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「平壌へ至る道 潜入編」(14)

「但し、日本から来たという証拠は残さないでもらいたい。日本からの密入国者による犯罪と分かってしまったら、その最短の玄関口は元山だ。俺たちは徹底して洗われるし、何の落ち度が見つからない場合でも、平壌の偉いさんたちは生贄の提供を求めてくる。これが呑めないなら、君たちにはここで死んでもらうしかない。死体は俺と河さんで細かく切り刻み、鍋に煮込んでジャンマダンで販売するよ」
 相慶は頷いた。
「他の国なら俗悪なブラックジョークとして聞き流せるが、ここではそうもいかない。別に誰の仕業に仕立ててもらっても構わないが、帰国後協力者にだけは伝えさせてもらう。絶対に他言無用だがあれは俺たちがやり遂げたことです、と」
 趙秀賢は同意を示すように首を縦に振った。
「君の帰国後の言動に対して俺には何の権限もない。好きにしてくれ。ただ個人的なお願いとしては、身内の中で留めておいて貰いたい。まかり間違っても我が共和国での滞在日記をNHKに投書したりしないでくれ」
「なんだ、趙さんも衛星放送を秘密裏に視聴している口か?バレたら即刻銃殺刑だろうに」
「そんなにおっかない放送局なのか?しかし我が国の給与事情では日本円で千円相当額すら支払うのは厳しい。この食事に免じて君から受信料を立て替えておいてくれないか」
「しょうもない冗談はやめろ」相慶は関西人に相応な速度で突っ込んだ。
「個人的な趣味で視聴しているのでは断じてない。敵国の情報収集は保衛部捜査官としての業務の一環だ」
「ほう」感心を示すように相慶は上体を前方に傾けた。
「熱心なことだな。ところで”おしん”みたいな女は、こちらの価値基準に照らしても理想の女性像になるのか?」
 趙は笑った。「もちろんだ。ああいうのを妻にしたいものだな」
 相慶も笑った。「何が業務の一環だよ」
「ともかく、こちらでは日本からの工作員が経済特区へ向かうという情報はいつも通りガセネタだった、という方向で処理する。いつも通り誰もが直ぐに忘れるだろう。それが俺たち側の、誰もが処刑されずに済むシナリオだ」 
「異存はないよ」鄭相慶は答えた。
「万寿台の状況について、君はどこまで知っているんだ?」
「平壌防御司令部の砲兵部隊から選抜された新人たちが二十三時頃に足場を組んで磨き始め、足場を片付けるまで二時間程度の工程と聞いている。今は作業の終わる一時頃から電灯も消されるらしいから、その時間から像によじ登るつもりだ」
「そこからどうやってこの町を抜け出す?」
 相慶は表情を緩めながらも、はっきりと申し述べた。それは言えない。
「移動手段を趙さんに話せば、その情報を教えてくれた協力者が絞られてしまうんだ。この後事情が変わって、あんたが俺を逮捕せざるを得ない状況に陥る可能性だって現時点では否定できない。その際には好きなだけ拷問してくれ。俺は絶対に彼らのことは口にせず、迷いなく舌を噛み切るよ。これはハッタリなんかじゃない」
「こちらのお嬢さんへの拷問も、かね?」
 チャンスクが立ち上がって捜査官に向かいかけ、相慶は慌ててその腰を掴んだ。
「落ち着け、俺たちはこの国で最もマトモな捜査官に見つけてもらえたんだ。この人じゃなかったら今自分がどうなっていたかを考えろ!」
 女はどかっと椅子に座り直し、元山から来た保衛部副局長を睨み据えた。
 その目線に趙は悟った。これはもう駄目だ。
 自分たちはつい最近まで、人民から憎まれ、しかし同じ量だけ恐れられてきた存在だったはずだ。それが今はどうだ、ただの嫌われ者でしかない。恐れを捨てた民衆は、もう自由に制御できる愚衆なんかではない。
 そして今しがたのヤマダの言葉。
 既にここ平壌まで、この外国人-あろうことか、半島の人民にとっては国家の裏切者に等しいパンチョッパリ-を運んだ者がいて、俺の氏名はおろか、銅像の清掃を誰が何時から何時まで担当するかといった機密事項までこの男は把握していた。
 加えてこいつは俺たちの無線を傍受し、その正確な分析結果まで披露してきた。確かに頭の回転の早い男だが、この閉ざされた地に来て一週間にもならない人間が独力で成し遂げられることではない。
 彼の背後に潜むこの国のブレーンどもは尋常でなく優秀で、そして―
 尋常でなくこの国に絶望している。
 これはもう駄目だ。
 元山保衛部の副局長は外堀を埋めるように、段階的に自らの意志を伝えることに決めた。
「日本では、この国は誰もが金日成とその息子を絶対的に崇拝していると信じられているのか?」
 そんなはずないだろう、とパンチョッパリは嗤う。
「“おしん”だけじゃなくニュースも視ろ。おたくの国民は生存のためマンセーマンセーと無理して叫び、歯を食いしばってマスゲームに参加していると報じられている」
「残念ながらそれが正解なのだろう。これは君の帰国後も口外してほしくないのだが、一九八四年にある事件が起こった。金日成主席が東欧の某友好国訪問を終えてシベリア鉄道経由で帰国した際、咸鏡北道の清津という町で歓迎行事の開催が予定されていた。君たちの清津に関する予備知識は?」
「よくは知らないが、北東部の工業都市だ、という程度には」
「そう、この国随一の製鉄所がある。日帝の統治時代、日本製鐵が建設した旧清津製鉄所が、今なお稼動している。清津はだからこの国にとって、二つの大きな意味を持つ都市だ。主席が本来目指した、重工業という産業によって成り立つ町であるという点と、恨み骨髄まで達している大日本帝国が遺した巨大な固定資産をそのまま解放後にかっさらってやったという、民族の誇りを示すイコンとしての点」
「無宗教国家の犬にしては、イコンなんて単語をよく知っていたな」
 趙は相慶を見つめ、静かに告げた。次に俺を犬呼ばわりしたら、今夜の話は終わりだ。君はこの場所で人生を終えることになる。
「-悪かった」
「では話を続けるぞ。いよいよ主席を乗せた列車が到着する前日の朝、清津の町は騒然となった。線路沿いの壁、メイン通り沿いの壁、至る所に落書きがされていたからだ」
「どんな」
 保衛部員はしばし固く眼を閉じた。絶対に誰にも話すなよ。
「金日成は清津に来るな、米を寄こせ、現政権は退陣せよ、といった内容だ」
「それはまた痛快な話だ」
「金親子はそうは思わなかった。保衛部の監督役だった金正日は、犯人を絶対に挙げろと激怒した」
「単独犯ではまず無理だろう」
 趙は一息つくように、また相慶のグラスにビールを注いだ。
「君もそう思ったように、俺もそう思った。何の娯楽もない国だ、そうした噂はすぐ拡散する。現実には国民の多くが知っている話だし、皆同じように思っただろう、これは複数もしくは更にその上を行く、下手すれば町ぐるみの犯罪行為なのではないか、とね」
「清津は朝鮮労働党にしてみれば重点都市ではないのか?」
「最重要拠点だ。ご存知の通り、鉄は鉄鉱石が輸入されなければ生産されることはない。だが鉄鉱石の売買は基軸通貨、すなわち米ドルで決済されなければこの国に運ばれてはこない」
「本物の米ドル、ということだな」
「俺の言えた義理ではないが、君の軽口だって先程から全く面白くない」
 工作員は唇をへの字にした。
「原料がなければ、どれほど巨大な溶鉱炉もただの箱でしかない。国家の力の象徴でもある鉄の生産地であり、高い賃金が約束された党への恭順者で固められていたはずの清津は今、この国で最も就業率も治安も悪化している町だ。それでもそれだけの事件が起こるとは誰も予想していなかった」
「容疑者は捕まったのか」
「三年後に。犯人が特定されなければ幾らでもその適任者をでっちあげるこの国にあって、金正日直々の指令に対する、この長さは一種異様なものだった」
「体制側に属する者も含め、あまりに大勢の人間が関わった事件であり、だからこそ証拠隠滅にそれだけの時間を要した、ということか?」
 趙は微笑んだ。それが彼の回答だった。
「逮捕されたのはたった一人。清津の食料工場内で結成された朝鮮労働党の下部組織、友好党で秘書をやっていた、大人しい男がな」
「そいつは処刑されたのか」
「裁判もなしでね。まあこの国の裁判にどれだけ意味があるかは疑問だが。彼の妻子は政治犯収容所送りだ。一生出てくることはない」
 その事件を契機に、国の空気が変わった、と趙は続けた。
「あちこちの場所で、金親子体制を批判するビラが撒かれるようになった。元山でも月に一度はそういう事件が起こったし、体制に忠実な住民で固められているはずの、ここ平壌でも似たような状況が続いた」
 これもまた金一峰老人のコメント通りだ、と相慶は思い出した。
「この国でそれだけの紙を準備するのは、個人では到底できないことだ。そしてもう一点、この一連の流れが持つ重い意味が、君に分るか?」
 相慶は考えるフリさえしなかった。分らない。
「この国の男子は十七歳になれば例外なく徴兵される。入隊時に長い作文を書かされ、それは半永久的に軍が保管する。これはどういうことだと思う?」
「一人ひとりの思想が国に掌握されているということか?」
「そうではない、どのみち誰もが書く内容は似たようなものだ。国が保管しているのはな、この国の十七歳以上になる男子全員の筆跡だ」
 相慶は暗い天井を仰いだ。なるほど。
「壁に落書きをした者は、ビラを撒いた者は、者たちは、だから文字通り命を賭けてそれをやったんだ。そうした事件の容疑者を特定し、そいつの家に向かう度、俺は心の中でこう考えていた。それだけの勇気が何故そいつらにはあって、自分にはなかったのか、とね」
 相慶は無駄口を控え、チャンスクもじっと耳を傾けている。
 副局長は更に腹を括った。今の精神状態をビールによる酩酊のせいにしてしまおう。そして二人に問いかけた。もう満腹か?
 彼らは頷いた。
「それはよかった。これから俺のする話を聞けば、食欲など消し飛んでしまうからな」
 趙秀賢は語り始めた。俺は酔っている、酔っているんだ、と声にならない声で自らに念を押しながら。

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