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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(13)- まずは社会人経験 -

大学の卒業式は欠席した。私自身にとって何の利点にもならない式典に出席するより香港に一日でも長くいたかったから。

大学の最後のテストが終わった時点で速攻香港に飛んで1ヶ月半滞在した。将来住むつもりなら、旅行でちまちま行くだけではなく、ある程度長期でステイしてみないと本当に自分に水が合うのかどうか、住んでいけそうなのかどうか判断がつかないと思ったから。

本当は日本に帰らずにそのまま住み着いてしまいたかったけれど、就職先も決まっていたし、貯蓄もないのに食っていけるわけもなく一度日本に戻った。

まずは社会人になる

最初の就職先は国際航空貨物を扱う会社だった。関西国際空港はまだ無くて、伊丹空港が国際空港だった時代。5/Fのオフィスの目の前が滑走路だった。昼間の滑走路も良いけれど、夜の滑走路の美しいこと。残業も苦にならなかった(当時は残業代ちゃんと支払われる時代だったよ)。

配属されたのは輸入通関部。輸入貨物をトレースする部署で、海外法人や代理店とのやり取りがあり、半分は英語を使う業務だった。しかし、当時(80年代の最後)はインタネットどころか email などというものも無かった。かろうじて海外との連絡部署には cmail というシステムがあったけれど、プログラミング画面のような味も素っ気も無いものだった。たまに urgent matterということで海外支店に電話をすることがあった。香港に現地法人があったので、香港に電話する時は広東語を使える唯一の機会だったけれど、電話したのも1、2度のみ。アウトプット訓練のチャンスはなかなか無く、夏休みや年末年始の休みに香港に旅行で行くぐらいだった。

この会社にはトレイニー制度というものがあった。入社2、3年目の若手を海外法人や支店に1年間だけ研修として派遣するという制度だった。香港法人があったので、私は当然ながら香港へのトレイニーを狙っていたのだが、実は「女子はトレイニー制度適用外」と知った。「女子を単独で海外に出すのは危険すぎる」というのがその理由だった。私には香港法人に出してもらうチャンスは無いのだと知ってこの会社を辞めた。退職書類の辞職理由に「女子は海外トレイニーに出してもらえないということなので、自身の将来の発展が見込めないから」と正直に書いて提出したら、暫くして直属上司から「<一身上の都合>って書くもんじゃ!って人事部から怒られたわ。すまんな、俺も知らんかった。悪いけど書き直して。」と突っ返された。誰もが<一身上の都合>としか書かせてもらえないのであれば、辞職理由の欄なんて不要じゃね?と思った。しかし、そういう日本の会社特有の変な慣習を知らなかった上司って可愛いよね。

後に知ったことだけれど、私が辞めてすぐにトレイニー制度の改正があり、女子も出してくれることになったそうだ。しかも、初の女子トレイニーは私の同期。シンガポールへ派遣。おいー!そしたら私、辞めなければチャンスあったってことやんー!

転職して香港に近付く

転職した先は、神戸にある華僑の貿易会社。広州から日本に移住してきたおじいさんが会長、娘が経理、娘婿が社長、娘のいとこの妻が社員。香港向け輸出専門で、こまごましたものも出していたけれど、メインの商品はオルゴール、中古車(タクシーとハイエース系)、質の良いスーツ。オルゴールは日本のメーカーと代理店契約をしている商社へのルーティン。中古車は、香港人の若い兄ちゃん達が買い付けに来て、修理工場のヤードのような場所を借り、買った中古車を自分でぶった切って分解し、コンテナに積み込んでラッシングして香港へ出すという流れだった。ドアやフロントグラスといったパーツを全て外したボディを、フロント・中間・リアの3つにぶった切って香港に送り、香港でボディを溶接し直して売るのだそうだ。その頃もその後暫くも、香港で日本車タクシーを見るたび乗るたび、いつ何時ボディがバキッ!と外れるんじゃないだろうかと心配で心配でならなかったことを今ここで告白する。

この中古車を扱う若い兄ちゃん達とはかろうじて広東語で話す機会があった。ある日、コンテナの手配の手違いがあり、私のヒアリング力不足による間違いだということにされ、社長からは「今後はお前は広東語でやり取りしようとするな。広東語が必要な時は俺の妻に代われ。」と怒られ、納得できなかった。8日と9日なんて発音が全然違うんだから聞き間違いはありえない。しかも「佢」を「keui」ではなく「hee」と発音するあんたに言われたくないわ、と憤懣やるかたなかったことを覚えている。

香港移住へ向けての焦り

OLをやりながら休みになると香港へ足繁く通っていた私。ある日突然香港から1枚の絵ハガキが届く。STB Hostel で知り合って仲良くなり、一緒に遊び回ったMちゃんからだった。

「私は今、香港に住んでいます。・・・」

えええーーーー!なんでよ!
大陸でのバックパッキング帰りに立ち寄ってみた香港で私と知り合い、私があまりに香港ライフをエンジョイしているのをみて、香港が楽しくなってしまったという。そして、大学卒業後いくつかの派遣のような仕事を経て、香港に移住してしまったという。

一緒に遊び回った時から香港移住を高らかに宣言していた私はまだ移住できていないというのに、なんでそんなことはおくびにも出していなかったあなたが先なのよーーー!ちょっと待ちなさいよーーー!

出し抜かれた感満載でショックだった。

着実に情報を取って前へ進める

しかし、ここでめげてしまう私ではなかった。反対にこれはMちゃんが良い情報源となってくれるのではないかと閃く。

移住にあたっては纏まった資金が必要になる。香港に到着した翌日から働けるわけでもない。雇ってくれる先が見つかるまでは当然無収入だ。晴れて雇ってもらえたとしても、約1ヶ月働いてからでないと最初の給料日が来ない。1ヶ月で仕事を見つけたとしても、給料日まで更に1ヶ月待たねばならないということは2ヶ月分の生活費は準備していかねばならない。仕事がさっさと見つからなければ無収入の期間は更に延びる。

住む家も確保しなければならない。まず家を借りる最初の段階で家賃の約3ヶ月分を一気に支払うのだから、初期投資はかなりヘビー。Mちゃんに聞いてみた。「どれぐらいのお金を持って行けば暫く過ごせるかな?」

「30万円かな」(90年代初頭当時)

Mちゃんが先に行っててくれて本当に助かった。その時の家賃や生活費の水準を知る人の肌感覚が一番信頼できるから。なんで私より先に行くねんーー!と思っていたが、アドバイザーの先行派遣やったんや、結局そういうことやったんや、と納得した。

一度移住してしまったら二度と日本には戻らないと決めていたので、万が一仕事がスムースに見つからずに30万円が底をついてあえなく帰国、などということにならないようにと目標額を50万円に定めた。当時はバブル真っ最中。日本で最初に就職した会社は商社銀行証券会社ほど良い給料ではなかったとはいえ、年間ボーナス4.2ヶ月という時期だったし、華僑の会社は家から徒歩15分だったので会社帰りに出かけて散財することも無く、貯蓄は着実に増やしていけた。

いよいよ移住 日本には絶対に戻らない

初香港での一目惚れから6年半後の1993年10月、ついに移住。観光ビザでの入境。今のフローはわからないけれど、当時は観光ビザで入境してから仕事を探し、見つかればそのまま就労ビザの申請というフローが「あり」だった。

香港での生活に必要なものを全て手持ちで持って行った。大きな大きなボストンバッグを10個。当然懐かしの啟德國際機場である。カート1台に乗り切らないので、2台にバッグ10個を載せ、左に1台、右に1台、両手で一気にカート2台押し。Arrival Hall に出る直前のゲートで阿sirに「なんで一人でそんなに荷物持ってんの!?」と聞かれ「私、移住してきました!」と元気よく答えたら驚きながらも「あ、そうなん」と。

ゲートが開いて、全体的に黄色い Arrival Hall に出た。スロープで友人達が待っていてくれた。旅行で知り合った別々の友人2人に連絡しておいたら、なんと2人とも車で迎えに来てくれていて、さあ、どちらの車に乗るんだ?と一モメしたのも今では笑い話。

こうして意気揚々と私の希望溢れる香港人生がスタートした。(続)

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