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「平壌へ至る道 潜入編」(4)

 明け方、男は寒さで目が覚めた。
 高ぶった神経が、もう一度眠れそうにはないことを教えている。
 「寝れなかった?」女もまた起きていた。
「心を落ち着けたいなら、私の中に出していい。カネは娼館でもらったし、私、妊娠の心配はないので」
 相慶は眉間に皺を寄せ、無言のまま問いかけた。
 女は視線を落として首を振った。別にたいした話じゃない。父親が誰かも分らない命を宿して、売春宿の女将に連れられて市場のモグリ医者のところで堕胎して、その夜には客を取らされて大出血して、一命は取り留めたけれど子供を作ることはもうできなくなった、それだけの話。
「それだけの話、じゃないだろ」
「この国にそんな女は何十万といる。収容所に入れられた女性は看守に乱暴されて、着床したら引き摺り出されて、それを何度も繰り返されて、役目を果たせなくなれば捨てられるだけ。堕ろすには遅すぎる命を宿した女も同じ。生きたまま、穴にポイっと」
 そして呟いた。妊娠しない分、私は男にとって都合のいい商売女なんだよ。だから今日まで生きてこられた。
「ねえ、オッパの話をしてよ。この国に来た目的は元山のあの部屋で教えてもらったけど、オッパ自身のことは殆ど聞いてない」
 話題を変えるように明るい声を装う女の心境を想い、相慶は話した。
 自分が日本の大阪という街で喧嘩術の先生をしていたこと。同胞間の対立で相手方を刺し、殺してしまったという思いで自分も死に場所を探していたこと。この国に娘を拉致された、議長と呼ばれる男に拾われ、同じく兄を殺された水産業者の家でこの国の人民に変貌する訓練を受けたこと。その後ヤクザの組に預けられ、覚醒剤の取引に乗じて元山の港に非合法で入国し、これから平壌で金日成像に落書きをすること。
「馬鹿な男」
 チャンスクは男の肩に掌を置いた。冷えた手だった。
「日本人は昔この国で何万人も虐殺したくせに、自分たちが被害者になれば、そんなに怒るのね」
「君の言い分も理解できる。でもこれはその議長のおっさんにも話したんだけどね、何万人死んだとか、何パーセント人口が失われたとか、人の命ってのはそんな統計的指標で数えるべきものではないんだ。確かに北朝鮮が拉致した日本人の数は、かつて日本兵が殺戮した朝鮮人の数に比べれば一パーセントにも満たないだろう。でもその中の一人はおっさんのひとり娘だった。おっさんにとっては人生の全てだった」
「だからといって、落書きに何の意味があるの?金日成を殺そうとは思わないの?」
「ガードが固すぎるし、どこにいるかも分からない。それに殺人に対する報復で同じ手段を選んでしまったら、結局それは被害者と加害者が入れ替わるだけの焼き直しだ。俺たちはいわば一種のユーモアで奴らに復讐する。どことなく笑えて、君のように馬鹿じゃないのという感想を皆が持つ、それでいて当事者には死に値する屈辱を与えることができる方法でな。これが成功したら、俺の日本の協力者は、金日成への憎しみを捨てると言明している。負の連鎖をそこで断ち切ることができるんだ」
「-そんなものかしらね」
「チャンスク。君の話も聞きたい。まだ苗字も教えてもらっていない」
「思い出せば死にたくなるような記憶しかないの、苗字も含めて」
 相慶はそれ以上何も聞けなかった。女もそのまま口を閉ざした。
 二人はそのまま朝まで、寒さから互いを守るように抱き合って過ごした。

 国家安全保衛部元山副局長、趙秀賢は深夜零時を過ぎた頃、元山市の元南一洞にある自分の職場に戻った。
 体は疲弊しきっていたが、高ぶった交感神経が眠気をどこかで遮断していた。
 そこに加えて、起こるべくして起こった出来事。
 駅ではとうとう、チョッパリらしき男の姿も、その逃亡を手引きし、自らも消えた売春婦おぼしき女の姿も確認されなかった。
 町に散った保衛部員からも、有用な情報は一件しか寄せられなかった。
「言葉に若干の訛りがある『政府関係者』が市場のバッジ屋の店前で、白特務上士の外見と一致する若い兵士と揉めていた、との証言がありました。店の老婆を尋問したところ、男は羅津、先峰の経済特区への招聘状のレプリカはないかと尋ねてきたそうです。何か売ったか?と尋ねたところ、老婆は唾を飛ばしながら滅相もございませんと叫び返してきました」
 その他はゴミのようなレポートばかりだったが、日付が変わり、新たに気になる情報が入ってきた。
「盧一権の姿が見当たりません」
 零時ちょうどの点呼に、盧は現れなかったという。趙はそれをどう分析したものかと悩んだ。盧一権は優秀な捜査官だが、汚職にまみれた保衛部員でもあった。自分が駅にいた時、彼もそこにいたことは記憶している。夕方の五時過ぎ、咸興からの長距離列車が到着したのを機に駅構内で混乱が生じ、そこにいた人間はざっと三分の一にまで減った。奴の姿をそれ以降見た記憶はない。
 夜の九時過ぎ、南の高城方面、平康方面への列車が立て続けにやってきた。日本からのペルソナ・ノン・グラーダがその列車に乗る可能性はほとんど考慮の対象外と判断していたが、十一時過ぎに東北地方への夜行列車がやってきた時は、目を皿のようにして改札で過ごした。これから十五分の間に展開される結果によって、明日自分たちの生死が決定されると考えていた朝鮮人民軍の若い二人の兵士は、鬼気迫る視線を通り過ぎる乗客に注ぎ続けた。
 夜行列車が闇に溶けるように消えていく頃、駅構内から人っ子一人いなくなった。容疑者の姿はなかった。
 ホールの壁に飾られた金日成・金正日の巨大な肖像画が、その様子を咎めてくるように見える。趙はその時もまた、こんな夜を自分に与えた独裁者親子への憎しみを感じずにはいられなかった。
 事件はそこで起こった。
「オマエのせいだ!」
 振り返ると、池下士が口から泡を飛ばしながら白成範特務上士を指差していた。
「オマエが俺一人に捜索を押し付けて、あの反動分子の商売女とやっていたからチョッパリを逃がした!全部全部全部、オマエの反革命行為だ!」
「池!俺はオマエの上役だぞ!指揮系統を破ったオマエこそ反逆罪だ!」
「うるさい!」
 池は短銃を構えた。既に安全装置を取り外していた。
 轟音が駅構内に響き渡り、趙は咄嗟に身を伏せた。駅入口から朝鮮人民軍元山特別軍区第二十四師団の見張り兵が走ってきた。軍靴がコンクリートの床を鳴らすカツカツという音が、その後何年も趙の中で幻聴として蘇り、彼を悩ませることとなる。
「池下士!やめろ!」
 また轟音がしたが、一度目よりは小さく聞こえた。砲身を口に咥えていたため、反響音が減じられたのだ。
 
 下級兵士が上官を殺害し、直後に自殺。
 北朝鮮ではありふれた事件ではないが、珍しい事件でもない。事後処理は速やかに行われ、趙は証言を求められることさえなかった。地方で頻発する類似ケースと同様、彼らは「訓練中の事故死」と平壌には報告され、その報告書は機械的に捺印されどこかの保管庫に眠ることになる。
 事務所に戻り、芳しくない情報の羅列を聞かされ、その最後に盧一権の失踪について報告を受けた。
 おおかた咸興からの列車でやってきた今日の宿無しを独自の嗅覚で追い回し、それが女なら体の提供を見返りにどこかの安宿を紹介でもしているのだろう。だが盧は愚鈍な男ではない。今日の捜査がいつもと違うことは、よく分っているはずだ。
 趙は結局帰宅せず、朝まで事務所で過ごした。
 夜通し管轄する小部隊の各リーダーに無線で指示を与え、状況を確認したが、目新しい情報は得られなかった。
 無線の頻繁な使用はリスクが伴う。どこで誰に傍受され、それを利用されるか分からない。金正日が実質的な後見人として控える趙秀賢は、この魑魅魍魎の集団内における、いわばアンタッチャブルな存在ではあったが、金正日からの寵愛は生涯の安全を保障するものではない。
 趙は可能な限り符牒を使い、最小限の言葉で部下たちと情報の交換を行った。
 慎重に振舞う必要がある。
 この不手際は、絶対に平壌に知られてはならない。

 その同じ夜を空き地で過ごし、明け方に寒さで目が覚めた盧一権は、這いつくばるようにして石のある場所まで進み、自分の手首に巻かれていた靴下を何度も擦った。
 十五分後、手の自由を確保した彼は、足に巻かれた紐を解き、草むらの中を掻き分けてようやく拳銃を発見し、自宅に戻って新しい靴下に履き替えようか、だが自宅に戻れば自分を早速『掃除』しに来た誰かが隠れているかも知れないと思い直し、上司である趙秀賢の慈悲に賭ける決意を固めた。右手にある十ドル札の存在までつまびらかに自供するつもりはなかったが、虚偽が顕わになった場合の行く末は、保衛部員なら実例を幾つも見てきている。
 元南一洞まで、明け方の町を、彼は歩いた。
 
 盧の証言は、捜査員を更なる混乱に陥れるだけだった。
 男はチョッパリには見えなかったという。
「少し訛りはありましたが、典型的なチョソン人民でした。元山の造船会社の職工、李奉吉なる核心階層の公民登録証を持ち、髪も黒く、年齢は二十五にも三十五にも見えました。外見上の特徴が全くないのが特徴でした」
 女も売春婦には見えなかった。田舎から出てきたばかりのような垢抜けない女でした。
 男は恐ろしく強かった、気がつけば倒されていた、という点だけが、昨夜元山駅構内で部下に殺害された朝鮮人民軍の特務上士の証言と一致し、それだけの技の使い手がそうそうはいないと思われることより、それが「ヤマダ」であると確実視された。
「では、どこに消えた?」
 市内の安宿が虱潰しに調査された。部下の妻と寝ていた朝鮮人民軍の別部隊の大尉が逮捕され、大麻を吸っていた印刷業者も身柄を拘束された。それ以外にも続々と「退廃した西側諸国の猿真似」によって挙げられる人間で保衛部の留置所は溢れ返ったが、目当ての男も、その連れ合いも発見されなかった。
 その間、元山の造船工場で機関部の修繕を担当していたという「李奉吉」は実在した人物で、半年前に餓死していたことが判った。ジャンマダンの偽造バッジ屋の老婆が販売の事実を頑健に否定し続けている以上、「ヤマダ」がどのようにして死んだ男のIDを入手したのかを辿る術はなかった。
 盧は粛清覚悟で、最後に付け加えた。「男は金時計を持っていました」

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