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長編小説「平壌へ至る道」(86)

「この虚実交じりの理由は、想像つくかね?」
「元山の保衛部は、事件をなかったことにしたいのでしょうか?」
 老人は首肯した。カンは悪くないようだな。
「平壌の中枢にこんな不始末を知られれば、何人、いや何十人が粛清されるか分かったものではない」
「隠し通せるものでしょうか?」
 相慶の問いに、革命烈士の血筋者は答えた。運が良ければな。
「今、似たような出来事がこの国のあちこちで起こっている。反政府主義者を挙げた功績が評価されるか、そいつをそれまで発見できず放置していたことを咎められるかが分からない以上、どこの地方保安組織も、臭いものに必死に蓋をしている。硬直し過ぎた上意下達の社会体制が、逆に軽犯罪の検挙率を下落させていることに、中央の連中はいつ気づくのかね。今回のこの元山の騒ぎは少々規模が大きいようだが、何かが物理的に破壊された訳ではまだない以上、同地の保衛部も経緯のご開陳は避けておるのだろう」
 破壊と言えば、と金一峰は続けた。
「わしにもまだ分からないことがある。タイミングだよ、この国家保安緊急連絡とのな」
 そして彼は藁半紙を掲げた。
「この普段はお目にしない通信内容の数日後、日本から来たヤクザ組織の客人が元山を抜け出し、今こうしてわしの目の前にいる。これは偶然か?」
「それはニセ情報です」相慶は即答した。この老人にはカードを隠す意味もなく、それ以前に隠し切れるとも思えなかった。
「私の日本の仲間が流したものでしょう。この国の警護体制が遠く離れた東北部の辺境に集中するように」
「概ね事情は呑みこめた」老人は藁半紙を折り畳んだ。
「連中の会話を盗み聞く限り、羅津、先峰地方に向かうという憶測が優勢のようだが、いいやそれはブラフで、本当は平壌に向かっているという分析も残されている。わしも君たちとこうして会うまで、彼らの推論のどれが正解かは分からなかった」
「他に盗聴し分析できた情報はありますか?」
「元山から逃げたパンチョッパリは三十歳、同行の女は二十四歳。君はさきほど、隣の女性を無理やり引き連れているような意味のことを言ったが、無線を聞く限りでは女もまた積極的に男に協力しているようだ。わしはこの点の信憑性に限っては無線情報に軍配を上げるね。男は日本名でヤマダヨシオ、女は通称ソヨン、本名は辺昌淑。もとは平壌在住の核心階層家庭のお嬢さんだ」
 隣でチャンスクが身じろぎした。彼女が絶対に明かそうとしなかった苗字があっけなく分かった。
「男は実年齢より若く見えることもある、そして女はーお嬢さん、申し訳ないがこれはわしが言った台詞ではないぞー女は大変な別嬪だが勝気な性格が顔に出ている、と保衛部の連中は言っておる」
 相慶は下を向いて笑いを堪え、その肩をチャンスクが殴ってきた。
「さて、ヤマダくん」老人は身を乗り出してきた。
「君が今ここにいるという事実は、本当の目的地は羅津の経済特区ではなく平壌だということを示すものだ。分からないのはその動機だ。一体何のためにわざわざこの地上の地獄の本丸に向かうんだ?」
 チャンスクがぼそりと話しかけてきた。
「本当のことを言いなさいよ。このお爺ちゃんは今の言葉で自分の立ち位置を改めて暗示してくれたんだから」
「そうだな」相慶は改めて姿勢を正し、老人へと正面から顔を向けた。
「平壌の万寿台にある金日成の銅像に、落書きをするために来ました」
「何だって?」
 からかわれていると思ったのか、老人は不審げに眉根を寄せる。
「鼻の下を黒く塗り、現代のヒトラーに見立てようとしております」
 そして相慶は今に至る経緯を話した。老人は呆れたように息を吐き、首を振った。
「そんな馬鹿馬鹿しいイタズラのために、命まで賭けて、か」
「お恥ずかしい限りです」
「いや、そんなことはない」金老人は居住まいを正した。
「素晴らしい計画だ。相手を殺さず、傷つけず復讐する。朝鮮民族の鑑だな。君を助けておいて良かった」
「なぜ私を助けてくださったのですか」
 老人は首を伸ばし、窓の外を見ながら目を細めた。
「単純な話だ。わしは安全部も保衛部も、そして朝鮮人民軍も大嫌いだ。敵の敵は味方、それだけのことだ」
 老人は窓の向こうに漂わせていた視線を、壁の上に掲げられた親子の肖像画へと転じた。
「君たちには信じられないだろうが、四十年前、この国は本当に地上の楽園だったんだ」
 こんな話に興味はないかね?
 相慶は答えた。いえ、聞かせてください。
 老人は立ち上がって台所に行き、湯を沸かし、茶を注いだ。
 四年前、連れ合いに先立たれてな、なかなか慣れない。未だにお茶ひとつ満足に淹れられない。
「日本では平均寿命は八十くらいか?」
「そんなものだと思います」
「同い年だった妻はちょうど五十で死んだ。わしも五十四だ。この国では長寿の部類だな」
「え」
「なんだ、その『え』は?」
 老人が咎めてくるが、無論本気で怒っている訳ではない。
「いや、失礼ながら、もっとお歳を召しているかと」
「君は三十にしては若いな」
「本当は二十八です」
「まあそれでも若い。歳を取っているように見せておるがな。一方で朝鮮人民は本当に老けるのが早い。誰も彼もが苦労苦労の人生だからな。だからお嬢さん、君も実年齢二十四歳だがそうは見えないと盛んに無線で吹聴されていることは、あまり気にしなさんな」
 チャンスクは返事をしなかった。
「金日成が本物の金日成将軍ではないことは、知っているか?」
 老人はいきなり尋ねてきた。
「ー聞いたことはあります」
「日帝の圧制時代、朝鮮の庶民の間ではこんな噂が流布していた。遥か北方の地で伝説の将軍、金日成率いるパルチザンが、破竹の勢いで日本兵をやっつけている。近い将来、将軍は我が民族を解放し、栄光の都平壌に帰ってくるのだ、とね」
 金日成将軍は推定六十歳、白髪、長い顎鬚の持ち主で、顎鬚には日本兵の放ったあらゆる銃弾の軌道を曲げてしまう魔力があると囁かれていた。ソ連は一九四五年、日本人がこの地を去った後、ハバロフスク近郊で潜んでいた金成柱というパルチザンのリーダーを、伝説の将軍金日成に仕立て上げた。金成柱はやがて金一星に改名し、その後満を持して同じ発音の金日成となった。わしの名前、一峰は、当時の彼の名、一星にちなんで付けられたものだ。当の本人がそれを許可してくれたんだから、いわば首領はわしの名付け親のようなもんだ。
 金日成が元山に凱旋した時、民衆は涙を流しながらこぞってそれを歓迎した、とされている。しかし史実は違う。民衆はこう叫んだんだ。違う、彼は白髪の老人でもなく長い顎鬚もない、真っ赤な偽物だ!
「それがどうして」
「金成柱がとにかく男前だったからだ。今の姿からは想像もできないが、帰国当時の彼は恰幅も男っぷりも良い、朝鮮人の理想像のような外見だった。ソ連もそれが分かっていたから、彼に言ってみれば金日成という役職を授けたんだ」

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