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2020年8月の記事一覧

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(20)- 李小龍會発足 -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(20)- 李小龍會発足 -

香港李小龍會
1995年5月14日 香港李小龍會正式成立。

事の始まりは1994年秋。私が更に深く香港人となる転機。

街を歩いていた私は報紙檔(新聞スタンド)に龍哥の顔を見つけた。『壹本便利』という雑誌の表紙に龍哥が載っていたのだ。四の五の言わずとにかく買って帰った。

「これから香港に龍哥のファンクラブを作ろうと思っています。参加しようと思う方は下記のフォームに記入して編集部まで送ってくださ

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(19)- 香港人の自己人認定 -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(19)- 香港人の自己人認定 -

阪神淡路大震災発生1995年1月、阪神淡路大震災を私は香港の朝のニュースで知った。

広東語のリスニング力のブラッシュアップの為に、朝のニュースを付けっぱなしにして聴きながら出勤準備をするのが習慣だった。

「日本の神戸で今朝大きな地震がありました」と聴こえた。え?神戸?いやいや、関西には地震なんて無いでしょ、と思いながらテレビの画面を見た。「日本 中部 大地震」と出ていた。日本人からすると「日本

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(18)- 日本人マインドと香港人的マインドセット -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(18)- 日本人マインドと香港人的マインドセット -

社長の一声で「Customer Oriented Mind」が社是となった時期があった。

当時の香港で
「お電話ありがとうございます。A公司でございます。」
なんて電話に出る会社は皆無だった。

掛かってきた電話に出る時は
「喂!(=もしもし)」
だけで自社名は名乗らず、掛けてきた方も
「xx、唔該!(=xx(電話に出てもらいたい人の名)、お願い!)」
だけで自分の名前も名乗らず、その電話を

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(17)- 香港運輸業界で働く -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(17)- 香港運輸業界で働く -

そして、ひらりと転職。コネクションがあるというのはやはり強い。

また運輸業界へ日本で入社したのは国際航空貨物の会社だったが、香港法人は航空貨物(Air Cargo)だけではなく陸海空全ての貨物を扱っていた。日本での配属は輸入部だったので、香港法人でもてっきり Air Cargo の Import/Export 部署に配属されるかと思っていたら、実際に配属されたのは China Division

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(16)- 香港で最初の転職 -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(16)- 香港で最初の転職 -

香港で最初の転職東莞市石龍鎮での工場コーディネイターの仕事は1年弱で辞めた。

辞めた理由は
1)週に3度は昼食か夕食で1対15の一気飲み大会をやられることが毎週毎週続いて体を壊したから
2)日本からやってきた駐在員のオッサンに我慢ならなかったから
3)せっかく憧れの香港に住み始めたってのに週の半分も香港にいられないんじゃ意味がないから
4)転職先が見つかったから

1)一気飲み大会とは
香港はイ

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香港映画の現場がやはり私の居場所だと確信した - 多謝 Director Benny Chan 陳木勝導演 -

香港映画の現場がやはり私の居場所だと確信した - 多謝 Director Benny Chan 陳木勝導演 -

R.I.P. Director Benny Chan 陳木勝導演本当に驚いた。ほんの一年前のことだよ。この現場。
声を荒げて怒りまくる人の隣で、とても冷静に落ち着いてにこやかに監督を務めていた。

今思い起こせば確かに監督が病院に行った日があった気もするけれど、表面的にはお元気そうだった。毎朝「導演!早晨!」と挨拶しに行って「早晨」と返してもらうだけで嬉しかった。大好きだった。

私が付いたスタン

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(15)- 広東語の多様性 -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(15)- 広東語の多様性 -

この業務における言語環境はなかなかに複雑だった。

日本のメーカーなので、日本からの駐在員とは当然全て日本語でコミュニケートする。香港のオフィスでも、大陸の工場でも。私は香港のローカル採用だったけれど、日本語がネイティブなので、他の香港人スタッフより給料が少し良かった。香港は、強みや実力があれば、それが給与に反映する実務主義社会。私にとっては居心地良い環境。

広東語の多様性さて、大陸に入ると言語

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(14)- 香港移住で壁にぶつかる -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(14)- 香港移住で壁にぶつかる -

家探しまず最初は住む所。迎えに来てくれた友人の家に一週間ほどお世話になった。いわゆる公屋=政府の賃貸住宅。ベランダの端っこにトイレが設置してある。シャワーがどこにあるのか聞いたら「トイレにあるだろ」と言われた時の衝撃。かなりのカルチャーショック。

その友人が Prince Edward 太子で茶餐廳を経営していたので、何かあったらそこへ飛び込めば助けてもらえると思い、最初の家をその近くに決めた。

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(13)- まずは社会人経験 -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(13)- まずは社会人経験 -

大学の卒業式は欠席した。私自身にとって何の利点にもならない式典に出席するより香港に一日でも長くいたかったから。

大学の最後のテストが終わった時点で速攻香港に飛んで1ヶ月半滞在した。将来住むつもりなら、旅行でちまちま行くだけではなく、ある程度長期でステイしてみないと本当に自分に水が合うのかどうか、住んでいけそうなのかどうか判断がつかないと思ったから。

本当は日本に帰らずにそのまま住み着いてしまい

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(12)- アウトプットについて -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(12)- アウトプットについて -

アウトプットの訓練についてさて、独学はインプットには問題無いが、アウトプットの実地訓練はどうすれば良いのか?80年代後半の当時は今のように関西に香港人がうようよいる時代ではなかった。ということは自分から現地に乗り込むしかない。

学生の間はバイトしまくって年に少なくとも2、3回は渡港した。アウトプットの実地訓練のためと、将来香港に住むと決めたからには友人を作っておかねばならないと思ったから。

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(11)- 独学ノートの作り方 私の場合 -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(11)- 独学ノートの作り方 私の場合 -

広東語独学者への私からのアドバイス独学を始めようとする際に留意すべきことを二つ。
一つは、長い道のりを諦めないでインプットを続けること。
もう一つは、自分のタイプを理解しておくこと。

インプットが先、アウトプットは遅れてくる人はそれぞれ自分の中にコップのような容器があって、インプットしてインプットしてインプットしまくって、その容器が溢れ出したらアウトプットが自然と出てくるようになる。そんなイメー

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(10)- 広東語独学の方法 私の場合 -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(10)- 広東語独学の方法 私の場合 -

そして廣東話を独学でさて、では供給の断然少ない広東語をどうやって勉強したのか?

インタネットの無かった時代。どうやって情報を取るか、取れるかを知っているのが大きなカギだった。当時の情報誌としては『ぴあ』が一番強かったかな。地域の新聞や、駅のホームの広告など、自分で情報を取りに行くというアグレッシブな態度が必要だった。私もアグレッシブに探し回ったけれど、当時は広東語を教えてくれる場は本当に少なくて

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(9)- まずは普通話から -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(9)- まずは普通話から -

私の人生に将来的に大きな花を咲かせる小さな種を得て帰国した私。
香港に移り住むための広東語と、樵服務員を見返してやるための普通話、はて、どうやって学べば良いのか。

先ずは普通話から当時も今も広東語を学べる場は普通話に比べて断然少ない。まずは供給の多い普通話から手を付けることにする。

学生だから時間はあるがカネは無い。当時はインタネットというものもまだ出現していない時代。オンライン講座もYouT

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(8)- 広東語に出会ってしまった -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(8)- 広東語に出会ってしまった -

私のその後の人生を完全に方向付けた旅
日本の数十年前を見るかのような上海から日本の遥か先を行く香港に飛んだ。

今、写真を見返してびっくりしている。文化中心はこの時建設中だったのね。文化中心より私の方が香港歴長いじゃん。

トップの写真も懐かしい。観光客向けとはいえフェリー乗り場には人力車がスタンバイしていた。中環のフェリー乗り場を出たら目の前が中央郵便局だった。西洋風の素敵な建物。大好きだった。

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