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「ツイスト・イン・ライフ」第二話(全二十二話)

第一話:松尾誠司 その一

第二話:佐野涼平 その一


「そもそもこの案件、引き受けたのが間違いだったんじゃないですか……」
 二十一時をまわり、暗くなったオフィスの片隅で佐野さの涼平りょうへいは呟く。
「正直、俺もそう思うよ。でも営業と管理職がゴーサイン出しちゃったもんだからなぁ」
 向かいの席で機械設計課の加藤かとう係長も小さく本音を漏らす。

 佐野涼平は国内大手の産業機械メーカーの機械設計エンジニアである。
 佐野は東京工業大学で機械工学の修士号を取り、この企業に入社した。
 研究職として新卒採用され、産業用ロボットのアーム先端に取り付ける部品の軽量かつ剛性に優れた材料の研究を行っていた。
 しかし会社の意向により、入社三年目となる今年の四月にこの機械設計課へと異動してきた。

 大手企業の機械設計といえば、まさにエンジニアの花形という印象だが、佐野にとってこの機械設計課への異動はかなり不本意なものであった。
 なぜなら佐野は「研究に集中できる」という企業側から直接の熱心なアプローチを受けて入社を決めているからだ。それが結局、初年度はほぼ研修で終わり、二年目に先輩社員の助手のようなちょっと研究っぽいことができたかと思えば、三年目となる今年にもう異動だ。
 当然、再び研究所に戻れる保障はないし、それがいつになるかもわからない。

 佐野は「サラリーマンってのは理不尽なもんですねぇ」と様々な思いを言葉に乗せる。
 加藤係長はその裏の思いまでは察知できず、苦笑いをする。
「実際問題、今はまだマシだ。これから部品が届いて、現物が組み上げられてくると、工場からの問い合わせが嫌というほどくる。本当に帰れなくなっていくぞ」

 その日、佐野が帰路についたのは二十二時を回ってからだった。佐野は屋外の喫煙所でハイライトメンソールを一本吸い、デオドラントスプレーを掛けてガムを口に入れながら駐車場へと歩き出す。駐車場に停めてある車のエンジンをかけて、そのまま自宅へと向かう。
 佐野は自宅のドアを開け、忍び足で廊下を歩く。寝室から妻の瑠璃子るりこが出てきた。
「あ、ただいま……慶太けいたはもう寝た?」
「おかえり。今日はすぐ寝てくれたよ。今日も遅かったね」
「そうなんだよー。ちょっと新規開発の仕事で遅くなってさ。しかも『これからもっと遅くなるだろう』って上司が……」

 涼平がダイニングに行くと今日の夕食にラップがかけられて用意されている。電子レンジで温めたらすぐに食べられる。
「悪いなぁ。ここ最近遅くなっちゃって。いつもありがとう」と涼平は申し訳なさそうに言う。
「いいのいいの。お互い様でしょ。前に私がレストランで働いてたときはパパもご飯作って待っててくれたじゃん。特にクローズの日なんて遅かったのにさ。今やってるウェブライターの仕事は、基本在宅でスケジュールとかは必要なミーティングとか以外は自己管理だし、大丈夫だよ」
「いや、ほんとありがとう」涼平は妻のありがたみに感謝していた。

 ホカホカと湯気が立った肉じゃが、小松菜と油揚げの味噌汁、もち麦の混ざったご飯が机に並ぶ。
「今日も俺の大好物だ。最高。いただきます!」
 涼平はまず味噌汁を啜り、全身が温まる感覚に浸る。味噌の柔らかい塩味が疲れを取ってくれる。よく煮込まれた牛肉とにんじんをご飯にバウンドさせて口に入れ、その後に麦飯をかきこむ。眼を閉じてしっかり咀嚼し、幸せを噛みしめる。
「ママの飯は世界一だ……」
 毎日こんな様子の涼平を見ながら瑠璃子は微笑む。


 涼平にとって妻の瑠璃子、そして二歳の息子の慶太は、自身の命よりもずっと大切な存在である。

 詳細は後述するが、涼平と瑠璃子は二人とも実家と絶縁している。だからこそ家族と言う存在は、彼らにとって余計に重みがあるのだ。

 二人が出会ったのは涼平が大学三年生の夏のこと。大学の同級生と飲んだ帰り道でたまたま立ち寄ったバーで、瑠璃子はアルバイトをしていた。この頃の瑠璃子はいわゆるギャルの出で立ちで、日焼けした浅黒い肌が印象的だった。
 涼平はそんな瑠璃子に一目ぼれをした。
 瑠璃子は涼平の二歳年上で、身長が高く面長な顔立ちに、ウェーブのかかった長い茶髪がよく似合っていた。「こんなきれいなお姉さん、俺に振り向いてくれるはずがない」と思いつつも、涼平は瑠璃子に積極的にアプローチをした。その衝動を止められなかった。

 このとき瑠璃子は涼平のことを「ヒョロっとしたヤツだなぁ」というくらいにしか思っていなかったが、涼平も実家と絶縁しているということを知り意気投合した。
 こうしてバーの閉店後に、瑠璃子と涼平は別の店で飲むことになり、そのまま瑠璃子の部屋で身体を重ねた。瑠璃子は、涼平も今まで自分に言い寄ってきた他の男たちと同様にこの一晩の関係で終わるだろうと考えていた。
 しかし涼平はそうではなかった。真剣に交際をしてほしいと瑠璃子に懇願してきた。
 その勢いに押された瑠璃子は困惑しながらも交際を承諾した。不器用ながらも一途な涼平と幸せを育んでいき、涼平の就職を機に結婚することになった。
 今となっては瑠璃子にとっても涼平は命よりも大切なかけがえのない存在となっている。

 遅い夕食を食べ終えた涼平は、食器を水で軽く流してから食洗機に入れ、リビングに向かう。そこには壁にかかったサドウスキーのベースがある。
 それを手に取ってソファに腰をかけると、キング・クリムゾンの『二十一世紀のスキッツォイドマン』の間奏フレーズをなぞる。アンプをつないでいないので、おそらく慶太が起きることもないし近隣住民から苦情を言われることはない。

 ソファで隣に腰かけている瑠璃子が尋ねる。
「その曲って難しいの?」
「うん、少なくとも俺にとっては難しいよ。昔バカみたいに練習したから今は弾けるけど」
「ふーん」


 少し間を開けて、瑠璃子は言った。

「てかパパさ、最近また吸ってる? におうよ」

「あっ……ごめん。仕事遅くなると、つい……ね」
涼平は「あちゃー」という表情で頭をかく。
「そりゃスプレーとガムだけじゃダメだよな」と佐野は心の中で自嘲する。

「妊娠が分かったときにやめてくれたのは嬉しいけど、もうずっと吸わないでほしいんだけどな」と瑠璃子はハッキリと言う。
「うん。そうだよな。ごめん」


 佐野涼平が煙草を吸い始めた理由はただ一つ。

 それは、絶縁した実家の人間に対しての反抗心からだった。
 彼は高校卒業を機に実家を出て以降、一度も両親と姉に会っていない。

 佐野は開業医の家庭に生まれ、両親と姉一人の四人家族だった。
 医師の父、看護師の母、一歳年上の姉、そして涼平である。
 父親は涼平と姉の香苗かなえを医者にしようと必死に教育していた。自らのクリニックを継いでいってもらいたいという願いがあった。
 涼平の一歳年上の姉、佐野さの香苗かなえは日本でも指折りの勉学の才を持っており、日本一の女子中高である桜陽おうよう学園に通い、東京大学の理科三類に現役で合格した。
 涼平は都内の有名男子中学校は不合格となったが、千葉県にある名門の西邦大学付属せいほうだいがくふぞく中学校に合格することができ、ここに進学した。

 涼平は決して学力が低いわけではなく、むしろ非常に高いのだが、姉があまりにも優秀であるため小学生のころから常に比較されてきた。
「香苗だったらできたのに」「香苗だったら簡単なのに」……こうした言葉は涼平の自己肯定感を静かに蝕んでいった。
 いつしか涼平は勉強に無気力な少年になっていった。いわゆる目に見えた反抗期というものではなく「どうせ自分にはムリだ」という無気力感が常に襲い
「どうせ俺が無理でも姉ちゃんが医者になるんだからいいだろ」と思うようになった。

 しかしある日の食卓で、姉の香苗は「理学部の物理学科に進みたい」と話し始めた。東大は入学後に学部配属があり、理科三類から全員が医学部に進学するわけではない。
 教養学部の講義で物理学に魅せられていった香苗は、是非研究者の道に進みたいのだと、目を輝かせてその希望を熱く語った。涼平がそんな香苗の姿を見たのは初めてだったかもしれない。
 それを聞いた父親は、明らかに残念さを隠しきれていない様子だった。しかし香苗の才能を誰よりも知っていたため到底断ることなどできず
「好きにしなさい」と肩を落としながら話した。母親は、自分の娘が本当に自分自身で夢を見つけたということに内心嬉しそうにしていた。
 涼平が「そういえば姉ちゃん、大学入ってからずっと家にいないけど、彼氏でもできたの?」と聞いたところ
「違う違う! 最近は図書館で勉強。面白くって止められないの」と、香苗は笑いながら『ファインマン物理学』という大判の本を見せてくれ、楽しそうに解説してくれた。

 この日から、父の涼平に対する「医者になれ」というプレッシャーは、これまでとは比にならないほど強くなっていった。

 そして涼平が高校三年生となり、大学受験を控えた年に、家族との関係は決裂した。

 父は相変わらず無気力状態の涼平に勉強を強要し続けた。しかし涼平は模試でことごとく不合格濃厚という「E判定」を取ってきていた。
 父からのプレッシャーによって涼平はストレスで胃に穴が開いた。そして受験を間近に控えた一月下旬のある日のこと
「なぁ、またE判定か」父親は模試の結果を見ながら話す。
「なぜコイツはできるようにならない」と明らかに焦りで頭を抱えている。

「はい。すみません」涼平はこのとき既に家族に対して敬語になっていた。

 そして、その時が来た。


「あーあ、お前みたいな失敗作、生まなきゃよかったよ」


 このとき、涼平は何を言われたのか聞き取れなかった。理解できなかったのだ。しかしその意味を咀嚼した瞬間、涼平の心はポキンと折れた。

 涼平は何も言わず父の部屋を出て、そのまま家を出た。もう外は暗くなっていた。耳が痛くなるような一月の強風の中、携帯電話の電源を切って足早に駅へ向かい、中央線に乗った。車中で「失敗作」という言葉が頭の中で何度も繰り返されていた。


 気がついたときには高尾駅にいた。一月下旬、夜の高尾は凍りつくような寒さだった。
 このまま酒を飲み、どこかで野垂れてやろうと思った。強い酒で酔っぱらうと眠れるということは未成年の涼平でも当然のごとく知っていた。
 そして涼平は駅前のコンビニでブラックニッカの小瓶を買った。寒さと緊張に震えながら、おそるおそるブラックニッカを口に含むと、一口目は勢いよく吐き出してしまった。しかし二口目は舌と喉に襲いかかる焼けるような感覚を我慢して飲み込んだ。
 すぐに全身がほてり、平衡感覚が無くなってくる。このまま眠れるかと思っていたが、酒が思考をゆがませたせいか、涼平は突如として言いようのない恐怖に襲われた。「俺は死ぬのか」と思うと涙が止まらなくなった。

 そうして涼平はふらつきながら交番に駆け込み、泣きながら「高校生なのに酒を飲みました。逮捕してください」と言った。涼平の顔面は寒さと酒と涙で真っ赤になっていた。
 交番の警官は、怒ることもなく涼平の心配をしてくれた。水を飲むかと聞き、椅子に座らせてくれた。鞄から出てきた飲みかけのブラックニッカの瓶を見て「これをどうやって飲んだの?」と聞かれたので
「瓶から直接飲みました」と話すと、警官は「すごいな……。大人でもそんなことできる人は少ないよ」と苦笑いした。

 警官は涼平になぜ酒を飲んだのかを尋ねた。涼平は引き金となった父からの一言や、それまでの経緯を話した。すると警官は見る見るうちに顔が赤くなっていった。
「いくらなんでも酷い。俺が君のお父さん叱りつけるよ」

 そして、交番から涼平の家に電話をかけた。どうやら実家でも捜索願を出していたようだ。電話口で母親が号泣していた。警官は「ちょっとお父さんに代わってもらえますか」と優しく母親に頼み、父が電話を代わると表情は一変、電話口で父親に対して厳しい口調で責め立てた。
 最後には「あと少し発見が遅れてたら大変なことになってたかもしれませんよ!」と少し盛って釘を刺してくれた。

 気づけば深夜の二時だった。終電はとっくに無くなっており、その日は始発まで交番の長椅子で仮眠を取らせてもらえることになった。
 翌日、警官にお礼を述べ、涼平は帰宅した。帰りたくなかったが、そのときだけは家に帰る以外に生き延びる方法が見つけられなかった。

 家の扉を開けると、母親と姉の香苗が涙ながらに出迎えた。父は俯いていた。香苗は「涼平がこんなつらい思いしてたのに、自分のことばっかりでごめんね」と抱きしめてきた。

 涼平はそれを振りほどいて
「迷惑をかけたことは謝ります。でも俺はもう限界です。この家族に俺は不要な存在だと思うし、俺も一緒に暮らしたくありません」と言い、これまで溜まっていた不満を全てぶつけた。一度言い始めると責める言葉は止まらなくなり、涙も溢れてきた。
 香苗と母親は涙ながらにその言葉を受け止めた。父も相変わらず俯きながら、黙って話を聞いていた。

 それ以降、涼平は家族と食卓を囲まなくなった。
 涼平は貯金を崩して自分用の電気ケトルを買った。
 母親はよく涼平の大好きなオムライスを作った。香苗は早く家に帰ってくることが増え、宅配ピザを頼んだりした。しかし、涼平はそれらを頑なに拒み、自分の部屋でカップラーメンやおにぎりを食べた。

 結局この年、涼平は大学に合格できなかった。
 高校の卒業式もあったが「お願いだから誰も来ないでください」と言った。

 そして、とにかく家を出たい一心で半ば強引に神奈川のワンルームのアパートに入居を決めた。
 このとき父親は、決して少なくはない額を涼平の口座に振込んだ。

 実家を離れた涼平は、見違えるほどエネルギーに満ち溢れ始めた。そして、これまで心の奥底に眠っていた実家の人間に対する嫌悪感と反抗心が爆発した。「あの親父、一発殴ればよかった」と何度考えたことだろう。
 このエネルギーと反抗心が勉強に向かった涼平は、一日に十四時間の猛勉強を行い、見事に東京工業大学に合格することができた。
 涼平は合格発表を見て、ベッドに仰向けで倒れこんだ。この年の受験では、前年度に不合格となっていた私立大学の医学部にも何校か合格したが元々進学するつもりはなく、迷うことなく東京工業大学への進学を決めた。


 このような経緯で涼平と絶縁中の実家は、耳鼻咽喉科のクリニックを経営している。
 そのため父親は、喫煙が原因で苦しんでいる数多くの患者を診てきており、煙草という存在を憎んでいた。
 涼平は中学生の頃よりこの父から「煙草なんて吸った人間は佐野家の敷地を跨がせない」と耳が痛くなるほど聞かされてきた。
「だったら二度と跨がなくて済むように喫煙者になってやろう」と、涼平は二十歳の誕生日から煙草を吸い始めた。

「参ったな……学生の頃めっちゃヘビースモーカーだったせいか、煙草やめて何年経っても吸いたくなっちゃうんだよなぁ」
 涼平は頭を抱えている。油断ができるとすぐに吸いたくなってしまうのだ。

「でも出会った頃はママだって煙草吸ってたな。ピアニッシモの細いやつ」
 ということをふと思い出した。
 涼平はどこか「自分だけがまだ子どものままだ」という気持ちになり、少し情けないような気持ちになっていた。

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