電話口から反応は返ってこない。

「もおおおおおおお! アンタいつも頑張りすぎなのよ!」

 楓の声色が変わっている。まさか泣いているのか。
「ごめんね、取り乱して。私の体育大学時代の友人も、ひとり過労で亡くなってるの……だから……」

「そうだったんですね。冗談ぽく言ってごめんなさい」と越智はすぐに謝る。
「いいの。あなたもつらかっただろうし」
 楓は鼻をすすりながら答える。

「あの、今回電話したのは……まぁ簡単に言えば相談なんですけど、なんか言いにくいというかちょっと子どもみたいで恥ずかしいんですけど」
「いいんだよ。私の”子ども”なんだから。何でも話して」

越智は一呼吸置き
「ありがとうございます。じゃあ、ちょっとまとまらない感じで話しますけど、聞いてください」

「えっと、俺、もう今の仕事辞めようかな……って思っていまして」
「まぁ、もちろん次の働き口もまだ全然決まってないんすけどね……」
「うーん、何というかな。”辞めてもいいよ”って誰かに認めてもらいたいんですかね……背中を押してもらいたいっていうか」

「俺、正直怖いんすよ。仕事を辞めることが」

「高校生のバイトからずーっとハンバーガー屋しかやってこなくて、ここを辞めて今後どこが雇ってくれるんだろうって思ってて」
「あの名古屋のグリージー・バーガーでバイトを始めたときは確かに『俺にはココしかない』って思えたんです。でも結局そこでもダメだったってなると、どうしたらいいのかなって思い始めて」

「こんなこと自分で決めろなんてのは、百も承知です。俺は甘えてると思います。でも、楓さんには話を聞いてもらいたくて……」


 楓は静かに越智の話を聞いていた。
 ところどころ、優しく相槌を打ちながら。
 そして楓もゆっくりと、ひとつひとつ答えていく。


「んと、そうだね。まず、仕事を辞めていいかって話だけど、すぐに辞めていい、っていうかやめるべきだと私は思う」

「私も小さい頃からずっと体育会系だったからさ、なにかを途中で投げ出したり逃げたりするのってカッコ悪いなって思ってた時期あるんだけどね」

「……そういえば亡くなった友達も、典型的なそのタイプだったな」

「最近は全然そうじゃないんだ。逃げていいって思う。むしろ逃げなさいって思う。友達が亡くなって、逃げても投げ出してもいいって思うようになった。だって一番大切なのは自分自身なんだから」

「何かあったときに会社が守ってくれるわけじゃないのよ」

「そして、少なくともあなたは『投げ出す』とか『逃げ出す』とかじゃないと思うの。だって過労になるまで、その仕事と向き合ったんだよ。変な言い方かもだけど……そこは自信を持ってほしい」

「ごめんね。私も大学出てすぐに『里』で働き始めて、転職ってのをしたことがないから、それを肌で感じたことがないんだよね。だから……あまり参考にならないかもしれない。ごめん」

「私の転職した友達の話だけど、『転職すると人生変わる』って言ってたっけな。『視野が広がる』とか『会社は一つだけじゃないって思える』とか、言葉だけだとちょっと当たり前に思えるけど、多分肌で感じたんだろうね」

「少なくとも私は思う。仕事辞めて、少し休憩してみたらいいんじゃないかな?」
 そして最後にこう付け加えた。


「あなたの頑張りはみんなが知ってるよ。ま、一番よく知ってるのは私なんだけどね」


 越智はスマートフォンを握りしめ、楓の言葉を噛み締めていた。やっぱり、楓さんと話せてよかった。
「楓さん、ありがとうございます。俺、心をでっかく持ててなかったんだな。忘れてた」
 越智は十一年前に楓からかけられた言葉を思い出していた。
「ヒロ……」


 そして越智は退院後、勤務先の店長とエリアマネージャーに退職したい旨を伝えた。
「身体の限界で、またああいうことがあるかと思うと怖くて仕方がない。皆に迷惑をかけるというのは百も承知だが、分かってもらえないだろうか」と話した。
 店長もエリアマネージャーも一度は顔を見合わせたが、越智の身体のことを考えると到底引きとめるわけにはいかなかった。

 こうして、越智は無職になった。あまりにもあっけない幕切れであった。正社員六年間は忙しさのあまりお金を使う機会もほとんどなかったため、幸い何もせずにしばらく暮らせるくらいの貯金ができていた。

 越智は現在、千葉県に住んでいる。最後に勤めていた店舗が千葉にあったため、その近くにアパートを借りて住んでいるというだけで、愛知県で育った越智にとっては全く馴染みのない場所である。
 近いうちに愛知に引っ越そう、と思っているのだった。

 ある日の夕暮れ時、越智は思い立って今までしたことのなかった家の周りの散策をした。
 今住んでいるアパートは駅から歩いて十五分ほどの住宅街で、歯科医や美容院が多い。十分ほど歩けば駅前のアーケード商店街に辿り着く。
「なるほど、家の周りにはこれほど多くの店があったのか」
 と越智は思っていた。忙しなく通勤し、疲労困憊で帰宅する毎日。
 自分の家の周りにどんな店があるかなんて気にしたこともなかった。

 途中に、緑の生い茂る公園があった。もう日も傾いており子どもたちの姿はまばらだ。きっと、春の桜は見事なものだろう。
 公園を通り抜けて二十分ほど歩き続けていると隣駅に到着した。ここから線路沿いを歩いて最寄り駅に着いたら散歩を終えようと思った。

 線路沿いを歩いていると、ひとつの無機質な細長いビルが目に留まった。
 扉にかけられた”OPEN”というネオンが弱々しく赤い光を放っている。

 ビルの看板に目をやると「バー・ツクシ」と書かれている。

「こんなところに……バー?」
 越智はお酒は全く詳しくない。単純に仕事が忙しかったため、飲み会など数えるほどしか参加したことない。
 それでも越智は「お酒が強い」という自覚はあった。その何回かの飲み会の中で、顔色一つ変えずにハイボールを十五杯ほど枯らして同卓の人間から恐れられた経験があるためだ。

「何事も経験だ」と思った越智は、吸い寄せられるようにその扉を開く。
 その中には、ようやく人が一人通れるほどの階段が続いている。バー・ツクシはどうやら地下一階にあるらしい。恰幅のいい越智はいささかの窮屈さを感じながら降りて行った。

 階段を降りると木の扉がある。この扉の色は、元からこの濃いこげ茶色なのだろうか、年月を経てこの色になっていったのか、どちらかは分からないが、何十年もこの店を守ってきているのだという貫禄がある。

 そのまま越智は扉を開け、少し軋む音とともにバー・ツクシに入った。
 バー・ツクシは「Lの字」の形をしたカウンターがあり、その内側に初老のマスターが立っていた。
 そして、店の隅にはシンプルなドラムセットが置かれている。パール製でタムタムが一つの簡素なものだ。越智はそれに目を取られながらゆっくり店内に進む。

 マスターは「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」とグラスを拭きながら話しかける。
「は、はい。一杯だけ飲ませていただきます」
 不慣れな越智は緊張のためか、ぎこちない仕草で入っていき奥の席に座ろうとする。

 そのときマスターは申し訳なさそうに話しかけてきた。
「あ、ごめんなさい。一番奥は常連さんの席なんです。その人、そこの席じゃないとちょっとヘソを曲げてしまうんですね。申し訳ないんですが、一つ隣にしていただけますか」
「あ、そうなんですね! 全然大丈夫です!」
こんなやりとりがあり、越智は少し緊張が解けた。

「僕、正直カクテルとか全然わからないんですが、大丈夫ですか?」
 越智は恐る恐る尋ねる。
「もちろんです。もう当店の常連さんは生ビールとか角ハイボール、レモンサワーばっかりです。逆に初めての方はカクテルを頼まれる方もいますけど、最終的におしゃべりの場みたいな感じになりますね。何か味とか希望があればお作りできます」
 マスターはおそらく様々な一見さんから聞かれてきたであろう質問に笑顔で答える。

「じゃあ……まずはハイボールいただけますか?」
「はい。ウィスキーは角でよろしいですか?」
「そうだな……何か他にオススメがあればそれを飲んでみたいです」
 普段ならば角でいいですと答えるところだが、越智は思い切って聞いてみる。

「角はやっぱりハイボール用として本当にオススメなんですけど、そうですね、最近人気なのはこのジェムソンですかね」
そう言いながらマスターは棚から緑色の瓶を取ってテーブルの上に置く。

「初めて見ました。飲んでみたいです」
「では、ジェムソンをソーダ割りでお作りしますね」
 マスターは慣れた手つきで氷をグラスに放り込むと、マドラーで氷の入ったグラスをステアする。メジャーカップにジェムソンを注ぎ、そのカップからワンショットをグラスに入れる。
 炭酸水の栓を抜き、グラスに沿わせるように注ぐ。マドラーで一周ステアして完成だ。
 その所作に見惚れてしまい、シェイカーを振る姿も見てみたいと思う。

「どうぞ」

 マスターはコースターを滑らせるようにして越智の目の前に置き、その上にできあがったジェムソンのハイボールを載せる。

「いただきます……」
 越智は恐る恐るグラスを手に取り、口をつける。

「……ウソだろ」
 これまで居酒屋で飲んだことのあるハイボールとは全く違う、滑らかな口当たりに、越智は思わず感嘆の声を漏らす。
「美味しい……美味しいです!」
「ありがとうございます。お口にあったようなら何よりです」
 マスターの顔も綻ぶ。

 その後、バー・ツクシには数名の常連客が入ってきた。
 みな別々のタイミングで入店してきたが、互いに顔見知りのようで、仲良さそうに談笑している。
 越智も気づけばその中に混ぜてもらっていた。来店初日に「おっちゃん」という愛称まで付けられていた。彼の名前とその貫禄が由来だ。「お」にイントネーションがくる。

 この日から、越智はこのバー・ツクシに通うようになった。
 こんなに贅沢な時間の使い方があるのかと驚き、魅了されていった。

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