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「ツイスト・イン・ライフ」第四話

第一話:松尾誠司 その一
第二話:佐野涼平 その一
第三話:越智弘高 その一

第四話:藤吉礼美 その一


「ん。ちょっと疲れたね。休憩にしよっか」
 藤吉ふじよし礼美れいみは生徒に笑いかける。
「私、コンサートまでに上手くなれますかね?」
 不安そうに問いかける生徒に対し、変わらず笑顔で答える。
「なれるよ! 実際、牧村まきむらさんはすごく上手くなってるからさ」
「ありがとうございます。れいみ先生にそう言ってもらえるとすごく心強いな」
 礼美のレッスンを受けている生徒は、中学生の牧村まきむら陽菜ひなだ。ピアノを礼美に教わっている。

 藤吉礼美は駅前にある音楽教室で講師を務めている。
 担当している楽器はヴァイオリン、ピアノ、サックス、ギター、ベース、ドラムだ。
 端的に言ってしまえば、礼美は音楽の天才である。絶対音感を持ち、音楽家の両親によって幼少の頃から英才教育を受けてきた。
 習っていない楽器であっても、しばらく触っているだけですぐにコツを掴み、演奏できるようになった。
 礼美は楽器の腕前も音楽の知識も、講師陣の中で群を抜いている。そして何よりも彼女の優しく的確な指導は、幅広い年代の生徒から絶大な人気を誇っている。

 礼美は東京音楽大学を卒業している。付属高校からの持ち上がりだ。著名なヴァイオリニストに師事し、高校・大学ではヴァイオリンを専攻した。
 今でも”藤吉礼美”とインターネットで検索すると数々のコンクールでの受賞歴が出てくるほどの音楽家だった。



 こうして礼美は大学卒業と同時に、国内屈指の「栄光交響楽団」に入った。まさに鳴り物入りといった形だった。

 しかしそこからの生活は、一般的にイメージされる華々しい音楽家としての生活とはほど遠いものだった。
 礼美が入団した当時の栄光交響楽団は、ドロドロとした政治的な人間関係のしがらみが渦巻く団体であった。先輩団員からの嫉妬ややっかみ、無益な派閥争いなど、礼美はこれらに次第に心を病み、体調を崩しがちになった。

 そんなとき、ひとりの男性団員が手を差し伸べてきた。それが後に夫となる拓斗たくとである。

「藤吉さん、最近大変そうだけど大丈夫かい」

 きっかけはそんな声かけだった。入団したばかりで味方という味方もおらず心細かった礼美にとって、その声はとても嬉しかった。
 そうして拓斗による猛アプローチの末に二人は交際することになり
 そのまますぐに入籍をした。


 しかしこれは礼美にとって地獄の始まりだった。
 
 入籍とほぼ同時に、拓斗の態度は豹変していった。
 拓斗はもともと歪んだ支配欲求を持ち合わせた男であった。そして拓斗は誰よりも礼美のその才能に嫉妬していた。
 弱った礼美を間近で見ているうちに、彼の嗜虐心は徐々に肥大化し、手が付けられなくなっていった。

「だからお前はダメなんだ」
「音楽以外何もできないくせに」
「この社会不適合者が」

 いつしか拓斗は礼美に対し、こういった言葉を際限なく投げつけるようになった。
 最終的に礼美が泣き出したときには、拓斗は礼美を優しく抱き寄せ
「俺だって言いたくて言ってるわけじゃない」
「でも俺が言ってやらないとお前はもっとダメになるから、お前のために言うしかないんだ」と言うのであった。

 周りの楽団員に対しても、礼美がいる前で「俺の嫁は本当にバカなんだよな」と礼美をあざ笑うような言葉を吐き、彼女を笑いの種にした。
 礼美は夫からの棘のある言動が心底つらかったが「拓斗さんにこんな風に言われる自分がおかしいのだ」と信じて疑わなかった。

「自分が不甲斐ないせいで拓斗さんを怒らせてしまうのだ」と。

 もちろん、そんな日々は長くは続かなかった。ついに耐えきれなくなった礼美の心はバラバラに砕けてしまった。

 

 礼美の心が壊れた「本当の原因」に気づいたのは、礼美の姉である藤吉ふじよし胡桃くるみだった。
 ある日、胡桃が「実家からお見舞いの品を渡したい」と言い、礼美夫妻の部屋を訪れてきた。礼美の姉が来るということは拓斗も知っており、彼は外出していた。

 胡桃は、床に伏した礼美の姿を見て愕然とした。
 その瞳は乾ききり、瞳孔が開いているようにさえ見えた。
 痩せこけて潤いをなくした頬には涙の跡がうっすらと残っていた。

 胡桃は深刻な表情を浮かべながら
「礼美、余計なお世話でごめんね。あなた、今すぐ栄光交響楽団を辞めなさい」と伝えた。
 胡桃はこのとき、礼美の体調不良は栄光交響楽団が一番の原因なのだと思っていた。まさか自分の妹が、その配偶者からの仕打ちでこうなったとは夢にも思っていなかったのだ。

 すると礼美は天井から視線を動かすことなく、か細い声でこう言った。
「ダメ。イヤなことから逃げるなって、きっと拓斗さんに怒られる」

 その言葉に、胡桃は目を見開く。
「は? えっ? ちょっと、なに言ってんの?」

 胡桃の心臓の鼓動は速くなり、早口で質問を並べてしまう。
「自分の妻がこんな状況になってるのに何で怒るの? え? あの人って礼美に怒るの? ねえ。今も怒るの?」

 質問を終え、我に返った胡桃は「あ……ごめん、私あなたを責めたいわけじゃないからね……」と礼美の手を握りながら言った。

 礼美はその質問に対し
「昨日も怒られちゃった。私ってダメなんだって」と力なく笑った。

 胡桃は顔が紅潮し、呼吸が荒くなっている。

「私はダメ人間なんだって。何やってもダメな女だ、って拓斗さんにいつも言われるんだよね」と礼美は相変わらず天井を見ながら笑い続けていた。


 胡桃は、仰向けになっている礼美の胸に覆いかぶさり、慟哭した。
 礼美は、姉がこんな取り乱したように泣くのを見たのは小学生以来だろうか、と他人事のようにぼんやりと考えていた。


 しばらくして「ただいまー」という男の声が玄関から聞こえる。拓斗が外出から戻ってきた。玄関で靴を脱ぎ捨てるなり、大きな足音を鳴らしながら廊下を歩き、礼美の寝室に入り込んでくる。
「お前まだ寝てんのかよ。本当にだらしない女だな」と拓斗は吐き捨て
「使い物にならないお前のために俺が飯を買ってきてやったよ」と、買い物袋を礼美の枕元に投げつけた。



「そう、わざわざありがとうね」



 拓斗は聞きなれない女の声に驚き、後ろを振り向く。

 拓斗が開け放った部屋の扉の裏から、礼美の姉である胡桃が出てきた。
 胡桃は真っ赤に腫れあがった目で、拓斗を睨みつけている。
 
 拓斗は驚きのあまり腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
「あ、お、お姉さん、ご無沙汰してます。へへ、ま、まだいらっしゃったんですね」
 胡桃は表情を変えず拓斗を見下ろして、時折鼻をすすりながら話す。
「ご無沙汰してますー。すぐに帰ろうと思ったんですけど、ずいぶんとうちの妹がお世話になっているそうで。色々とお話を聞きました。ですから今日は、そのご挨拶がしたくて」


「使い物にならない妹でごめんなさいね?」
 胡桃の語気と睨む力は強くなる。


 この手の男は外面だけは異様な程によく、どこまでも取り繕おうとする。もちろん拓斗も例外ではなかった。拓斗はすぐさま「いやお姉さん。僕はそういう悪い意味で言ったわけではないです」と言い訳を始める。

 胡桃は「じゃあどういう意味で言ったの? その言葉、悪くない意味で使う場面あるんだ? 無学な私にもわかるように教えてくださる?」と詰め寄る。拓斗は顔全体に脂汗を浮かべながら「いや、あの、その」と否定しようとする。

「ていうか、もし仮にあんたが本当に悪い意味で言っていたんじゃなかったとしてもさ、誤解させたらダメだよね。ここまで追い詰めたらダメだよね。ねえ、そう思わない?」
 動揺しきった拓斗に対し、胡桃は毅然とした態度で追い詰めていく。


「あのね……」と言い始めると胡桃は急に言葉を詰まらせ、真っ赤な目元に再び涙を浮かべた。
「礼美にね、あなたとのラインのやり取りを見せてもらったの」
 二人のラインのやり取りには、礼美に対する罵詈雑言の数々が克明に残されていた。
「なにあれ……礼美を人として扱ってないよね」
 胡桃は必死に涙をこらえながら話す。もはや拓斗は何も言えなくなっていた。

「お願いです。今すぐにこの子と別れてください。さもないと、このラインをあなたの親兄弟にも見せます」と言ったところ、拓斗は観念した。


 こうして礼美はすぐに拓斗と離婚して栄光交響楽団を辞め
 精神科を受診した。
 
 うつ病と診断されて半年間入院し、その後三年間は実家で療養した。

 合計三年半にわたる療養生活を経て、二十九歳となった年に、知り合いの音楽教室から声をかけてもらい講師を始めた。
 ここで礼美は栄光交響楽団にいたころとは比べ物にならないほど明るくなり、家族だけでなく生徒や同僚の講師にも冗談を飛ばせるようになっていた。胡桃は「やっと大学生の頃に戻ってきたね」と喜んでいた。



 音楽教室からの帰路、礼美は歩きながら先のレッスンの際に牧村陽菜に聞かれたことが気にかかっていた。それは
「れいみ先生って、何で歌のレッスンはやってないんですか?」
 という質問だった。

「歌……か……」
 思えば、礼美は「歌をやる」ということを考えたことはなかった。

 たとえ仮に「バンドを組む」という機会があったとしても、礼美は確実に何かしらの楽器を担当することになっていたからだ。
 しかも礼美は様々な楽器の技術がプロレベルであるため、歌を担当する機会はきっと今後も現れないだろう。

 陽菜の質問に対してはどう答えるのが適切かわからなかったが、礼美は上記のような事情で「歌をやる」という発想がなかった旨をそのまま話した。

 牧村陽菜は「うわぁー、れいみ先生って本当に天才なんだぁ」と目を丸くした。

「でも私、れいみ先生の声が凄く好きなんだよね。歌ってみてほしいなぁ」と礼美に顔を向けて言った。

「えっ、そんな。初めて言われたよ……。ありがとう」
 礼美は不意の言葉に顔を赤らめた。


「でも私、れいみ先生の声が凄く好きなんだよね。歌ってみてほしいなぁ」

 教室からの帰りの道中、礼美はひらすらこの言葉を頭の中で反芻していた。口角がゆるみ、少しスキップしたり、歩みが早くなったりしていた。
 思えば、結婚していた頃は嫌な言葉ばかりを反芻していた。
 礼美には今の生活がただただ幸せだった。

 そこで思い立った礼美は「ちょっと今日は寄り道するので遅くなるね」と母親に連絡を入れると、帰り道の途中にあるカラオケ店に立ち寄った。
 カラオケにはほとんど行ったことがなかった礼美は、受付で「一人です」というのもとても緊張した。
「おひとり様ですね。お時間はどうなさいますか?」
「えっと、じゃあ一時間で」と少々挙動不審になりながらも受付を済ませた。

 初めての一人カラオケで案内された部屋は十五人は入りそうなパーティールームだった。
「えっ、こんな広い部屋なんですか?」と困惑したが
 店員は「はい、こちらです。ドリンクの注文はそちらのインターホンでお願いします。それでは、ごゆっくりどうぞ」と笑顔で去って行った。
 申し訳ない気持ちはあったが、せっかく来たのだから歌おうとカラオケ用のリモコンを手に取った。
「最近のリモコンは大きいな、中学生くらいの頃に見たやつよりも背が高くなったような。しかも自立してるから画面が見やすい」
 そんな風に新鮮な気持ちで、手慣れないながらもタッチペンで画面を叩きながら曲を検索する。

 勢いでカラオケに来たのはいいものの「何を歌おうか」と迷っている。
 そう、礼美は流行りの歌などはほとんど知らない。基本的にクラシック音楽やジャズ、ブルースなどに囲まれて生きてきた。
 そのため、この画面に並ぶオススメ曲はどれも名前を知らない。
 その昔、学校で友達が歌っていた曲なども、メロディーは覚えていても曲名を知らない。困ったな。と思っていると

「あっ、これ知ってる! お母さんとお姉ちゃんが好きだったドラマの曲だ」

 そう言って選んだのはMisiaの「Everything」だ。
「歌い出しは『すれ違う時の中で』……うん、多分歌える」

 リモコンを操作して曲を予約すると、テレビ画面に大きく曲名とアーティスト名が表示され、懐かしいイントロが流れてくる。

 一瞬で幼少の頃の記憶が戻ってくる。父の車の後部座席に揺られて聴いていたあの日を思い出す。
 画面に歌詞が表示され、息を吸い込む


 すれ違う時の中で


 礼美が歌ったこの「Everything」は、当然のことながら誰にも聴かれることはなかった。カラオケなど十数年ぶりだったため、録音も採点もしていない。
 しかし、もしもどこかのオーディション番組で歌っていたなら、スタンディングオベーションが巻き起こったのかもしれない。そんな歌唱だった。

 こうして礼美は、歌うことの気持ちよさに気づいた。
 世の多くの人々がなぜ「懐メロ」というものに惹かれるのか、なぜいつまでも過ぎ去った時代の曲を聴き続けるのか、その意味がこの「Everything」で少し分かった気がしたのだ。
 あの日の記憶がすぐに蘇る。こんな感覚を与えてくれるのはきっと、その時代に彩りを与えていた流行りの曲たちなのだろうと礼美は思った。

 この後、礼美は高揚感を抑えきれないまま、数少ないレパートリーの中での一人カラオケを心の底から満喫した。

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