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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(16)- 香港で最初の転職 -

香港で最初の転職

東莞市石龍鎮での工場コーディネイターの仕事は1年弱で辞めた。

辞めた理由は
1)週に3度は昼食か夕食で1対15の一気飲み大会をやられることが毎週毎週続いて体を壊したから
2)日本からやってきた駐在員のオッサンに我慢ならなかったから
3)せっかく憧れの香港に住み始めたってのに週の半分も香港にいられないんじゃ意味がないから
4)転職先が見つかったから

1)一気飲み大会とは
香港はイギリスの文化が浸透していてレディ・ファーストだし、女性とお年寄りと子供には優しくしてやるべきだという儒教文化もあったので、お酒を強要されることは無かった。が、大陸は違った。皆で集まって食事をする時は通常12人または16人で一卓を囲む。「今、工場を建てている会社の担当者は日本人の女で広東語を喋るらしい」という噂は一瞬で広まるので、毎週毎週「歓迎の意を表す」という名目でいろいろな肩書のオッサン達がやって来ては昼間っから派手に宴会をやる。当時は Hennesy XO が流行りだったので食卓には必ず数本並ぶ。昼食でも手加減無し。大きなブランデーグラスにななみなみと注いで「日本から俺達の街にわざざわ来てくれたお前を歓迎する!俺の盃を受けろ!」とやるわけだ。「次は俺だ」「あいつの盃を受けたんだから俺のを受けられないとは言わせないぞ」が続く。私一人vs石龍鎮人15人だよ。警察署長なんて本物の拳銃をバーン!とこれ見よがしにテーブルに叩きつけてみせたんだよ。断れるもんなら・・・ってことでしょ。私もまあまあ飲める方だったけれど、ブランデーは元から嫌いだったし、毎週毎週やられたら飲むより吐く方が多くなって体壊した。

2)駐在員
以前書いたことのある、工場までバスで11時間かかったオッサン。「この会社は日本の会社だ。俺は日本人だ。日本から派遣されてきた。だから俺が偉い。俺の言うことを聞け。」という態度の人。香港の商習慣も香港人の気持ちも全く無視。何が何でも俺の言う通りにしろ、しかなかったので全香港人社員から嫌われていた。ローカル採用なので心も身分も香港人な私は当然香港人側に立つ。この人を日本に送り返してくれないのであれば私がこの会社を辞めます、って言って辞めた。

3)香港在住なのに
工場との行き来は直通バスがデフォルトだった。前にも書いたように、生きて往来することが至上命題となるような交通事情なので、行き来だけでも疲れる。そして石龍鎮のホテルもカギのかからない部屋なんかザラにあって、一度チェックインしてカギがかかるかどうか確認して、カギが無い部屋だったらカギがついている部屋に換えてもらうことが多々あった。しかも夜中になると夜の商売の小姐がドアをノックしに来るわ、電話かけてくるわで落ち着いて寝られない。心も身体も消耗する。香港に戻って文錦渡のボーダーを抜けて香港の高層住宅が見えた瞬間に「あー、生きて帰って来れたよ、私の香港に」と安堵する日々だった。

4)転職先
転職を考え出して間もなかった頃、日本で最初に入った国際航空貨物の会社の先輩が出張で香港にやって来た。その日本の会社は円満退社だったので同期や先輩との連絡は引き続き取っていて、出張で来た先輩がご飯を食べに連れて行ってくれた。その際に「今の会社もう辞めようと思っている」と告げると「じゃあ、ウチに戻ってくれば?お前はウチの業務わかってるし言葉もできるから即戦力になる。香港法人の社長に話を通しておくよ。」ということで転職も難なく即決。業務の経験と人とのコネクションというのは重要だと何度目かの実感。だから通訳者を目指す若者よ、いろいろな社会経験を積みなさい。そして善良な人とのご縁は大切にしなさい。(続)

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