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長編小説「平壌へ至る道」(95)

 相慶たちも早足にならないよう意識しながら、その場を離れた。
「何がどうなっているの?」
「俺にも分らない」
 二人は後ろを振り返ることなく黙々と丘を降り、仁興通りにある隠れ家へと急ぎ、昨日「掃除」を済ませておいた北向きの三畳部屋で一息ついた。
 盗聴器については心配せんでええ。
 出発前、そう朴泰平は繰り返していた。
 そこまで電力事情に余裕はないし、監視体制にかける人の数だって足りていない。長らく問題のなかった、しかも人間が常在している訳ではない総連幹部用の部屋にまで盗聴をしかけることは、まあ考えられへんわ。
 果たしてその言葉を信じ切っていいのか。現に俺は今日、尻尾を掴まれた。
 ビルの八階、出口は一つ。この部屋を急襲されたら逃げ道はない。
 そしてもし、実はここも監視されていたとしたら?
 この日は総連から来朝者の予定はない、なのに便所からは水の音が流れている、とでも監視が気付いたら?
 相慶は抜き足でリビングのテーブルに向かった。某革新政党の党首が微笑むチラシの裏に書いた昨日のメッセージはそのまま残っていた。ソウル在住のボランティア李昌徳はまだここに来ていない。相慶は言葉を書き換えた。
『クライフの映像を見た。一点は取ったが決定的なチャンスを二つ外した姿を見るに、現代サッカーではついていけない気がする』
 そしてゆっくりとリビングを見渡す。心なしか昨日より部屋の気温と湿度が下がっているように、その時点でようやく気付いた。空気中の淀んだ粒子が減っているようにも感じられる。
 部屋内の様子は何も変わらない。椅子の位置もそのままだ。
 神経質になっている自身が生み出した幻覚なのだろう。しかしそれでも、誰かがこの部屋の窓を開け、空気の入れ替えを行ったような肌感は、彼の全身を纏わりついて離れようとはしなかった。
 チャンスクに小声で告げる。ここを出よう。
 
 趙秀賢が平壌駅に戻って来た時、二人の平壌保衛部捜査員は一人しか残っていなかった。その彼が親指で、背後にいる張中尉を指した。
「また騒ぎやがったんですよ。今度こそヤマダだと。仕方なく相棒が追跡中です。まあ結果なんてわかり切ってますがね。趙副局長はどうでした?」
 趙秀賢は苦笑いを作って、捜査員の肩をねぎらうように叩いた。
「俺もハズレだったよ。完全にハズレ」
 
 二人は新婚旅行者の典型的な観光コースを歩き、表情だけはにこやかに保ちながら言葉を交わした。
「五時半からの会合は、俺一人で行く。君にはさっきの部屋の鍵を後で渡す。絶対安全とは言えないが、他に選択肢がない。一両日中または既に、李昌徳というソウルの男が中国の丹東から新鴨緑江大橋を渡って新義州経由、貨物列車の中に隠れて平壌入りし、あの部屋に立ち寄る手筈になっている。善意だけで肉づけされたような奴だから信用していい。彼はこちらでの活動を終えたら同じルートで戻る。今まで見つかったことはないそうだ。君は気配を可能な限り消しながら部屋で待機し続けろ。大便は我慢して小便は流すな。彼とコンタクトが取れ次第、一緒に帰りの貨車に乗れ」
 チャンスクは笑みを顔一杯に広げ、それでもその目は据わっていた。
「かよわい女は逃がしてやった、と思いながら自分は銃殺隊の前に立つつもりってことね。私は何、あんたの最後のマスターベーションの道具?」
「難しいことを言わないでくれ。俺は自分の意志でこの肥溜めに飛び込んでクソをかぶった。でもチャンスク、君は違う。俺のために騒ぎに巻き込まれて、今ここにいる」
「偶然だね。私も今ここにいるのは、全て自分の意志なんだけど」
 二人は大同江のほとりに出てきた。さすがに伐採を免れたポプラ並木の葉を、川を渡る風が揺らしている。
 ここが独裁者に統治された収容所国家の首都でなく、そして俺たちが本当の恋人だったらどんなに素晴らしいことだろう、と相慶は想像した。もしそうなら、俺たちは一体どんな言葉を囁き合い、どんな風に笑い合い、そして時に、どんな風に口ゲンカをしていたのだろう。
「どのみち元山のジャンマダンにいても」彼の思索は彼女の言葉で遮られた。
「数年のうちに死んでいたよ。性病にかかるか、クスリ漬けのロシア船員に刺されるか、体制側の連中には体を開かなかったことを理由に行政秩序違反罪を言い渡されるかして。相慶オッパ、あんたなんかには絶対に分らないでしょうけどね、元山を逃げ出して今ここにいる足かけ四日間は、私が自由に生きることができた、今までの人生で唯一の四日間だったんだよ」
 二人は手を繋いだ。俺達は新婚旅行真っ最中の夫婦だ。これが反革命行為だと言う奴がいたら、俺はこう返してやる。
 そんな革命なら、クソくらえだ。
「常に誰かに見張られ、常に誰かを批判し、常に自分を批判し、食べたいものも食べられない、着たい服も着られない、行きたい場所にも行けない、ただひたすらカネで自分を買いにくる男のために化粧して、乗っかられて。たとえ生き残ったとしても、客引きの婆さんにでもなって余生を過ごすのかな。そんな人生を六十年送るぐらいなら、この四日間は楽しかった、誰もこんな経験はできなかっただろう、と笑いながら二十四年の人生に幕を引くのを、私は選ぶよ」
「チャンスク」
 相慶は彼女の手を握る自分の手に力を込めた。
「俺は今回の工作資金として、三万ドル持ってきている。幾らかは使ったけれど、九割以上は残っている。中国に逃げられれば、贅沢しなければ十年は暮らせる。四日間どころじゃない、ずっと君は自由だ。中国で勝ち取れる自由がどれほどのものかは疑問だが、それでもこことは比べものにならない」
 チャンスクは立ち止まった。
「三万ドル?何で最初にそれを言わなかったの?ほら、早く鍵をちょうだい。あんたのことは毎年五月になれば思い出してやるから」
 彼女は男の手を振りほどき、数歩進んで振り返った。
「ーとでも私が言うと思った?」
 そして彼女は少し寂しげに笑った。まあその気持ちも完全否定はできないけど。
「でもね、それはやっぱりあんたと、日本であんたを待っている仲間のカネだ。私が働いて稼いだものじゃない。それにね、相慶オッパ。自由は金銭と引き換えに手に入れるものではないし、手に入れるべきものでもない」
「ーそうだな」
「ねえ、新坪のダムを覚えている?」
「つい二日前の朝のことだろうが」
「綺麗だったよね」
「そうだな。霧の切れ目から、向こうの山が見えて」
 二人は夕焼けに染まる、大同江のゆるやかな流れを眺めた。
 ずっと眺めていたかった。

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