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長編小説「平壌へ至る道」(114)

 梅雨があけ、月が変わった。
 鄭相慶はそのまま伊勢の経営する水産会社の正社員となった。
 その間、安根拳の支部リーダーから一度だけ連絡があり、オマエが去年布施で刺した力道山の本名と同じ信洛という名のガキは、すっかり回復してつい先日恐喝その他でパクられたぞ、と聞かされた。
 相慶は受話器の向こうの見えない相手に破顔した。それだけ元気になったのなら良かった。
「そいつと一緒に現行犯で挙げられた阿呆がもう一人いる。相慶、それが誰か分かるか?」
「分からない」
「少しは年長者への礼儀として考えるフリをしろ。オマエの長年のツレ、朴龍洙だ」
「龍洙?パク・ヨンスか?」
「そうだ」
「生きてたのか、あいつ」
「ああ。オマエたちと敵対していた格闘技団体の連中に攫われて、ひと月ほど監禁されていた間に、囚人と見張り役という立場を超えて何故か仲良くなったらしい。攫われた際に龍洙は信洛の手下から二の腕を刺されていたが大した怪我ではなく、むしろオマエに大腸まで達する刺傷を負わされ生死の境を彷徨った信洛に、随分同情していたみたいだぞ。信洛の退院後、二人で借金取り立ての下請け稼業を始めて、とある債務者のオフィスの窓から信洛が机を放り投げ、龍洙が相手の胸倉を掴んでいたところ、踏み込んできた府警ご一同様からあえなくお縄となった」
「ーアホやんけ」
「時として必要なんだよ、ああいう手合いも」
「まあ何でもええわ。生きてりゃそれだけでええ」
 そう答えて電話を切ろうとした男の鼓膜はしかし、次の声を拾ってしまった。
 会いたくはないか?
「ーえ?」通話を終えかけた手の動きが止まった。
「ヨンスに会いたくはないか?」
「どういう意味だ?」
「言葉通りの意味だよ。今回の件は威力業務妨害、建造物侵入、器物損壊、加えて恐喝と罪状のオンパレードだが、相手も悪質な借り手だったようで、初犯でもあることだし状況的に執行猶予がつくだろう。放免となれば俺のツテで奴を糸魚川まで呼び寄せることもできる。もちろんオマエが刺した相手にも直接謝罪したいというのなら、そっちのガキも一緒に招待できるが、どうだ?それともまだやっぱり、オマエは大阪の連中にとって消えた存在でいたいのか?」
 受話器を握る相慶の指が強張った。
 十五歳の春に互いの腕っぷしを確かめ合い、その後十年以上、自分の真横で修羅の日々を共に走り抜けてくれたチングー朋友ーに、会いたくない訳がない。
 自分がナイフで刺し、一時は殺したものと観念していた相手にも、何らかの詫びを伝える義務が俺にはある。
 でも、と相慶は思う。
 目を強くつむり、彼は震えそうな声を呑みこむようにして答えた。
「あいつらの住む世界と、俺の住む世界は、今はもう違う。あいつらはもう俺のことなど忘れるべきや。それに信洛とやらに手をついて謝ったところで、楽になるのはむしろ俺の方や。奴には一生俺を恨んでいてほしいし、俺を赦さないでほしい。それが人様の腹にナイフを刺した糞野郎の取るべきケジメやろ」
 安根拳のリーダーは一言で応じた。分かった。
「まあ、気が変わったらいつでも連絡してこい」
 相手はそれ以上何も言わず、こちら側も同様だった。今度こそ本当に電話が切れた。

 朴泰平は韓国人女性と入籍してソウルに渡った。渡航前、相慶とも一度だけ酒を飲んだ。今は李昌徳の所属するボランティア団体の事務長に収まっている。李からはたまに連絡がある。遊びに来いよと誘っても、今は忙しいというつれない返事を聞かされるばかりだ。
 議長は警察を辞め、拉致被害者家族で結成された国内の事務局に何度か足を運んだようだが、ハチドリの雛の耳クソ程度の協調性しか持たない男に団体活動は無理だったようだ。今は隠居生活に入って毎日釣り三昧とのことだが、自分を北朝鮮に送るため、退職金全額をヤスダ興産に払ったことを知る相慶は、いずれ自分の決して充分ではない給料から、少しずつ返していこうと考えている。先方は受け取りを拒否するだろうが。
 そしてその議長から、今月末の土曜日、ひさしぶりに糸魚川に行くから一献交わそう、という電話が入った。
「もちろん」
「伊勢さんが『望郷』の座敷を押さえてくれている」
 『望郷』は生き残りを賭けて多角化経営へと舵を切った伊勢が、自社の水産加工物を排他的に仕入れること、店の命名権を自身に与えること、を条件に開業資金の半分を貸与し地元のUターン者にオープンさせた海鮮居酒屋だった。自社商品のアンテナショップとしての役割をも果たすその店には、帰国直後は毎晩のように伊勢に連れてきてもらっていたが、月を跨いだ頃からぱったりとその習慣が途切れていた。味は確かで社員価格も適用されるその居酒屋を相慶自身は気に入っていたのだが、伊勢は何かと理由をつけてそこでの食事を忌避するようになっていた。
 
 月末の土曜日、伊勢と連れ立って相慶は『望郷』に足を運んだ。
 乗り込んだタクシー車内で、伊勢は自らの不審な挙動を隠そうともせず、にやにやと微笑みかけてくる。なぜそんなに俺を見て笑っているんですかと尋ねてこいよ、とその両目が物語っている。
 相慶は無視した。話したいことがあるのならさっさと話せばいい。俺から呼び水を撒くこともない。
 十五分が過ぎた。待ち合わせの店が見えてきたが、伊勢の薄ら寒い含み笑いは畳まれる気配もなく、相慶は溜息をついた。
「なぜそんなに俺を見て笑っているんですか?」
「ーえ?俺、笑ってた?」
「この期に及んで白々しい台詞はよしてください」
「深い意味はないんだよ。鄭くんが帰国した時、顔色は真っ青で頬はこけて、髪は本当に白くなって、どれだけ君に重荷を背負わせた旅だったのかと反省させられた。でも今は随分ふっくらしてきて血色もいいし、本当にホッとしている。元気を取り戻した君の横顔を眺めていると、どうしても口元が緩くなってしまうのは許してくれ」
 
 店に着き、タクシーを降りた。
 座席に通された相慶は、ふすまを開けて絶句した。
 議長、安田、そして朴泰平、李昌徳までいる。
 伊勢の詐欺師的微笑の理由はこれだったのだ、とその時はそう思った。
「みんな…」
 その後は声にならなかった。
 ほら、共和国最大のいたずらを成し遂げてきた男が情けない顔するな、そう言って議長が酒を注いでくれた。安田が肩を叩いてきた。
「今日はスカウトの話は一切しないから安心しろ。しかし最初に一言だけ伝えておく。そこのしょぼくれたおっさんが経営しているしょぼくれた水産会社の三倍は給料を出すぞ」
「最初に一言だけ答えておきます。十倍でもヤクザにはなりません」
 店員が注文を聞きに来た。いらしゃいませ。注文どぞ。
 最近はアジアからの出稼ぎ者が地方でも急激に増えている。この店員もその口だろうと思いながら、相慶はメニューを眺めた。
「俺はとりあえずモロキュウと子持ちシシャモ、あと生中。皆さんは?」
 顔を上げた若者に、議長は厳しい声で注意した。ちゃんと店員の顔を見て注文しろ。
「何だそりゃ」
 相慶は店員に視線を転じ、そこでメドゥーサの首でも見たかのように硬直した。
「ーえ?」
 彼女は微笑んだ。久しぶり、元気そうだね、相慶オッパ。

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