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「平壌へ至る道 潜入編」(8)

 老人は立ち上がって台所に行き、湯を沸かし、茶を注いだ。
「四年前、連れ合いに先立たれてな、なかなか慣れない。未だにお茶ひとつ満足に淹れられない。日本では平均寿命は八十くらいか」
「そんなものだと思います」
「同い年だった妻はちょうど五十で死んだ。わしも五十四だ。この国では長寿の部類だな」
「え」
「なんだ、その『え』は?」 老人が咎めてくるが、無論本気で怒っている訳ではない。「君は確かに三十にしては若いな」
「本当は二十八です」
「まあそれでも若い。一方で朝鮮人民は本当に老けるのが早い。誰もが苦労苦労の人生だからな。だからお嬢さん、君も実年齢二十四歳だがそうは見えないと盛んに無線で吹聴されていることは、あまり気にしなさんな」
 チャンスクは返事をしなかった。
「金日成が本物の金日成将軍ではないことは、知っているか?」老人はいきなり尋ねてきた。
「-聞いたことはあります」
「日帝の圧制時代、庶民の間ではこんな噂が流布していた。遥か北方の地で伝説の将軍、金日成率いるパルチザンが、破竹の勢いで日本兵をやっつけている。近い将来、将軍は我が民族を解放し、栄光の都平壌に帰ってくるのだ、とね。金日成将軍は推定六十歳、白髪、長い顎鬚の持ち主で、顎鬚には日本兵の放つ銃弾の軌道を曲げる魔力があると囁かれていた。ソ連は一九四五年、日本人がこの地を去った後、ハバロフスク近郊で潜んでいた金成柱というパルチザンのリーダーを、伝説の将軍金日成に仕立て上げた。金成柱はやがて金一星に改名し、その後同じ発音の金日成となった。わしの名前、一峰は、当時の彼の名、一星にちなんで付けられたものだ。当の本人がそれを許可してくれたんだから、いわば首領はわしの名付け親のようなもんだ。
 金日成が元山に凱旋した時、民衆は涙を流しながらこぞって歓迎した、とされている。しかし史実は違う。民衆はこう叫んだんだ。違う、彼は白髪の老人でもなく長い顎鬚もない、真っ赤な偽物だ!」
「それがどうして」
「金成柱がとにかく男前だったからだ。今の姿からは想像もできないが、帰国当時の彼は恰幅も男っぷりも、朝鮮人の理想像のような外見だった。ソ連もそれが分かっていたから、彼に言ってみれば金日成という役職を授けたんだ」
 老人はそして適温となった茶に口をつけた。不味い。君たちもどうだ。
 相慶は笑いながら応じた。頂きます。それより民衆は納得したんですか。
 茶は本当に不味く、そこら辺の雑草を煮出したような風味だったが、実際その通りだったのかも知れない。
「納得せざるを得ん。ソ連には歯向かえんし、何より金日成本人が優れた戦略家だった。ただの作られた独裁者なら、これだけ長期間、王座にふんぞり返っていられはせん」
「彼は朝鮮半島内でパルチザンを組織していた訳ではなくハバロフスクで縮こまっていただけ、と見る歴史家もいます」
「朝鮮本土で活動していなかったのは事実だが、問題にはならん。金成柱の活動拠点は当時の満州、大日本帝国の精鋭である関東軍が最後まで死守した牙城だ。一介の民兵組織があの頃の関東軍を相手にゲリラ戦を展開するのが、どれだけ大変なことだったと思うね?わしのアボジは生前よく言っていた。金成柱は天才だった、本物の戦略家だった、と。大体ハバロフスクで震えるだけが能だったという男に、あれだけの人間がついていくと思うか?」
「-そう言われてみれば、その通りですね」
「彼は若い頃は、本当に民族の希望の星だった。わしらの憧れだった。そして彼自身も私益を投げ打ってでもわしらの希望に応えようとする、熱い精神を持った指導者だったんだ」
 老人はそこで一旦呼吸を整えた。
「ソ連も中国も事情は変わらん。共産主義というのは、理念自体は素晴らしいんだ。しかし経済活動を計画的に遂行するというやり方は、ある一時期に、ある一点に、情報も権力も材料も集中してしまうという致命的な欠陥と表裏一体でもある。そこに独裁者が誕生する土壌は避けられず、その一点を巡る闘争も起き易くなる。生産されたコンクリートは道路や住宅の建設には使われず、権力者とその一族の偶像崇拝像へと形を変えてしまう。伝説の将軍金日成として国に帰ってきたのが、そもそもの間違いだった。金成柱という本名のまま指導者になっていても、彼ならば民衆はついていった。嘘に嘘を重ねてきたから、余計に個人崇拝の推進が避けられなくなったんだ」
「金先生のアボジ、御父上は大丈夫だったんですか?」
「粛清されなかったのか、という意味か?」
 若者は頷いた。
「アボジは家族思いの男でな、権力闘争が激しくなる前、一九六五年に病気で死んでくれた。英雄のまま生涯を終えることができた、数少ない抗日闘士の一人だよ。生きていればいずれ何らかの罪状をでっち上げられていたかも知れんし、そうなればわしも今こうして呑気に茶をすすってはいなかっただろう」
「金先生ご自身も、職業軍人だったのですか」
 老人は微笑んだ。
「満州パルチザンの息子に、他の人生は許されなかったよ。わしは情報分析官として二十五年を過ごしたが、南鮮の朴正煕が側近に射殺されることを精確に予想していたのはわしだけだった。もちろんそれを上に進言などできん。強権者でもあった韓国大統領、朴正煕の暗殺にかこつけて独裁政治を暗に批判しているものと捉えられかねないからな。それでも人の口に戸は立てられん。首領はわしを呼びつけ、人払いをして自分が下座に着席した。天上人からそんなことをされれば、わしも自分の分析結果を余すことなく報告せざるを得ない。そういう腹芸にも長けた男なんだよ、彼は」
「先生にはその価値がおありです」
「世辞はいらん。しかしわしが出世しても、周囲はわしの能力によるものとは見做さなかった。あいつは首領様から名前を付けられた男だから、あいつは満洲派の息子だから、と陰で囁かれた。そして四十八の時、少佐へ昇格した直後だったな。同じく軍属だった一人息子が対南工作の最中に死んだよ」
 不味い茶を入れた湯呑を握る老人の指に力が入る。彼はそして一瞬、壁に掛けられたこの国の指導者親子の肖像画へと目をやった。その視線には憎しみもなく、諦めもなかった。路傍にある石ころをただ眺めているだけのような無関心さすら漂っていた。日本から来た工作員には、その老人の眼の色から具体的な感情を読み取ることなどできなかったし、例え読み取れたとしても、そこにどんな名前を与えるべきなのかは分からなかった。
「故障した潜水艦のハッチが開かずに乗組員全員が窒息死した。一番苦痛な死に方の一つだそうだ。相手と砲撃を交えた結果、名誉の戦死というのならともかく、身内の老朽化した設備によってむざむざ殺されたんだ。平壌のあの親子が一日贅沢をやめるだけで、潜水艦を整備する予算は捻出できたのに」
 その声がほんの少し震えたが、それでも老人は強張った指が掴む湯呑の中をじっと眺めながら節度を保ち続けた。
「妻はそれ以来寝たきりになり、精神も病んだ。二年後の朝、わしのための最後の朝食を用意してから、ベランダまで這いずって、執念で柵を乗り越えて落下した。この国で自殺はご法度だ。無謬の指導者により等しく人民が良質な生活を享受できているこの地上の楽園に不満があった、という第一級の不敬罪になるんだ。わしは連座制の適用で有罪が最初から決まっている裁判にかけられるか、妻の死を『誤ってベランダから落ちた』とする検死報告書に署名し身を引くかの選択を迫られたが、悩むことは全くなかった。ほとほとこの国にも軍にも同僚にも嫌気がさしていたし、喘息の治療を理由に軍を辞めて、平壌に与えられたアパートも返納し、ここ祥原に引っ込んだ。退役軍人年金で細々と糧をつなぐ毎日だよ」
 老人はそして、そのかさかさに乾いた両手で膝を掴んだ。
「わしのたった二人の家族を奪った、あのおかしくなってしまった爺さんにメッセージを送る仕事を、僑胞の君に押し付けることを心苦しく思う。二千万人の共和国国民に代わって礼を言わせてもらう」
 老人は深々と頭を下げ、相慶はその体を起こした。いくつか教えて欲しいことがあります。
「いくらでも。今日はここに泊まっていけ」
「そこまでして頂く訳にはまいりません。平壌は目と鼻の先ですし」
「この町に鉄道は走っていないし、この時間にバスはもうない。どうやって平壌に行く?」
「午後のバスは?」
「そんなものあるか。ここは軍人の町だから辛うじて路線バスの運行があるが、それでも一日一往復だ。今やガソリンは選ばれた者にしか配給されん」
「昨日、木炭車に乗りました」
 老人は呆れたように手を振った。
「あれは地方だけのものだ。平壌への入場は許されておらん。金親子の住む栄華なる千年の都、外国人旅行者も必ず訪問するあのショールームに、木炭車などという前近代的なものを走らせることはまかり通らない」
「馬鹿な政府だ」
「今頃気付いたか?この町からは通勤時間の朝七時ちょうどに上りのバス便が出て、十八時に下りの便が帰ってくる。それだけだ」
 元山から運んできた野菜や穀物は、ここで全て金老人に進呈し、チャンスクが作った簡単な昼食を前に、三人で食卓を囲んだ。
「どうやってあの像によじ登る?」
「日本でロッククライミングの訓練をしてきました」
「一晩中灯りがともっている―いや、最近になって一時的に夜間照明が消されることになったはずだ。あれも君の戦略か?」
「日本にいる仲間の」
 老人は笑った。歯のない口から麦が吹き飛んだ。
「若き日の金成柱並みの策略だな。しかし衛兵はあの広場に朝まで立っているぞ」
「無理だと判断すれば標的を変えます。この国には奴の像は他にいくらでもありますから」
「あの銅像が錆びない理由を知っているか?」
「聞きました」
「本当に愚かな老人になってしまったよ、首領は。清掃を担当しているのは、君の偽造身分証にもある平壌防御司令部の一部隊だ。若者だけで編成された横断的な組織だったと思うが、明日までに調べておこう」
 昼食が済んだ。
「部屋が一つ空いている。寝床もあるからひと休みしなさい」
 その言葉に甘えて、二人は布団の中に入った。黴臭さは否定できなかったが、昨夜は寒いバス車中で朝まで過ごし、充分な睡眠はとれなかった。工作員とその相棒は間もなく眠りに落ちた。

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