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「平壌へ至る道 潜入編」(15)

 俺の同期で、比較的穏健な奴がいた。苗字は延、名前は勘弁してほしい。
 延は咸鏡北道会寧市沙乙里にあった第二十二号政治犯管理所、いわゆる収容所で看守の職にあった。囚人数は千人と比較的小規模だが、出所した人間は過去一人もいない。二十二号管理所では主に豚肉と石炭を生産していて、石炭は平壌市で利用されている。そういう意味では国家安全保衛部が運営する国内に十ある政治犯収容所の中では、まずまず重要な施設と言えたし、延はエリート街道を歩んでいると言えた。
 時々は奴も女性の囚人をレイプしていた。欲望に駆られてというよりは、そうしないと次は自分が粛清対象に挙げられることを恐れての行為だった。
 収容所では性行為は挨拶代わりのようなものだ。看守と囚人間だけでなく、囚人同士の交渉も盛んだった。聞いたところによれば、これは世界中で共通する現象らしいな。自分の死があまりにも身近に、それこそ影のように張りついているような場所では、人間は種の保存という本能に従って、男も女も発情期の獣のような状態になってしまう。たとえロクに食うこともできない、栄養失調でばたばた仲間が倒れていくような世界でも、いや寧ろそういう世界だからこそ、彼らは貪りあうようにして互いの体を求めるそうだ。
 だから収容所では、意外なほど子供の数も多い。妊娠が発覚した女性は即処刑対象となるが、中にはそれを免れるケースもある。生まれてきた子供には市民権は無論、名前すら与えられない。塀の中で糞尿にまみれて短い一生を送るだけの存在だ。
 そんな幼児の群れの中に、推定で六歳になる女の子がいた。延には比較的なついていたらしい。まあなつくといってもその内容は外の世界のそれとは大きく異なるが、同じ年頃の子供を持つ延も、彼女には時折こっそり芋の根を与えるとか、木の実を渡すとか、そうした便宜を図ってやっていたようだ。バレればどちらも極刑だが、同僚たちはこの世の地獄に一つぐらいは心温まる交流があってもいい、とそれを黙認し、誰も密告はしなかった。看守だって生まれた時から鬼だった訳ではないんだ。
 しかしある日、運命が変わった。
 抜き打ち点呼で、その女児の囚人服ポケットから、トウモロコシの種が三粒見つかった。三粒だぞ?しかし管理所の所長は延に刑罰を命じた。ひと粒につき十発、拳による殴打をな。
 手を抜けば自分の身が危うい。延は涙を堪えて少女を殴りつけた。彼女は最初は驚愕を、続けて失望を、その表情に浮かばせた。
 命じられた回数の半分が過ぎた辺りで、女の子がふっと笑った。もちろんその時は既に顔は腫れ上がっていて、唇もまぶたも塞がり、変色していたはずだ。笑ったといっても本当にそう見えたかどうかは分らない。女の子は小さな声で延に告げた。
 ありがとう、と。
 人権のない子供には教育だって与えられない。囚人の子供で読み書きができる者は一人もいないし、殆どの場合喋ることだってままならない。それが延と彼女の、最初で最後の会話だった。どういう意図からその言葉を託したのかは分らない。今まで自分に優しくしてくれてありがとう、という意味だったのか、ここで地獄から解放してくれてありがとう、という意味だったのか。
 延は最後まで殴り続けることはできなかった。途中で女の子が息絶えたからだ。
 
「もうやめようか?」趙は尋ねた。
 皿に残った食事はすっかり冷えている。相慶がかすれ声で答えた。続けてくれ。
 
 翌朝、延は管理所の運動場にあった樫の木からぶら下がっているのを同僚に発見された。自殺は共和国では犯罪だし、看守が囚人の衆目にさらされての自死など、前代未聞の出来事だった。職員たちは連帯責任を負わされるのを恐れ、その週だけで千人いた囚人は二百人に減った。どうせ終身刑、外に出られるはずもない無辜の政治犯を、俺の同僚でもある保衛部の奴らは目撃者隠しを目的として虐殺したんだよ。
 それだけの人数を銃で処刑するには、それだけの銃弾が必要だ。貴重な戦闘備品を犬畜生にも劣る生命体の処分に消費できないと考えた彼らは、一斉に囚人たちに穴を掘らせた。
 この国で穴を掘れと言われたら、それが何を意味するかは誰でも分る。管理所の囚人たちは無言のまま命令に従った。普段なら一メートルでも掘ればもう充分と言われたが、その時はまるでプールでも造るのではないかというほどの穴が出来上がった。深さは五メートル近くにまで達した。ひょっとしたら自分の墓穴を掘らされていた訳ではないのでは、と囚人たちが微かな期待に胸膨らませた時、梯子が外され、上から土が投げ入れられた。
 八百人が生き埋めにされたんだ。
 延の家族は政治犯となって、今は囚人の立場で、二十二号管理所で余生を送っている。長い長い、希望のない余生をね。
 
 趙の眼は充血していた。それはアルコールのせいとばかりは言えないようだった。
「これが俺の仕事だ」
 隣りでチャンスクが、床を睨みつけている。固く握った両の拳は震えが止まらない。

「俺はこの国に生まれた、ただそれだけの理由で笑顔と共に生きる権利を奪われた人民を摘発し攻撃することで、メシを食っている。もう嫌なんだ、そんな業務ばかりを遂行し続けることは」
 趙は一旦下を向き、そして顔を上げた。
「今回、君のやろうとしていることに、俺は一点だけ反対するが、それ以外は協力してやる。自分たちの身の保全がその理由である点は否定しないが、この国の怒れる同胞のために、という思いだってある」
 その言葉は相慶も半ば予想していたものだった。しかし現実に朝鮮民主主義人民共和国国家安全保衛部元山捜査局副局長の口から聞かされると、それなりに衝撃的な台詞ではあった。
「あんたは俺を撃ちもしなかった、逮捕もしなかった、晩飯にまで招待してくれた。その言葉はきっと信用に値するものなのだろう。でも事の真相が明るみなれば趙さん、あんたの人生は破滅だ。あんただけじゃない、それこそ親戚一同一族郎党、全員がそこで終わりだ」
「分っている。俺は小心者でな、保険をかけることなく君と合弁などしない。こういう結論になることも、というより寧ろ、こういう結論になることを前提として、今日万寿台で君たちと別れた後、自分の命を救うための事前準備もしておいた」
「-なんとまあ」
「一体どんな準備なんだ、とは尋ねないのか?」
「聞かなくてもあんたは喋るよ」
 趙秀賢は苦笑した。無理をして。
「まあ、少なくともクライミング技術を駆使して万寿台の像を登攀するなどという無謀な作戦よりは、より実務的な案だ」
 そして趙秀賢が話し始めた案は、より高い成功率と、より確実な潜在的犠牲者の漸減を示す内容だった。
 相慶はこの時点でようやく、目前の男を全面的に信用することを決意し、安州からの脱出経路について説明し、その協力体制を求めた。男は答えた。
「では、そちらの準備も整えよう」
 チャンスクはさっきの態度を謝る、と言いながら立ち上がり、趙秀賢の頬を撫でさすった。
 
「ところで君たち、隠れ家はあるのか」
 捜査官の問いかけに二人の逃亡者は顔を見合わせた。
「この近くに、一応は」
「場所は?」
「そこまでゲロするほどの義理はないが、最寄駅だけは教えてやる。地下鉄の『赤い星』駅のそばだ。本当かウソかは勝手に想像してくれ。ところで平壌市民は自分たちの足がこんな大袈裟な名称の駅で固められていることに疑問は持たないのか?」
「それは俺が誰かに尋ねたかった質問でもある。いずれにせよ一般市民は夜間外出などしない。この町にだって最近はコッチェビも愚連隊も現れ始めている。勿論、それを取り締まる安全部員もな」
 そう言って趙は立ち上がり、食堂と厨房を分ける五十センチ四方の暗い穴に顔を突っ込み、低く口笛を吹いた。穴の向こうで再び扉の開閉音があり、店の主人である河がそこに戻ってきたことを伝えている。
「今夜はこの店に床を敷いて寝てくれ。明日の朝、店の主人が美味い粥を作ってくれるよ」
「それはあまりにも迷惑というものだろう」
 立ち上がった相慶を手で制した。君たちのためじゃない。俺のためだ。
「君のこの作戦は、もう君だけのものではなくなった。俺も共犯者になるし、さっき説明した通りもう一人、大物が加わることになる。しかし最後の最後、実行犯は君だ。俺は君を最後まで保護する義務がある」
 保衛部のカリスマは、そしてひとり扉を開け、本来自分が過ごすべき場所へと帰っていった。
 地下食堂の主人が穴から顔を出してきた。
「俺も自宅に戻る、と言っても上の階だがね。布団は後で持ってくるよ。俺への謝礼は不要だ。君たちへの施しは、趙さんから借りたものの部分的な返却に過ぎない」

 趙は大量の水を飲んで酔いを醒まし、平壌某所の詰所に戻った。
「副局長」
 待機していた平壌市保衛部捜査局局員が、直立不動のまま伝えてきた。
「一六〇〇ちょうどに、第一副部長からお電話がございました。至急折り返し連絡乞う、とのことです」
 今日の午前中まで、詰所の電話番たちは趙秀賢への態度を次第に緊張感のないものへと変化させていた。
 三日目になっても容疑者を特定できず、半ば正気を失い、「あいつがヤマダだ」と夢遊病者のように繰り返す役立たずを引き連れてきた保衛部員など、確かに平壌での勤務が許可されたエリートから見れば愚鈍な田舎者には違いない。
 しかし金正日の遠縁にして我らが組織のナンバーツーという、いわば雲上人からの一本の電話が、彼らの緩んだ態度を再び北朝鮮式のそれに変えたのだった。
 趙秀賢は第一副部長から電話が掛かってくる時刻が概ね午後四時頃だった過去の経験則から、相慶たちと万寿台で別れた後、敢えて離席し明日以降の準備作業を他の場所で行っていた。雲上人からの電話にも、折り返しの連絡を四時間以上放置できる趙秀賢という存在を改めて周囲の者に突きつけながら、彼はダイヤルを回した。
 特別な番号、交換手は直ぐに回線を繋ぎ、朝鮮民主主義人民共和国国家安全保衛部第一副部長その人が直接電話に出た。
「趙秀賢です」
「遅かったな、どこをほっつき歩いていた?」
「容疑者を追跡し、尋問を」
「成果は?」「シロでした」
 副部長は嘆息交じりに続けた。「大佐は明日、執務室で一〇四五に会うそうだ」
 趙は思わず腰を曲げていた。「ありがとうございます!」
「わざわざ繰り返すまでもなく、これは異例中の異例とも言える措置だ。会談の過程で何らかの問題が生じた場合、私は君を守れない」
「第一副部長殿には一切のご迷惑をおかけしません」
「それは君が決めることではない。では一刻も早く成果をあげ、チョソン人民が心から敬愛する首領様の抱えておられる、我々には想像もできない大きな問題のほんの一部だけでも解決できるよう、期待しているぞ」
「了解いたしました」
 震えそうになる手を、受話器をしっかり握ることで抑えながら、趙秀賢は電話を切った。
 そのすぐ正面で蒼白な顔色のまま立ちすくむ平壌の保衛部員に、彼は尋ねた。頼んでいた報告書は?
「用意できております」
「至急見せてくれ」
 若者は強張った顔のまま、無言で封筒を差し出してきた。
 趙は別室に一人で入った。
 繰る紙の音すら聞かれるのを恐れて、彼は壁に掛けられている独裁者親子の肖像画を裏返し、そこに盗聴器がないことを再確認した。
 肖像画は裏返したままにしておいた。

 報告書によれば、朝鮮人民軍平壌防御司令部、選抜歩兵部隊の監督者でもある安サムチョル大佐は五十歳。
 生活欄。
 保衛部の幹部職員なら噂だけは掌握していた安大佐のプライバシーを、たった一枚の写真複写が生々しく語っている。
 趙秀賢はほくそ笑んだ。

 この国のエリートたちは、いつ自分が身に覚えのない罪状で深夜係官に踏み込まれ、引っ立てられるか分らない日々を過ごしている。特権的生活を民衆から恨まれ、しかしその現実は奈落の底にかかる薄い刃のような橋を一歩ずつそろそろと進むが如しの人生だ。
 常人の精神の受容量を超えたプレッシャーを受け続ける者は、必然的にその歪みがどこかに現れ、その苦痛や違和感を何らかの「他人には話せない」代償行為で癒そうとする。軍や安全部、保衛部の幹部で叩いてもホコリの出てこない男の存在は皆無だ。
 趙秀賢は部屋の扉を開け、コピー室へと移動した。
 部屋の中にいた係官が目を伏せる。
 封筒から取り出した安大佐の写真複写を、更にコピーに取る。この国ではコピー一枚にも許可が必要だが、カリスマ捜査官は頓着しなかった。またそこには当然のように「再複写絶対不可」の印が押されていたが、そのことも気にしなかった。自分にとっても、今が人生の大一番なのだ。
 コピー室の係官は何も言わず、机の上の舞ってもいない塵をひたすら凝視し続けている。
 作業を終え、資料を再び封筒に戻し、自室に戻った趙は報告書の原紙を平壌保衛部の係官に返した。「元の場所に戻しておいてくれ」
「かしこまりました」
「改めて聞くまでもないことだが、この中身は見ていないな?」
「誓って申し上げます。見ておりません」
「信用しているよ」

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