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「平壌へ至る道 潜入編」(3)

 周辺は夜でもその風景の美しさが分った。目の前に広がるダムの水面を、月明かりが銀色に染めている。この国の景勝地の一つなのだろう、背後にコンクリート造りの、夜目にはそれなりに立派なホテルがあり、駐車場には数台の観光バスが止まっていた。
「あんたはチャンスクの恋人か?」朴尚民が口火を切ってきた。
「いや、昨日知り合ったばかりだ」
 朴はしばし躊躇い、意を決したように尋ねてくる。あいつの職業は知っているな。
 相慶は頷いた。
「あいつを守ってやってくれ」朴の目は真っ直ぐ相慶に向けられた。
「あそこで働いている女はみんなそうだが、やりたくてそんな仕事をしている訳ではない。大体がコッチェビ上がりだ。野垂れ死ぬか体を売るか、どちらかしか選びようがなくて今がある。稼げるようになっても安全部の連中を怒らせれば、その後の運命はそいつらの胸三寸だ。崖っぷちを歩きながら、それでも今日まで生き永らえてきた。だが今夜からはそうではない」
 そして逮捕者を出さないという伝説の運転手は、相慶の胸を人差し指で突いた。
「事実がどうあれ、そしてあんた自身がどれだけ否定しようとも、チャンスクはあんた、自称金明国の女になった。あの場所から男と逃げたことで、捕まればあいつの人生は終わりだ。それでも逃げたんだよ、チャンスクは。あんたを必死に掴んで、あんたに運命を託して」
「分ったよ」よく分った。
「あんたがどこの人間かは知らないが、微かな訛りや百ドルを惜しげもなく払えるところを見ると、失礼だが僑胞ではないかと思う」
「正解だ。僑胞であることを恥とは思っていない。失礼だが、なんて言わないでくれ」
「こっちで暮らしているのか」
 相慶は首を振った。
「日本か」
「そうだ」
「これからどこに行く?」
「平壌。そこで一仕事終えて脱出するつもりだ。ここから平壌への交通機関はあるか?」
 暗闇の中、ようやく朴の白い歯が見えた。
「そんなもんある訳ないだろ。明朝、中国人観光客のフリしてツアーバスに乗り込め。平壌には一時間半もあれば着く」
 朴は遠目に月光で視認できるバスを指さした。
「特に中国人観光客を相手にする機会が多いバスの運転士は、高い確率で反体制側の人間だ。覚えておくといい」
「どういうことだ」
 無学な工作員に、朴は説明した。
「この国を観光バスに乗って旅できる団体客は、九割以上がロシアか中国からの連中だ。在日の訪問団もいるが絶対数で言えば少数派だ。中国からの観光客など十年前は皆無だったがな。なあ、煙草あるか?」
 相慶は箱ごと差し出した。
「全部くれるのか」
「授業料だ」
「では遠慮しない」朴は一本を取り出して火をつけ、煙を吸った。
「さすがに北朝鮮産とは味が違うな。あんたは吸わないのか」
「俺は格闘家だ。煙草はこの国での賄賂として持参しているだけだ」
 木炭車のドライバーは小さく愛想笑いを示した。
「つい十年前までは俺たちとどっこいどっこいの最貧国だった中国も、鄧小平の時代になって開放政策をばんばん打ち、自由にできるカネを手にした成功者が雨後の筍のように発生したんだ。そんな連中の一部の趣味が海外旅行になった。ロシアの奴らは内心アジア人を同じ人間だと思っていないが、中国人は違う。黒龍江省や吉林省には朝鮮語が分かる者も多数いるし、漢字を使った筆談である程度の意思疎通もできる。今やあいつらは開放政策というものが庶民の暮らしにどう反映するかという実例と、この国がいかに情報を遮断された独裁国家であるかということを、身をもって教えてくれる存在なんだよ」
「そしてそんな観光客に日常的に接することのできる職業の一つが、バスの運転士という訳か」
「そういうことだ」朴が盛大に吐いた紫煙が、夜の漆黒に溶けていく。
「外国人の眼を通して自国を客観視されることを、言うまでもなく体制側は恐れるよな。だから観光バスの運転士なんてのは、本来思想的にガチガチな奴らが軍から選抜される。団体旅行には添乗員という名目で監視員が必ずついて回り、運転士と相互監視を続けているが、人間てのはそうそうバカではない。本人がその気になれば学ぶ機会はいくらでも捻出できるし、監視員だってスーパーマンじゃない。バスに目一杯詰められた観光客五十人の動向を逐一独りで追いかけられるはずなどないんだ」
「ましてや思想的に固い奴ほど、幻滅後の転向は早い」
「その通り」
 そして朴は続けた。早朝を狙え。
「添乗員は観光客のチェックアウトの手伝いや朝飯の世話で、朝はてんてこ舞いだ。運転士はその時間、先に外出して車両点検する。誰からも監視されていない時間だ。その時に話し掛けろ」
「最初から正直に身分を明かしていいのか」
「おい、俺はついさっきチャンスクを守ってくれと頼んだばかりだぞ。運転士が反体制派というのは、あくまでも確率の問題だ」
「分かった。恩に着るよ」
 そして相慶は更に一箱の煙草を荷物から取り出し、再び目の前の男に提供した。「もう一つ教えてほしい」
 朴尚民は躊躇なく受け取った。「なんだ」
「あんたは反政府組織の一員だと、チャンスクが教えてくれた。彼女がそう言うのなら、俺はその言葉を信じる。平壌までの途上にいるあんたのお仲間を教えてくれ」
「何のために?」緩みかけていたドライバーの表情が強張った。
「緊急時のセーフハウスとして使えるかも知れない」
 朴尚民は溜息をついた。
「俺たちは組織だって活動している訳ではないんだ。横の連絡手段など何もないし、郵便物は全て読まれる。こうして立ち話をするのだって、昼間じゃ論外だ。しかも今あんたたちのことを伝えようにも、情報共有までには早くて数日、下手すりゃ数週はかかる」
「通信手段は何もないのか?」
 日本でもようやく携帯電話が流通し始めた一九九四年当時、北朝鮮ではまだその存在すら多くの国民は知らずにいた。
「昔は軍鳩-伝書鳩-がいたが、今は駄目だ。大気内の磁気が変わったのか、目的地に着く確率も、帰巣の確率も、つい数年前より半分近く落ちた。足にメッセージを巻いた鳩がまかり間違って軍施設に迷い込めば俺たちは終わりだし、そもそも生きてる鳩など、とっくのとうに一匹残らず食われちまったよ」
「あんたの信頼する同志は、本当にこの道の途上に一人もいないのか?」
 朴尚民はじっと相慶を見つめた。
「ここから三十分も車で走れば、谷山という町がある。まだ生きているとして、俺が知るだけでその町には五人の反政府主義者がいるが、平壌元山観光道路からは外れた位置にあるから、あんたがそこに辿り着くことは不可能だ」
「他の場所には?」
「なあ、あんた」朴尚民は苛立ったように口を開いた。
「俺がそんなことを喋れる訳がないだろう?チャンスクになら話してやってもいいが、あんたのことは何も知らない」
 相慶は胸元からペンダントを引っ張り上げた。先に鍵がぶら下がっている。
「これは俺をこの国に運び込んだグループの一人が入手した、平壌市内の総連幹部向けアパートのキーだ」
 住所は知らない、と前置きし、潜入者はアパートへの行き方を話した。平壌地下鉄のどの駅で下車し、どの出口から下界に出て、どの通りを歩いてどこで曲がって、何階まで上るのか、というところまで。
「あんたが俺から裏切られたと信じる事態が起きれば、保衛部の奴らに今の情報を伝えればいい。俺がそこでしばらく過ごすようなら、俺の身柄はあんたに預けたも同様だ。それからこのことも断言しておく。俺は元々死ぬつもりでこの国に潜入し、今もその気持ちに変わりはない。俺がもし捕まったら、誰の名も売ることなくその場で舌を噛み切ると、ここに約束しておく」

 朴尚民は更に深く溜息を吐き、やれやれと首を振った。
「ここから一時間ほど車で走れば、祥原という町に着く。平壌元山道路から、橋を渡ったところにある小さな町だ。川を挟んで軍施設があり、住民はその関係者、いわば平壌暮らしまであと一歩の、核心階層の二軍のような奴らだ。そこで『先生』と呼ばれている爺さんがいる」
「核心階層の牙城でその呼称なら、バリバリの金日成シンパなのでは?」
「この国にそんな奴が何人残っていると思う?選ばれた民しか住めないはずの平壌ですら、金親子を糾弾するビラが無名の誰かによって何度も撒かれているらしい。そんな噂は当局がどれだけ抑えつけても、国中にすぐ溢れ返る」
「その爺さんもまた国の現状に失望した革命世代の一人って訳か?」
 伝説のトラックドライバーは首を小さく縦に振った。
「橋を渡ってすぐ、町を望む川沿いにある高級アパートに『先生』は住んでいる」
「了解した」
 この国の殆どの男がそうであるように、朴尚民の身体も肉は薄く、しかし日本から来た格闘家の腕を掴んできたその指には、執念とも言うべき猛々しさが漲っていた。
「立ち話をしただけで何かの容疑者となるこの国で、誰かの家に遊びに行くことは論外だ。『先生』の部屋はその貴重な、本当に貴重な例外なんだ。俺は過去に一度だけ、そこで『先生』と話すことができたが、保衛部や安全部の連中がガサをかけてくることもなかった。もしあんたのせいで『先生』とその住居が失われることになったら、それは俺たちにとっては百年分の大打撃だ。そうなれば俺はあんたを地の果てまで追いかけて、この手で殺すぞ」
「さっき言ったが、そうなれば俺は自分でオトシマエをつける。だが誓ってそういうことにはならない。なあ朴さん、そこまで話してくれたのなら、『先生』の名前も教えてくれ」
「キムイルボンだ」反政府主義者は素早く答えた。「金一峰。金日成と殆ど同じ発音の名前を名乗ることが半世紀以上許されてきた爺さんだ。ここまで知った以上、あんた、もう後戻りは許さないからな」
 相慶は力強く頷いた。
「俺は前を進むしかないんだよ、ここまで来た以上」
 その腕に食い込む朴尚民の指の力が、更に強まった。
「チャンスクと別れざるを得なくなった場合は、最後にそれなりの礼は尽くしてやれ。無用に傷つけるな。あいつは充分に悲しい思いをしてきた、まだ二十四歳なのに」
 相慶は朴の肩を叩いた。あんたという人間に会えてよかったよ。
 
 去っていく木炭トラックを見送りながらチャンスクは尋ねた。
「長い時間何を話し合ってたの?」
「彼は、君に好意を抱いているようだな」
 彼女はその言葉の真意を測るように、十秒近く相慶に咎めるような視線を注ぎ、そして溜息をついた。
「男ってのは本当に甘い生き物だよ」

 相慶は中国語が車体にラッピングされているバスの前面に回り、右下の小窓を開けた。スイッチを入れると、ぷしゅっという音と共にドアが開いた。
 女が目を丸くする。あんたが喧嘩以外で初めて役に立った。
 仮の宿としてはまずまずだったが、車の中はそれでも寒かった。二人は通路に並んで、抱き合うようにして寝転んだ。
「したい?」女が聞いてきた。男は首を横に振った。
「何百人もの男に乗っかられた体はいやよね」
「そうじゃない」相慶は女を強く抱き寄せた。
「男の言いなりにならずに眠る夜があってもいいんじゃないか」
 女は、男の腕の中で頷いた。

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