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「平壌へ至る道 潜入編」(2)

「駅から逃げたのは俺たちだけじゃないですよ」
「もう一度公民登録証を見せろ」
 相慶は登録証を出した。その中に十ドル札を挟んで。男は当然のように摘まんだ。「財布ごと出せ」
 容疑者は声を低めた。どういう意味ですか。
 保衛部員は薄く微笑んだ。
「造船会社職員、李奉吉。どうせこれも不法に買い取った身分だろう?オマエたちはこれから逮捕され、明日には銃殺刑だ。いくらカネを持っていようが意味はない」
「あんた、俺を誰だと思ってる?」
 相慶はポケットから金時計を出した。保衛部員の表情がさっと変わったが、それでも瞬時に態勢を立て直してくる。
「それが偽物なら重罪だぞ」
 男は相慶の手から、その口調とは裏腹に丁寧な動作で腕時計を奪い取った。
「偽物だったら、オマエの罪は更に重なるぞ」
「それは怖いね」相慶は努めて余裕のある口ぶりで答えた。
 保衛部員は脇の下に湿り気が帯びるのを感じたが、即座に浮かんだ対応策は最も簡単なものだった。
(殺してしまおう)
 腰に手をやった。
 相慶の方が素早かった。
 相手の金的を蹴り上げ、右手を首筋に叩き込む。
 保衛部員はどさりと崩れ落ちた。
 腰巻にはトカレフを北朝鮮が独自改良した六八式拳銃があった。これだけの工業技術を持ちながら、愚かな為政者のお陰でこの国の人民は今日も明日も明後日も飢餓の日々だ。
 男の片方の靴下を脱がせ、両手首を縛った。もう片方は丸めて口に突っ込む。次に靴紐を抜き取り、足首も同じ措置を施す。
 背中に膝を入れ、上半身を伸ばして気道を広げてやる。
 意識を回復した男は叫ぼうとして、自分の舌が動かないことを知った。
「じっとしていろ。死にたくなければ」
 六八式拳銃の銃口が自分を見つめている。保衛部員は眼に怯えを宿しながら、無言で何度も頷いた。
「保衛部員の身分証明書まで手に入るわね」
「コイツの名前は明日にでも全国の安全部、保衛部、軍に伝わる。そんな男の身分証を持ち歩くのは得策ではない」
「随分とお優しいのね。殺さないの?」
 縛られた男がかっと眼を見開き、いやいやするように激しく首を振った。
「殺すのは俺の方針ではない」
「こいつは私たちに死を宣告したし、撃とうともした」
「自分の職務を果たそうとしただけだ」
「職務ねえ。盗んだ十ドルも、熱心な仕事の一環ってこと?」
「いずれ同僚が芋虫のようなこいつと、ポケットの中にある札も見つけるだろう。あとはこいつがそれを正当化する物語をどれだけ上司に納得させられるかだ」
 相慶は銃を草むらの中に投げ捨て、男に告げた。明日の朝にでも探せ。
 そして頚動脈を締め上げた。男は再び気を失った。
「こいつも草の中に隠す。手伝ってくれ」
「一人でできるでしょ」
「意識のない人間てのは重いんだ」
 保衛部員を雑草に放り込み、敢えてその横に「李奉吉」のIDを捨て置き、二人は下水道の入口へと急いだ。粗末な住宅街に漂う糞尿の匂いが居住者の存在を物語っているが、たまたまこの時間は誰もいないのか、関わりを恐れて息を潜めていたのか、周囲の人家からは漏れてくる明かりも物音も確認できなかった。
 
 日が落ちるのを待って、夕方七時、ジャンマダンに戻り着いた。屋台の半分が店を片付けている。
「ここで待っててくれる?」チャンスクがそう言い残して闇に消えた。
 二十分待った。
 この異国の地で、終われる立場となった者にとって、二十分は永遠とも言える長さだったが、相慶は動じなかった。あの娘が自分を裏切ったのなら、それはそれで運命だ。少なくともこの半日、彼女と過ごした時間は楽しかったし、彼女は幾つも有用な情報を俺に教えてくれた。
 夜の帳が更に空を暗く染めていく。
 チャンスクが戻ってきた。三十を少し越えた風の男を連れていて、相慶は軽い心の疼きを感じた。
「紹介する、この市場で鶏を売っている朴尚民。この人も両親を粛清で失い、今は反政府組織の一員」
 男は頭を下げ、それでも探るような目をこちらに向けてきた。「パクサンミンです」
 相慶は二枚目の公民登録証にあった北朝鮮人民軍兵士の名を告げた。「金明国です」
 そして差し伸べた右手を、朴尚民は失礼にならない程度に気付かぬフリをした。
「朴さんが新坪郡まで送ってくれることになった」
「それはどこだ」
 チャンスクはこれ見よがしに溜息をついた。あんた、腕っぷし以外に得意なことはないの?
 ジャンマダンの外れ、泥でぬかるんだ空き地に停めてあった三輪トラックを、朴尚民が無言のまま指し示した。荷台にはおがくずが敷き詰められ、売れ残りとおぼしき鶏が枝を編んで作った籠の中でばたばたと暴れまわっていた。中年女性-五十を越えているように見えるが、実際はまだ四十過ぎぐらいなのだろう―が二人、先客として乗っていた。
「みんなジャンマダンの商売仲間」
 相慶は話しかけた。「今晩は」
 会釈とも呼べない会釈が返ってきただけだった。
 それ以上の会話は彼の方でも控えた。名前は、住居は、取扱い品目は。日本では日常会話で済ませられるトピックでも、この国では命取りになる。
 朴尚民が木炭と大量の木材、トウモロコシの芯を荷台に担ぎこんでくる。芯はからからに乾いていて、触るとひんやりとした冷たさを帯びていた。
「木炭車よ」チャンスクは小さな声で告げた。
 ソ連崩壊後、北朝鮮への原油の供給量が激減し、民間人へのガソリンや軽油の配給は有名無実化していた。それならば、とこうして過去の遺物のような内燃機関を、既存のエンジンを改造し復活させ、実際の運用に耐えうるレベルに作り上げてくるあたり、やはりこの国の個々人の知的水準は相当に高い。
 朴がステンレス製の炉に持ち込んだ木炭等の燃料を投げ込んでいき、やがて炉が熱を帯び、震え始めた頃、朴は炉の蓋を開け、水を注ぎ込む。乗客が一斉に外へと顔を向けた。
「どうした」
 チャンスクは素早く答えた。「一酸化炭素が発生している。まともに吸ったら終わりだよ」
 相慶は慌てて周囲に倣った。
 トラックは激しく揺れながら出発した。煙は嫌がらせのように真っ黒だった。
「この煙に一酸化炭素は含まれていないだろうな」
「売春婦にそんな難しいこと聞かないで」
 チャンスクはエンジン音に負けない声で答えた。そんな二人の様子を、同乗者の中年女性たちは下を向いたまま黙殺し続けた。
 乗り心地は最低だったが、道の舗装状態は意外なほど悪くなかった。
「平壌元山観光道路よ。さっき駅でも話したけれど、鉄道で平壌まで行くには山を迂回するから八時間は掛かる。この道を使えば三時間半で着く」
 チャンスクは過ぎ行く暗闇を見回した。
「この時間ともなれば何も見えないけれど、昼間は美しい風景よ」
「過去に通ったことがあるのか?」
 彼女は首を振った。「聞いた話よ。旅したことなんて、この十年一度もない」

 トルクのない木炭自動車は上り坂で途中、四度止まった。相慶はその度に後ろから押し、最後には多少は良心が咎めたのか、握手を拒否した男が運転席から大声で話しかけてきた。
「今日は木炭の量が足りない。トウモロコシの芯では燃焼効率もこれが限界だ」
 一時間ほどで一人目の中年女性が、その三十分後に二人目が、それぞれ溢れんばかりの荷物を担ぎながら、挨拶もなく荷台を降りていった。
 二人きりになって、相慶は尋ねた。彼女たちは知り合いか?
 チャンスクは首を横に振った。全然話しかけてこなかったでしょ。
「この朴尚民のトラックには伝説があってね。ジャンマダンから帰宅する露天商の乗る車は、高い確率で安全部の検問に引っかかるの。現金をポケットにパンパンに詰めた連中を乗せていることは、沿道の誰もが知っているから。それでもこのトラックからは逮捕者が今まで一人も出ていない」
「なぜ?」
「朴が法外な賄賂を渡すからよ。だから彼のトラックは安心だという話が広まり、商売の終わった連中で新坪郡までの道中に家のある人は、この車に乗りたがる」
「それにしては四人だけだぜ。今や二人だ」
「別にジャンマダンの商人は友人同士でも仲間でもない」チャンスクは冷えた口調で応じた。
「評判の高いトラックは、輸送運賃も他の倍近くする。それで商人はその日の売り上げによって、身の安全とコストを天秤にかけながら帰りの足を選ぶのよ」
 男は納得した。なるほど。
「でもね、今日は違った」
 チャンスクはそう言って、両膝を抱きかかえた。トラックのヘッドライトを除けば山道に余計な灯はなく、空は溢れんばかりの星空だった。
「私が乗ることを知って、他の人たちはやめたの」
 相慶は察したが、彼女が自分でそれを話すのを待った。
「ジャンマダンは市場経済の形態をとっているけど、金日成が渋々認めた。配給制度なんてとっくのとうに破綻しているものね。でも皆が売っているのは野菜だったり卵だったり煙草だったり、お天道様の下にさらけ出しても恥ずかしくないものばかり」
 彼女はそこで空を見上げた。一旦は星空を覆ったトラックからの煤煙が、音もなく闇に溶けていく。
「私はね、物乞いや泥棒と一緒なの。この国に存在せず、いてはならない人間。だから私をもし安全部の奴らが見つけたら、たとえ法外な裏金をもらったとしても、お咎めなしという訳にはいかない。もしかしたら私がレイプされてそこら辺に捨てられて、あるいは撃ち殺されて、周りの乗客は何も見なかった、となるかも知れない。もしかしたら売春婦と同じ車に乗ったにもかかわらず、それを当局に報告しなかったことで全員が収容所送りになるかも知れない。それは誰にも分らない。分らない未来に賭けるのは怖いでしょ?特にこんな国では」
 頭上にそびえる山の端から月が出てきた。こんなに明るい月光を、相慶は見たことがなかった。
「あなたに煙のことを聞かれた時、私は敢えて答えた、『売春婦にそんな難しいこと聞かないで』と。彼女たちが私のことを知らないなら、後で迷惑をかけたくなかったし。でも先客のおばさん二人は車を降りなかった。今更トラックを変えるのも面倒だ、という程度の理由だったかも知れないけれど、ともかく降りなかった。おばさんたちが必死に私なんか目に入らないという芝居を続けていたのは、仕方のないこと」
 相慶は女の肩に手を回し、その頭に鼻を近づけた。頭髪は激しく臭ったが、気にならなかった。
「朴尚民は勇気があるな」
 チャンスクは顔を上げた。「なぜ?」
「君を乗せるということは、彼も火中の栗を拾うことになる。でも応じてくれた」
「それは簡単よ」女は相慶の腕を振りほどいて、舌を出した。月明かりの下、彼女の赤い舌が艶かしく映えた。
「百ドル払うと言った。途中検問があれば、賄賂の代金も肩代わりする、とも」
「百ドル?」
「よろしくね、金持ちの僑胞さん」
 相慶は笑った。任せておけ。
 車はあえぐように山道を登り続ける。「新坪郡はあとどれくらい?」
「私も来たことがないから正確なことは分らない。でも三十分ぐらいかな。あのさあ」
「うん?」
「ちょっと言いにくいけれど、もう一つお願いがあるの」
 チャンスクは相慶の腕に手を添えた。男は尋ねた。何だ?
「もし途中で検問があって、どんな策も通じなかったら、相手を殺してほしいの」
「-殺す?」
「さっき元山で保衛部員を縛り上げた時の、オッパの台詞は覚えているけど。金時計を持つ上級国民が、よりによってジャンマダンの商人御用達のトラックでハネムーンに出かけている理由を問い詰められたら、今日はなぜか元山駅が混乱していて列車への乗車が叶わなかった、と言えば、その場は切り抜けられるかも知れない」
「だろうね」
「あなたは頭は悪いけど度胸はありそうだし、堂々と噓をつき通せると思う」
 相慶は苦笑した。褒める時はちゃんと褒めてくれ。
「朴尚民がどっちに転ぶか分らない」
 女の言葉に、男は言葉を失った。これがこの国で生きていくということなのか。
「-そうか」
「あの保衛部員を空き地に捨てた時は、私たちの他には誰もいなかったし、町中だから隠れる場所はいくらかあった。でもこの道中で連中とトラブルになったら、こんな田舎だもの、逃げ道はない」
「-分った。俺のできることをするよ」
 トラックが停車した。
 運転席から男が降りてきて、言った。終点だ。
「検問はなかったな」
 男は肩をすくめた。今夜は町が騒々しかったからな、そっちに集められたんだろう。こんな夜もあるさ。それより―
「分っている」
 相慶は百ドルを渡した。朴尚民は札を月に向かってかざし、本物か否かを見極め、今度は握手を求めてきた。ちょっと話が、男の唇がそう動いた。
 女をトラックの横に残し、二人の男は道の端まで歩いた。

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