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長編小説「平壌へ至る道」(106)

 車を停めた。電力不足を戒厳令という言葉で糊塗した首都の夜。一台の車も通らず、一人の人間も歩いていなかった。
 それでも相慶は慎重に周囲を確かめながら準備を進めた。
 安サムチョル大佐はドアを開けて外に踏み出し、煙草に火をつけた。
「君の正体は知らされていないし、知りたいとも思わないが」
 彼はそして、大きく紫煙をブロンズ像に向かって吐いた。
「こうなりゃもう、君の成功を心から応援するよ」
 
 やがてロータリーの中心を、漆黒の空気が包んだ。突然に。
 深夜一時、町の全ての照明が落とされたのだ。

 大佐が相慶の背を軽く押した。日本から来た工作員はロータリーの中心へと進んだ。暗順応は既に済んでいた。異常なまでにささくれだった交感神経が、更に暗闇の中の視界をクリアにする。
 まるで夢遊病者のように、相慶は金日成像に取りついた。懸垂の要領で像台のてっぺんに両手の指を取り付け、一気に体を引き上げる。
 像台に上った。月明りは乏しく、今夜も町中に漂う霧が、更に遮光カーテンのような役割を果たしてくれている。
 それでも相慶は突き刺すような不安に駆られた。
 ロータリーの周囲に建つ建物の一つ一つの窓から、突如として強烈な光が浴びせられるような感覚に陥った。
 平壌の当時の人口は約二百五十万人。五百万の眼がこの暗闇で、実は自分の一挙手一投足を捉えているような錯覚も。
 像台から降りてしまおうか、という考えが、刹那によぎった。
 何もなかったことにして、全てを冗談にして、これから新安州青年駅に向かうのだ。そして中国へ向かう貨車に乗ってこの国を脱出する。第一級不敬罪に相当する事件など、何も起こらなかった。
 工作員は首を横に振った。
 趙秀賢がここまでお膳立てをしてくれた。予定通りに進行しなければ、彼の思いはどうなる?
 両手を髪にやり、噴き出し続けるねっとりとした汗を拭いた。
(さて、行くか)
 
 像のズボンをかたどる溝を左手で握り、背広のつばを右手で押ながら、自らの身体をずり上げていく。知床の断崖登攀に比べれば児戯に等しい作業だった。金日成の掲げた右腕の上に乗った。彼の顔はもう目の前にあった。
 ずっと思い描いていた目標地点。いざ到達するとあっけないものだった。
 ポケットからスプレーを取り出し、素早く鼻の下に噴射する。
 この時のために、時間をかけて準備してきた。糸魚川で現地人化訓練を受け、吹雪舞う北海道でロッククライミングの技術を習得し、ヤクザの事務所で違法薬物の基礎知識を脳裏に刻み、そして日本海を渡った。
 十年ぶりに訪問した「祖国」で偽装妻を演じてくれる女に出会い、翌日には本当に心を奪われていた。続く移動の過程では何人もの協力があった。その一つでも欠けていたら、自分は今ここにこうしていられなかった。
 だが感慨にふけっている時間はなかった。相慶はポラロイドカメラを持ち、ここからが最も慎重さを要する時間だったが、脇の下を固く閉じ、五秒ずつ露出時間を取りながら、計十枚の撮影を行った。
 その場で現像された写真が、カメラから次々と落ちていく。
 続けてシンナーを布に染み込ませ、鼻の下の黒ずみをきれいに拭き取る。
 闇の中でも視界の隅に安サムチョル大佐の車と、本人の姿がかすった。
 大佐にとっても、それは人生で一番長い時間だったろうが、彼は悠然と、あるいは悠然と見えるように煙草を吸っていた。
 この国で大佐まで駆け上がる男は、度胸も日本の去勢された連中とは違うのだろう。
 
 相慶は像の下に音を立てることなく飛び降りた。落ちた写真を全て拾う。
 こめかみの血管がどくどくと波打っている。過呼吸のためか肺が痛み、目眩までした。
 走る必要などないのに、車まで戻る足はどうしても速くなってしまった。
「満足したか」
 安大佐が、闇の中でも微笑んだのが分かった。相慶は頷いた。喉の奥がからからに乾いていて、言葉を発することはできなかった。
「さすがに君に運転させる訳にはいかんな」
 大佐は運転席のドアを開け、日本からの不法入国者は依然として震える手で、どうにか助手席の扉を開いた。
 現場を去り、凱旋門の近くへと戻った頃、相慶の呼吸と動悸はようやく落ち着きを取り戻した。
「手紙の中身をもう一度繰り返し、もう一度俺に聞かせてくれ」
 大佐の言葉に、役目を終えた相慶は、もう敬語を使うことなく答えた。
「いいだろう。あんたにはその権利が誰よりもある」
 手紙の内容を、相慶は読み上げた。今日の昼から頭を絞って草稿を書き、趙秀賢とも推敲を重ねた文章だ。一字一句、完璧に諳んじることはできたが、万全を期し、安大佐にはそれを正確に朗読することで情報の共有を図った。
 ハンドルを操作しながら最後まで黙って聞いていた安は頷いた。
「これも再確認しておくが、君が直接書いたんだな?」
「そうだ。俺の筆跡はこの国のどこにも保管されていない」
「その理由は聞かない方がいいな」
「そうだな。あんたが抱えるべき俺の個人情報は少なければ少ないほどいい」
 朴泰平の用意してくれたアパートからは、李昌徳との筆談が記録されたチラシも回収していたが、あの部屋にいた、三千万円を朝鮮労働党に寄付したパチンコ屋の世話係兼監視役のことを、忘れることができなかった。
 目を閉じて蹴りつけたら泣きながら鼻血を流した男、日本人に土下座までしてきた男。部屋を出る頃には名前も何もかも忘れてやろうと思っていたあの貧相な小男の記憶が、結果的に深く深く自分の心に刻まれてしまった。
「もうやめるよ」相慶のつぶやきに、煙草を咥え火を付けようとしていた安大佐が振り向いた。「何を」
「人を蹴ったり殴ったりすることを」
 大佐の呆れたように開かれた口元から紫煙が立ちのぼった。
「君はそんなことばかり今までしてきたのか」
「そんなことしかしてこなかった。今日もこっちの若い男を一人、血祭りにあげた。もうやめる。二度としない」
「気をつけてくれ。草の根がそんなだからチョソンと日本はいつまでも国交が回復されないんだ」
 そして二人でようやく笑った。
「-俺が日本から来たことに気付いていたのか」
「まあ、ヤマダというコードネームでおおよその見当はついていたが、その裏を掻くこともある。君の共和国訛りはほぼ完璧だが、俺も今夜はあらゆる感覚が研ぎ澄まされているからな。途中で確信したよ」

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