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「平壌へ至る道 潜入編」第1話

≪あらすじ≫
北信越地方で活動するヤクザ組織の日本海上での覚醒剤取引を利用し、在日朝鮮人の工作員、鄭相慶は北朝鮮への非合法入国を果たす。
同国の港町、元山で出会った娼婦、チャンスクを妻役とし、相慶たちは食糧運搬を兼ねた新婚旅行者を装い、平壌へと入場する。
日本からのテロリストによる破壊工作の恐れあり、との一報を受けた現地秘密警察、保衛部の捜査員、趙秀賢も相慶たちを追い、両者は平壌の政治機構の中心地、万寿台の金日成銅像前で遂に邂逅を果たす。
相慶の誰も傷つけないことを目的とした、金日成像への落書きは成功するのか。チャンスクと趙秀賢はそんな彼の行為に対し、どのような判断をくだすのか?

第1話


「約束の時間より早いな」
 元山駅構内の世紀末的雑踏にあっても、壁沿いで待っていればいずれ彼女には会える、という見立て通り、チャンスクはそこにやってきた。もともと僅かに白粉を塗っていただけの化粧も落とし、服装も善良な人民に見合ったものに変えている。
 午後二時三十分を少し過ぎた時間。
「若造を部屋に置いてきたから、少し早く来た」
 二人は若干声量を下げつつも、日常と変わらぬ様子で言葉を交わした。新婚夫婦の自然な会話を演出した方が耳目は集めないし、囁き声で話した方が逆に周囲の聞き耳を立てさせることになると、二人とも分っていた。
「-どうやって?」
「窓から外に落ちた服を取りに行ってもらったの」
「そうなると、君はもう家には戻れないな」
「そうだね」
 今日は天気がいいね、そうだね。そんな口調で彼女は答えた。
「その代わり絶対に向こうへとお願いよ」
「努力する。ところで平壌行きの列車は何時だ?」
「直通はない。そんなことも知らないの?」
チャンスクは呆れたように溜息を吐いた。「元山からだと北回りと南回りがある。北だと咸鏡南道の高原で乗り換え。南なら江原道の平康だね」
「北行きの路線は、東北部まで伸びているんだな」
「羅津まで?そうよ。そこから更にロシアまで」
「そっちは避けたい。平康行きは何時発?」
「さあ」「さあ?」
「国内列車の運行時間はそもそも機密事項だし、最近は更に混乱している。ここへの到着時刻からして、その時が来るまで誰にも分からない」
 よいしょ、と彼女は背中に担いでいたリュックを下ろした。そこには野菜が詰められていた。
「市場で買ってきた。ところでオッパ、あんた公民登録証は?」
 相慶は下げた左手を広げて五本の指をパートナーに見せつけた。「全部核心階層のものらしい」
 そのうちの一枚を披露した彼に、女は笑った。「船の修理、いつもお疲れ様」
「安全部からの移動許可証もある。白紙だが」
「私との新婚旅行に赴く造船会社勤めの好青年が、ついでに食糧を調達し平壌の親戚に食糧を持っていく訳ね」
「自然な筋書きか?」
そうだね、とチャンスクは頷いた。
「切符はどうする?」
 本当に何も知らないのね、と女は眉をひそめた。
「三つ方法がある。まず一つ目。今からこの人混みを掻き分けて、なんとか平康までの切符を二枚買う。あんたと私は共に核心階層の夫婦だし、少しは何か聞かれるかも知れないけれど、この混雑だからチェックは緩いはず。二つ目は改札にいる駅員や、安全部、保衛部の愛すべき同志に百ウォン紙幣を渡しながらホームに入り、そのまま来た列車に乗り込むやり方よ。車掌にも現金。そして三つ目は強行突破。列車では中に入らず屋根や連結部で過ごす」
「なるほど。ところで君も核心階層なんだね?」
 潜入者の問いに、女は無言で自分の「公民登録証」を出した。職業欄、特別幼稚園の保母。
「私だってこんな仕事してるし、複数の身分は常に持っている」
彼女は『身分』の箇所だけ日本語で『ミブン』と発音しながら説明した。
「この特別、というのは何だ?」
「文字通りの意味よ。党の高級幹部のお子様がお通いになる教育機関のこと」
その時、駅入口の空気がざわめき、すぐに止んだ。そういう空気には敏感なこの国の民衆だ、沈黙は波のように駅ホールの反対側、改札口まで広がっていった。
「道を開けろ!」
 しじまを切り裂く怒鳴り声。保衛部の趙秀賢だ、と彼を知る一部の事情通から安堵の笑みが漏れたが、それらは瞬時に凍りついた。
「皆、動くな!ここにいる保衛部の職員は、至急周囲をチェックしろ。三十歳のチョッパリ風フィンモリ、朝鮮人民軍の制服、少尉の階級章を付けた男と、二十四歳の売春婦風の女が目標だ。抵抗者は容赦なく撃っていい」
 何人かが動き出した。やはり駅の中に潜んでいた保衛部員またはその協力者たちの低質なズック靴がコンクリートの床と擦り合わさり、耳障りな音をホール内のあちこちで奏で始める。その周囲では誰もが息を止めて硬直したままだ。
 黒服の男が人の間を縫うようにして歩き回り、傍若無人に一人ずつの顔を舐めるように見つめる。チャンスクがそっと手を握ってきた。それがこの国のこの状況下で適切な行為か判断はつかなかったが、その手を振りほどこうとはしなかった。恐怖に包まれた時、人が誰かに縋るのは自然な行動に思えた。
 男が近づいてくる。改札の上にあった時計の針の音までが聞こえてきそうな森閑に変化はない。
 男は相慶たちの前で足を止めた。
 睨まれた。工作員は自らを戒める。
 睨み返すな。それはオマエの生命を数秒以内に奪い取る行為だ。
 目を伏せる。何も考えるな。ただひたすら目線を下げていろ。
 保衛部の男は、まずは相慶を仔細に観察した。
 年齢は三十から三十五、見ようによっては二十五にも感じられる。
 保衛部員は判断に迷った。年齢は合致するが朝鮮人民軍の制服は着ていない。ぼさぼさの黒髪、フィンモリでもない。土気じみた顔色、痩せた体躯。我がチョソン人民平均値の王道を行くような外観で、チョッパリには見えない。野菜を担いだ女も売春婦とは思えない。
  保衛部員はそれでも声を発した。
「公民登録証を」
 周囲の者たちが身じろぎした。とうとう容疑者が現れたのか?しかし誰も二人の方へと振り返ろうとはしない。見たいものを自由に眺め、話したい事柄を自由に喋る、ここはそんな世界ではない。
 相慶とチャンスクは、求められた証書を提示した。彼女の手の震えについて尋ねられれば、単に取り調べに対する畏れで、と答えてやればいい。
 保衛部員は公民登録証を点検した。元山に住む造船所の職工、三十二歳と、党幹部子弟の通う幼稚園の保母、二十六歳。公民番号が、ともに先祖は貧農、核心階層であることを告げている。
 相慶は彼女と駅構内で交わした最初の頃の言葉を思い出していた―そうなると、君はもう家には戻れないな。
 誰も聞いていなかったという確信はあった。しかしそれは平和ボケした国で育んできた感覚がもたらしたものだ。密告が奨励され、普遍的な日常風景にすらなっているこの北朝鮮で、その甘い認識が通用するか。
 そんな後悔ももう遅い。会話が誰の耳にも入らなかったことを今更ながら願うしかない。治安要員に喜んで協力する住民なんて最早存在しないという朴泰平や李昌徳のアドバイスを信じるしかない。
「新婚旅行か?」保衛部員が質問してきた。
 はい、と相慶は答え、チャンスクが野菜の詰まった袋を指さした。ついでに平壌に住む叔父にこれを持っていくのです。
 男は登録証を二人に返した。相慶がそっと息を吐こうとしたそのタイミングを見計らっていたかのように、保衛部員は続けた。通行許可証を。
 相慶の心拍が跳ね上がった。
 ジャンマダンで偽造書類屋のアジュモニから雛形用紙は貰った。しかしそれは白紙だ。
 今時通行許可証を持って国内移動する者などいない、彼女はそう言っていたが、それは食糧運搬といった緊急避難的措置に限った話だろう。自分たちのケースはそうではない。あらかじめ計画された新婚旅行なのだ。今はもう新婚旅行でも通行許可証の事前申請は形骸化されているのか?
 分らない。全く何も。
 相慶はポケットをまさぐり、探すフリをした。そんな時間稼ぎに意味はなかったが、ともかく最終的には白紙の許可証に何がしかの賄賂を添えて目の前の男に提供する腹を固めて―とその時、別の場所で金切り声が上がった。さすがに取調者被疑者の区別なく、誰もが思わず声の方向へと目を転じるぐらいの音量だった。
 何らかの事情により治安要員との関わりを避ける必要のあった男と女が一人ずつ、脱走を試み確保されていた。男の方は激しい抵抗を示している。まだ若かった。軍の脱走者か不法物資の運搬者か。この国で逮捕の際に反抗すれば後々どのような処置を招くことになるのか知らない訳でもなかろうが、それでも彼は身をよじり、捜査員の手を逃れようとした。
 相慶に通行許可証の提示を求めていた保衛部員が助太刀に走る。
 男は駅の外に待機してあるトラックに載せられた。そのすぐ横で朝鮮人民軍元山特別軍区第二十四師団の隊員たちが男の人着に首を振っている。その光景に恐慌をきたした者が新たに脱走を試み、周囲は騒然となった。幌で覆われたトラック荷台に収監された人民が六人に増え、兵士たちは六度、やはり首を横に振った。
 先刻の保衛部員はそちらの対応業務で手一杯になったのか、戻ってくる気配はなかった。
 いつもとは明らかに様子の違う趙秀賢が歩き始めた。駅の中はまた静かになった。モーセを迎えた海のように、あれだけ詰まっていた人の群れが割れていく。
 改札口に着いたカリスマは、そこに元からいた保衛部員にホームでの警備を命じ、自らはその場に立ちはだかり、周囲を睥睨した。
 ただならぬ雰囲気は、誰しも感じていた。保衛部唯一の良心とも言える趙秀賢が初めて民衆に見せつけた厳しい態度、撃っていいという言葉。そして、相容れないはずの人民軍と保衛部の共同調査。何もかもが異例づくめで、それだけの出来事が起こっているのだと人々は理解した。
「駅の外にはもう出られない」
 チャンスクの囁きは相慶にも理解できた。ここから違うどこかに移動するからこそ、人は駅に来ている。そこを手ぶらで立ち去るのは、ではオマエは何をしに元山駅まで出向いたのだという疑念を治安要員に与える行為となる。
「いずれ地方からの列車が元山に到着する。それを待ちましょう」
 それから一時間以上、駅は沈黙に支配され続け、ひたひたと歩き回る保衛部員の足音だけがその例外となった。
 どこかで我慢の限界を超えた者が失禁し、その臭いが漂ってくる。
 更に数名が、駅入口まで連れ出され、トラックのある場所へと引っ立てられた。
 夕方五時近く、列車が元山駅のホームに滑り込んできた。
 相慶の視界を僅かに掠っただけの列車は、しかし壮絶な様相を垣間見せてくれた。
 屋根を覆う人、人、人。機関車の上にも、連結器の回りにも、そして客車の窓枠にも、人が立っていた。振り落とされれば死が待っている。後遺障害を負うのは更に不幸だ。この国では身体障害者に対する社会保障は何もない。国が定める兵役、生産、収穫といった各種ノルマの規定水準に応じることができない者として、いずれ闇に葬られる。
 或いは平壌に連れて行かれ、WHOやユネスコのスタッフが来朝した際の見学コースに組み入れられる、普段はありもしないリハビリセンターの中で、外国人の目が注がれている時間だけは親切に振舞ってくれる見目麗しい女性スタッフから、もう少し、頑張ってと励まされる者の役割を与えられ、そこで演じ続けていく人生を送るか、だ。
 そうまでして人々は地方に赴き、食っていくため自分ができる最大限の行動を起こしている。
 相慶は目元が潤むのを感じた。そんな感傷がこの体内に残っていたとは自分でも驚きだったが、日本からわずか二千キロ離れた場所で、多くの同胞がこの地獄で必死に毎日を生き抜いている姿は、彼の心を激しく揺さぶった。
 改札から下車した人の波が溢れ出てきて、駅ホールの中は混沌に陥った。
 趙秀賢がまたも叫ぶ。
「今列車から降りてきた者だけが駅の外に出て良い!元々ここにいた者はその場に留まっていろ!従わない者は痛い目に遭うぞ!」
 脅しに効力はなかった。チャンスクの見立て通り、明らかに列車からの乗客でない者も、入口でバリケードを組んでいた朝鮮人民軍を押しのけ、外界へと散らばっていった。
 威嚇射撃の発砲音はしかし、群集心理を彼らに植え付けただけだった。列車から降り、この町に用のある者のみならず、これから列車に乗り込もうとする者たちも、追われるようにして誰もが我先に駅出口へと殺到し、相慶もチャンスクの手を固く握りながら、それに続いた。
 アジアハイウェイ六号線を渡り、昼間歩いた住宅街の細い道へと足を運んだ。
 暗くなりつつある空が、家々のみすぼらしさを闇に溶かし始める。
「鉄道移動は無理だな」
「そうね」
「泊まる場所のあてはあるか」
「一旦ジャンマダンに戻って仕切り直ししましょう」
「ちょっと待て」
 別の声が背後を襲った。相慶とチャンスクは足を止めた。
 男が近づいてくる。さきほど元山駅で、自分たちを至近距離で眺め回した保衛部員だった。
「貴様らには見覚えがある。駅から逃げたな」

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