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長編小説「平壌へ至る道」(109)

「早朝にもかかわらず、新安州青年駅構内には三十名程度の人がいました」
 いつ来るとも分からない列車を待っているのか、いつからここにいるのか、いずれも想像するしかない彼らの多くが体を横たえ、あるいは壁に背をもたれ、何かを諦めたような視線を虚空に漂わせていた。
 相慶は駅舎内には入らず、線路に向かって建物の左へと歩を進めた。給水塔の下、ソウルから来た支援団体員、李昌徳の姿は直ぐに確認できた。
 目を伏せたまま李は歩き始め、相慶は三十メートルほど後に続いた。
 そこに田舎の農民然とした女が近づいてきた。本当に野菜が全部売れちゃってさ、と語る彼女の少し泥で汚れた顔立ちは、確かに本物の農村出身者にしか見えなかった。
「大丈夫だったか」
「うん。安州はそれほど警備が厳しくなかった」
 三人は駅を出て、南へ向かって通りを三百メートルほど歩いた。鼠色のコンクリート製高架橋を、貨車が並ぶ操車場を右下に眺めながら渡った。橋の向こうには田園が広がり、歩みを進めるとそこに鉄道局の制服を纏った男がいた。
 李が振り返り、ようやく笑みを見せた。彼が協力者だ。
 三人は協力者の後に続いて、もうもうと臭気漂う無蓋車に連れて行かれた。何十匹もの豚が既に貨車内に詰まっている。
「どうやってこの中に?」
 相慶の質問に、李は不思議そうに答えた。豚を掻き分けて歩くんだよ、それ以外に方法があるか?
 貨車の中央、糞尿で染まった木の床板を外す。そこに空洞があった。
 大人の男性二人が精一杯に見える箱の中は意外と清潔で、李が肉の薄いチャンスクのために毛布を敷いた。
「さあどうぞ、オリエント急行北朝鮮版へ。少し狭いのは我慢してくれ。まさか脱北者が二人に増えているとは思わなかったから」
 彼らは素早く箱の中に入った。協力者によって再び床板が被せられ、その上に何かがかけられる音が響いた。酸素を取るため箱は完全な密封ではなく、床には幾筋もの細い隙間があった。
「男の場合」李が説明した。この隙間から小便することになる。
 女は?とは誰も聞かなかった。答えのない質問であることは皆が分っていた。
 闇の中で李が二人に錠剤を渡した。
「マイスリー、睡眠導入剤だ。効くのはせいぜい四時間。後は身体の疲労が眠りを長い間保ってくれることを期待するしかない。狭い箱の中に長時間いると恐慌をきたす人間てのは意外に多くいるけど、自分がそうだと知っている者は殆どいない。狭い暗室に密閉された状態で八時間過ごした経験のある者なんて、そうはいないからね」
「列車はいつ動き出す?」
「運がよければ三十分以内に」
 運が悪ければ?とは尋ねなかった。
 狭い箱の中で三人がぴたりと体を寄せる。睡眠不足と激しい緊張が彼らから粘ついた汗を発散させ、シャワーも浴びずに一週間を過ごした体臭と混ざり合い、室内は板の上の家畜に負けない匂いが充満した。
 列車は約二時間後に動き始めた。
 隠し箱の木板の底に走る隙間。そこから見る景色は存外に楽しいものだった。相慶は苦労しながら何とか体をうつ伏せにして下を眺めた。過ぎ行く枕木と敷石、網膜に映るのはそれだけだ。しかしそれは、自分が確実に平壌から遠ざかっていること、自分が確実に中国に近づいていること、を実感させてくれた。
 チャンスクと李は、互いの顔もよく見えない状況下で初めて互いに自己紹介し、三人で話は弾んだ。
 相慶は自分の一週間を話して聞かせ、李は今頃平壌は大騒ぎだろうと笑った。
「安サムチョル大佐は信用できそうなのか?」
「そうでもない。元山保衛部の趙秀賢副局長は素晴らしい人だったけどね。でも人としての信頼性は、一緒に仕事を進める上で、実はそれほど大事な要素ではないと思ったね」
「それはあるな。僕らのボランティア団体でも、北朝鮮の子供たちを一人残らず救いたいんですとか、そんな崇高な使命感に溢れている人ほど、簡単にやめていく。仕事もないし他にやることもないから、といった適当な人の方が、いつまでも残っているね」
 チャンスクが体を寄せてくる。
「中国に戻ったら、相慶オッパはどうやって日本に?」
「仲間が待ってくれているはずだ。そこで次の手順を待つ」
 彼女は息を吐いた。あんたには仲間がいっぱいいていいね。
「チャンスク、君も日本に来ないか?」
 闇の中で彼女は顎を上げ、男を見上げた。
「何を馬鹿なこと言ってるの?外国に行くにはパスポートだっけ?色々な書類が必要なんでしょう?中国に行ったら、私はなに人になる?どうやってパスポートを取る?」
「丹東から二百キロほど北上すれば、瀋陽という街がある。そこに日本領事館がある」横から李が口を挟んできた。恋人ー傍目にはそう見えるはずだー同士の会話にも平気で加わってくるのが韓国人の気質なのか、李の個人的な性質によるものなのか、相慶にはその両方、と思えた。
 李はお構いなしに喋り続けた。
「一九六〇年代に日本から帰国事業で北に渡った在日が多くいただろう?彼らが低い出身成分に置かれ、奴隷のような暮らしを強いられていることくらい、さすがに日本の外務省だって気付いているはずだ」
「どうだか」
 相慶は応えた。李昌徳は暗闇の中で苦笑した。まあ確かに疑問も残るが。
「それでも最近の拉致問題で、日本の外交も少しずつ雰囲気が変わってきた。今までのように韓国や北朝鮮に対して弱腰一辺倒ではなくなってきている。君は帰国事業で向こうに渡った在日の娘、ということにすればいい。そうすれば日本語を全く話せない理由づけになる」
「俺がついていって、推薦するよ」
 相慶の言葉をチャンスクは嗤った。あんた朝鮮籍でしょうが。
「丹東で、君にも前に話したことのある議長と呼ばれる男が待っているはずだ。彼なら何とかしてくれる」
「お断り、そんな共産党の指導者みたいな呼び名の男なんて。それに日本には朝鮮人を犬のように殺す鬼みたいな奴がうようよいるんでしょ?言葉だって全然通じないし、常にあんたについて回って、あんたの情けにすがって生きていくの?」
「チャンスク、冷静になれ。そんな訳ないだろう」
「ふざけないで。あんた私と一緒に帰国して、一生を私と過ごすの?売春婦だった私と。カネのために何百人という男に足を開き、その結果子供を産めない体になってしまった私と!」
 さすがの李も沈黙した。それがどうした、と抱きしめようとする相慶を、彼女は狭苦しい箱の中でも果敢に押し戻した。
「睡眠薬を飲む。話はお終い。ちょっと眠らせて」
 列車は鉄の音を響かせながら、定州、下端、郭山、と過ぎていく。

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