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長編小説「平壌へ至る道」(93)

 一九九四年五月 平壌
 
 出発の朝、相慶とチャンスクは金一峰老人と固い握手を交わした。
「ヤマダくん、工作活動の一番の成功例はな」
「はい」
「生き残ることだ。これは駄目だと思ったら絶対に無理はするな。退く勇気が本物の勇気で、進む勇気は時として蛮勇に過ぎない」
「肝に銘じておきます」
「わしが生きている間に、いつかまた会える日が来れば、直接今日からの話をこの老人に聞かせてくれ。無念を残して死んでいった妻と息子の、何よりの供養になるだろうからな」
「ー約束します」
 いつかまた会える日などないことは、お互いに分かっていたが、わざわざ口にする必要もなかった。
 祥原からのバスは昨日と同様、七時ちょうどに出発した。今日はチャンスクも同乗したが、周囲の反応はやはり昨日と変わりなかった。彼女と微かに目が合った中年の男は、すぐにその視線を車両の床に落とした。
 
 走り始めて二十分ほどして、バスに異変が起きた。ノッキングを重ね、素人の耳にも異様なサウンドを発し始めた。
 運転士がギアがセカンドに入らないといった内容の言葉を叫んでいる。
 相慶は外を眺めるように体を折り曲げ、洪の耳元に口を寄せた。
「罠か?」
 洪もまた窓の外に目を向けたまま答えた。そうではないでしょう。
「よくあることです。この国には党幹部の乗るベンツを除けば、一年を通して故障なしに走る車なんてありませんよ」
 そしてバスを降りる。相慶もチャンスクも倣った。
 紙に何事かを書き殴り、運転士が一枚ずつバスを離れる乗客に配っている。車両故障により振替輸送となる旨の印字に、汚い字でサインがしてあった。
 三人は他の乗客と一緒に、最寄の駅まで歩いた。
 力浦駅。
 無個性の化身とも言うべき駅舎の建物は、その他殆ど全てのこの国の地方都市のそれと同様に薄汚れ、色彩を失い、辛うじて崩壊を免れているように見える。その中で唯一の例外が駅構内に掲げられた巨大な権力者親子の肖像画と赤色旗に書かれた空虚なスローガンであることも、右に同じくだった。
 運転士からもらった事故証明と、賄賂か正当料金か部外者には知る由もない二十ウォン札を改札で渡し、三枚の切符を受け取る洪に、相慶とチャンスクも続き、駅のホームへと進んだ。
「平壌周辺の列車は、この時間帯なら一時間に一本はやってきます」
 首都へと向かう列車は、立ち客も出る乗車率ではあったが、あの元山駅で見たようなカオス的混沌にはなかった。
 列車は十五分程度で大同江駅に到着した。
 ここで降りるべきではないか、と相慶は小声で洪に相談した。次の終点、平壌駅には見張りがいるかも知れない。
 洪も囁くように答えた。この駅も同じ状況かも知れませんよ。想定リスクが同程度ならば、より大きな駅で下車する方が見つかる確率は薄まると思います。
 彼らの逡巡をよそに、列車は再び動き出してしまった。相慶は奥歯を嚙みしめた。昨日、リスクを背負ってでも平壌駅構内を視察しておくべきだった。しかしそうすることで俺の命脈はその時点で絶たれていたかも知れない。今朝の金老人の言葉を改めて思い出す。
「絶対に無理はするな」
 列車は錆びたトラス僑を渡り、平壌を象徴する大河、大同江の中州である羊角島を過ぎる。
 島と大同江の向こう、平壌市街に並ぶ建築物の隙間から大同江ホテルの最上階が少しだけ見えた。
 当時外国人旅行客専用だったその町随一の高級ホテルが、この五年後の一九九九年に火災によって消失することになるとは、その朝は誰も知る由もない。停電時にそのまま放置された旧式の電気アイロンが出火元で、燃え広がった火を消し止めようと消防隊が現場に到着した時も一帯は停電中だった。
 排水ポンプは動かず、目の前のメインストリートには給水栓もなく、消防士が目の前の大同江から文字通りバケツリレーで水をかけていくしか対応策はなく、大規模な火災が収まったのは「とうとう燃えるものがなくなった」三日後の朝だったと言われている。死者数など事故について報じたメディアはなかった。
 列車が大同江を渡り切った。
 スモッグが町を覆っている。これは吉兆か凶兆か、相慶は努めて考えないようにした。
 工作員の堂々巡りの葛藤を嘲笑うかのように、列車はあっけなく平壌駅に到着した。

 三人は本能的に、バラバラに歩いた。
 幾何学模様に鉄骨の組まれた天井。その下にある長く暗いホームを進むと、更に暗い改札口があった。何人もの安全部員、保衛部員、軍服姿の若者がいる。
 その中に、見知った顔を見つけた。
 三日前の朝、元山のジャンマダンに向かう前にチラリと姿を見かけた時の、尊大で傲岸な雰囲気は雲散霧消している。数日で更に痩せこけ、視線は定まらず、隣にいる男におもねるような表情が、彼の今を端的に物語っている。
 それでも、本人であることに変わりはない。
 飲み込んだ鉛が胃袋の底に落ちていくような感覚。
 賭けにまずは負けた。
 しかしまだチャンスはある。張仁錫中尉の元にいた二日間、俺は白髪のオールバック、朝鮮人民軍の制服を着こんだ日本からのヤクザもんだった。
 今とは違う。そう、今とは違うのだ。
 
 元山保衛部の副局長、趙秀賢は怒り心頭に達していた。
 それなりに優秀だったはずの自分の「友人」が、これほどまでに腑抜けだとは思ってもいなかった。
 一昨日、張中尉を引き連れてこの平壌駅に到着し、地下改札口は平壌保衛部、明少佐の協力を得て問答無用で封鎖し、一箇所だけ残された地上の、壮大な駅舎ホールに面した改札口に陣取った。
 初日、張中尉は計八人もの男を指差し、趙秀賢だけに聞こえる声で囁いてきた。
「ヤマダに似ている」
 平壌保衛部からは腕利きの捜査官二人を割り当ててもらっていた。彼らに頼んだ追跡結果は、当然のことながらいずれも空振りだった。自分の寿命を指折り数える立場となる可能性に捉われたこの軍人は、滑稽なほど冷静さを失っていて、三十前後の男はことごとく「ヤマダのように見える」のだった。
 張り込み二日目の昨日、張中尉は十三人の下車客を指差して言った。今度は確実だ。
 平壌の保衛部員にとって、この元山から来たコンビは狼少年以外の何者でもない立場へと変質しつつあった。俺たちがこの田舎者に協力しているのは、上司である明少佐から、「元山のコソ泥逮捕に協力し、あの趙秀賢に恩を売っておいて損はない」と厳命されたからだ。
 しかしどうだ、こいつはこの程度の力量だったのか。
 ああそうだよ。趙は内心で毒づいた。俺はもともとその程度の捜査官なんだよ。
 三日目の今朝、張中尉が昨日よりは確信的な声色でつぶやいた。「ヤマダだ。今度こそ間違いない」
 平壌組はせせら笑ったが、趙秀賢は中尉の人差し指が示す男の一挙手一投足に注視した。共和国の人民にしか見えないが、それは元山の空き地で倒され、翌朝自由を取り戻した捜査官、盧一権の証言とも合致する。身長は百七十センチほど。この国にあっては大柄な部類だが、目立って背が高いという訳でもない。顔色は悪く体も痩せているが、身のこなしはしなやかだ。下を向き、官憲の誰とも視線を合わせようとはしないが、それは別にこの男に限った話ではない。
 左の袖口を注視する。一瞬だが金色に光る物体が見えたような気がした。
 男はそのまま通り過ぎた。俺が尾ける、そう言い残して趙秀賢は男を追いかけた。

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