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長編小説「平壌へ至る道」(108)

 一九九四年六月~七月 糸魚川
 
 格闘技では天与の才を持つ男も、包丁を持たせるとただの愚鈍な青年に過ぎず、鄭相慶は常に先輩のおばちゃんパートから怒られていた。
「あんたねえ、時給八百円も貰ってんのなら、一分で三枚ぐらいさばいていきなさいよ」
「すみません」
「もう数日経ったでしょうが。昨日から全然上達してない!」
「本当にすみません」
 水産会社の社長である伊勢は、先月末中国から戻ってきた相慶の姿に、まずは深い衝撃を受けた。向こうの社会事情に合わせるため、敢えて髪を白く染め、老け顔に見えるような措置を施し送り出した男が、本当に十年は歳を取って帰ってきたからだった。
「思っていたより楽でした」
 そう笑う相慶だったが、異様な緊張の中で過ごした一週間強だったのだろう。
 伊勢はしばらくこの家でゆっくり静養しろ、と提案した。
「お言葉は有難いですが、そういう訳にはいきません。せめて働かせてください」
 そして魚をおろし、パックに詰め、漁協やスーパーに配送するアルバイトを始めた男の、手先は案外と不器用なようだった。

 鄭相慶が水産会社で働き始めた二度目の日曜、彼らは「安根拳」某支部の練習場所を訪ねた。
 予想通り、そこにはかつて二度も伊勢の身柄をさらったリーダーの姿があった。高弟たちからの怒号が飛び交う中、リーダーは彼らを歓迎した。
「リャン、ガキみたいに騒ぐな。伊勢さんがどれだけ勇気を振り絞って俺たちの門をくぐったか、想像してみろ。俺はちょっと抜けるぞ」
 彼は一人の手下を引き連れ、伊勢と相慶を近くのファミレスに案内した。
「ビールでも?」
 伊勢は首を振った。五分で終わる。オマエたちとご歓談するつもりで来たんじゃない。
 なんだとこの野郎、と立ち上がろうとした手下の正中線に裏拳を正確にのめり込ませ、そいつを再び着席させてから、リーダーは掌を上に向けた。
「では、手早く用件を済ませてください」
 伊勢は隣に座る相慶の肩に手を置いた。
「先月、この男はあんたたちと関係の深いある国を旅行し、そこでちょっとしたイタズラをしてきた。誰も傷つけはしなかったし、もちろん直接殺してもいない。イタズラが明るみに出た後、関係者の誰もが処罰されないように手も打ち、事実向こうで大きな動きはない。そして事はもう済んだ。俺たちは今後一切、今後一切だ、その国と関わりを持つことはない。今はこの男が俺のところで働いている。ただ暮らしていくために働いているだけで、そこには何のウラもない。だからもう二度と俺たちにちょっかいは出さないでくれ、とそれだけ言いに来た」
「それだけ?」
「それだけだ」
「一分で済んだな。じゃあこちらから質問する。十日ほど前、国内全ての首領像の清掃責任者をこれからは空白期間を設けることなく決定していく、とラジオで某国営放送が宣言していた。それと関係があるのか?」
「ある」
「その国の同胞に危害は加えたか?」
 相慶は正直に答えた。何人かは痛めつけた。だがもう二度と誰かに暴力を振るったりはしない。
 リーダーは白い歯を見せた。
「大阪の泉佐野市でパチンコ屋を経営している、俺たちにも少々ゆかりのある某団体の幹部が、某国政府への寄付行為に対する表彰式に出席するべく、つい先日その首都を訪問し、なぜか鼻の骨を折って帰ってきた。本人はコケただけだ、と頑として主張しているそうだが」
「じゃあそうなんやろ。その首都とやらは段差の多い町なんやろな」
 リーダーは白を切る元工作員に、じっと二秒間眼を据え、そのまま静かに言葉を投げかけた。
「気をつけろ、オマエの突き蹴りは常人のそれとは違うんだ、鄭相慶」
 二人の訪問客は一瞬だが本当にソファから体を浮かせた。リーダーはおいおい、と呆れた声を出した。
「正体を知られたぐらいでいちいちそんな反応を示す男が、どうやってあの包囲網を潜って金日成の像にチョビ髭を描けたんだ」
 二人の挙動不審な動きはますます激しくなった。
「安心しろ。オマエのやったことに対しては、実際国民の大半は喝采を送っている。まあウチの中では賛否両論あるがな、俺としてはその程度の出来事に目くじらを立てるつもりはない」
 それより鄭相慶、とそこでリーダーは初めて自分の本名も告げた。
「大阪で俺の名を聞いたことはないか?」
「何度もある。あんた、むちゃくちゃ強いらしいな」
「オマエの噂ほどではない。柔道の全日本経験者を一発で倒したってのは本当か?」
 相慶は微苦笑した。嘘だ。
「いくらなんでもそんなバケモノに勝てるほどの技量はない。逃げたら追いかけてきた、せやから階段で待ち伏せして突き落とした。それに尾鰭がついて一撃云々というしょうもない伝説になってしもた」
「俺が聞いたところでは、オマエが頚動脈への手刀一発でカタをつけたというのが真実のようだが。まあ、いい。どうだ、スパーリングでもやっていかないか?」
 相慶は手を振った。あんたには勝てない。それに俺は水産加工業者の職員としてこれから生きていく。もう喧嘩は引退した。
「そんなに慌てて白黒はっきりつけなくてもいいじゃないか。これからは趣味で続けろよ。オマエほどの技量の持ち主が、勿体ねえ」
「俺の技量なんて、あんた実際見たことないやろ」
「想像はつく。あの国に不法侵入して、どうやったかは知らんが首都の現人神のブロンズ像に落書きして、怪我ひとつ負わずに帰ってきたんだ。ウチの有段者どもが同じことをやってみろ、どこかで蜂の巣になっているだろう」
「運が良かった。それだけだ」
「それも実力のうちだ。ところでオマエがこの町にいることは、大阪の連中には敵味方の区別なく内緒なんだよな?」
「できれば黙っていてほしい」
「分った。オマエを怒らせて、俺も朝起きたら自分の鼻の下に髭が描かれてた、なんてことになるのも嫌だしな」
 二人が席を立つのを待って、リーダーは最後に言った。
「二度とあんた方にはコナはかけない。俺が保証する」

 その帰り道、伊勢は自家用車のハンドルを握りながら、助手席に座る相慶に顔を向けた。
「鄭くん。また話してくれよ。最後の日のこと」
「もう二度披露しましたよ」
「いいじゃないか。君の話を聞くたび、俺の中で兄貴の供養ができる気がするんだ」
 それを言われたら、若者に反論の余地はなかった。
「落書きを終え、軍大佐の車で安州まで脱出しました」
 相慶は話し始めた。

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