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小説・散文・習作

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下書き①

下書き①

つっかけのサンダルで歩く本郷の郵便局までは思っていたより長い道のりだった。歩くたびにゴミ袋に入ったヘルメットが肩に当たり、荷物の重みはだんだんと指に食い込んで血を止めているようだった。わたしは半ば混乱状態で、きっと口を一文字に結んで前を睨み猛然と歩いていた。

目的地に着く前にひとつ小さな郵便局があった。しかしそこはまだ営業していないようで不安になる。数日前、ポストに届いていた荷物の預かり証には、

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上野動物園のスケッチ

上野動物園のスケッチ

上野動物園において彼女がもっとも興味深いとするのはいつも猿山だった。

彼女は、猿に向かって大きな望遠レンズを構える常連衆(そういうのがいるのだ、ちゃんと)に勝るとも劣らないいきおいで堂々と猿山の柵に乗り出し、のんべんだらりと生活している猿どもを睨んだ。

そして、じろじろと彼らを観察しながら、猿たちのやりとりや関係性を発見し、あるいは勝手にこしらえてきゃっきゃと喜んだ。ぼくは彼女のそんな後ろ姿を

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狢

だいたいきみが来いって言うから今日の15時からもっかいお風呂入って身体中剃り直してクリームちゃんと塗って髪の毛ブローしてなんか変なとこないかチェックして服選んで化粧までしてさあ。きみの仕事終わりに合わせて待ち合わせしててきとうに飯食ってだいたいこのあとエッチするのに食事なんかただのおいしい前戯じゃんかよ。わたしはいくらバカだと言っても酒の力を借りないときみほどには性欲に酔いしれらんないからきみより

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愛のこと、もらえなかった言葉とわたしが彷徨い続ける理由

愛のこと、もらえなかった言葉とわたしが彷徨い続ける理由

大体あんたが悪いんじゃないの。

悪いって何が?

知らないけど、全部よ

全部って?

……ママの期待を裏切ったわ。

ママのために生きてるんじゃないもの。

でも、愛されたかった

そりゃそうだけど、もうあきらめたの。

本当に?

そうよ、もう大人だもの。それに何度も思い知ったものーーあの人がわたしのほしい言葉をくれたことなんて一度もなかったじゃない

それはあなたが伝えないからでしょ。

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くぐつのこころはどこにある

くぐつのこころはどこにある

眠っている男のひやりとした肌に彼を起こさないようほんの少しだけ唇を押し当てると、昨日の喧嘩で切れた口の端がジワリと熱を持ってなんとなく痛かった。そういえば頬にもごわごわとした違和感がある。昨日の夜に受けた男の拳は容赦なかったから、腫れていたって全然おかしくない。アイはそんな仕打ちを受けながら甘んじて、眠っている男に口づけさえ落とす自分のことをまるで他人ごとらしく憐れんだ。つい昨日にも友人にきつく叱

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紫陽花盗み

紫陽花盗み

 その紫陽花の鉢植えはいつもの通りの右側の端の、建物と建物の間の細長い暗い薄汚れた隙間にポツンと置かれていた。なんの変哲も無い茶色い素焼きの鉢にふたつ、ぼんぼんと薄紫の花をつけていた。

 まるでなんでもない朝だった。なんでもない紫陽花。いつもなら何も思わずに何気なく通り過ぎるはずの道だった。しかし実際にはわたしはその朝、鉢植えの前でふと立ち止まりちょっとしゃがんで、その紫陽花をさっと抱えてなん

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パーティについての文章(準備稿1)

パーティについての文章(準備稿1)

その夜のパーティは少なくともわたしの目から見れば素晴らしいものだったしつつがなく進行していた。わたしたちがお呼ばれしたのは彼女が三つ年上のインテリア・スタイリストの背の高い旦那さんと辛抱強く作り上げた趣味のいい彼らの自邸で、そこは1960年代にその道では有名な日本の建築家が作ったヴィンテージ・マンションだった。賃貸の募集を偶然見かけて、特に引っ越す予定もなかったのに昔から二人が憧れていたマンション

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きれいな終わりなんか無理かも

きれいな終わりなんか無理かも

全部が間に合わせみたいに粗雑に体裁を整えただけのチェーンの喫茶店で面倒そうな顔の若い男の子が淹れてくれた400円ちょっとの紅茶に手をつけず冷めていくままにして目を閉じて好きなバンドのアルバムをループ再生にして自分で自分の身体を抱きながらどこか世界に溶けていくような気持ちになる。周りの煩いざわめきを音で搔き消しながら混ざっていくのはどこか通勤電車の中で居眠りをすることに似ていて、わたしはときどき目を

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習作・電車の中でなつかしいきみのこと

さっきから電車で向かいに座ってる男の子がめちゃくちゃ見覚えあって多分中学の時の隣のクラスの男の子なんだけどスマートフォンに夢中でこっち見ないしわかんない、でもあのふわふわの髪の毛と細い鼻梁はやっぱり既視感以上だしなんか座り方とかも似てるし、ってどうして私がこんなにあの子のこと知ってるかっていうとまあもちろんほら、あれじゃん、ちょっと気になる子とかいるじゃん学生の頃って。ぜんぜん話したことなかったし

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たわごと

つまりね、あたしはいつもいつもあたしってものがわからないの。あたしは死ぬまで、最期まで、焼かれてちっぽけな骨になってしまうまで自分のこの顔を正面から見ることすらできない。あたしが自分について知っている(と思っている)瑣末なことのどれにどれだけの意味があるだろう?人から見たあたしはたぶんその人それぞれ違うはずで、そしてそのどれもが本当で本当じゃない。あたしが思っているあたしだってきっともっと不確かで

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平成

名前も声も顔も知らない好きだった人がいる。性別もわからなかった。その人のアバターはわたしのなんかよりきっともっと課金されていていつもきらきらしていたしなんか羽根が生えていたりしたし、限定のアイテムは必ずリリース直後にコーディネートに取り入れられたし、なんでもない時にも何パターンかお気に入りの着合わせがあるらしくころころと顔や髪型を変えていた。その時々で男の子にも女の子にもなってしまう、まるでイメー

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焦りについて

なんだかなあ。捨ててきたもの、引きちぎったもの、無碍にしたもののことを思う。なんてくだらない、身勝手な人間なのだろうと自省して落ち込んで、結局いま周りにいてくれる人にさえ充分に誠実に向き合っているとは言い難い。それなのに新しい関係性を求めてあっちこっち、傷を増やすだけなら閉じこもっていたらいいのにすぐに寂しくていたたまれなくなってもぞもぞ這い出てきてしまうわたしは蛹にすらなれないでいる。石の上にも

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鯖の味噌煮

わたしは一体あと何百何千回自分のために食事を拵えてそれを食して皿を洗うのだろう。一週間前にまとめて煮こんで冷凍していた最後の鯖の味噌煮を電子レンジで温めて美味しくいただいた残骸がこびりついた皿をひとつ199円の赤いスポンジで擦りながらふとそんなことを思った。わけもわからず気がつけば入り込んでいたこの「自分」という肉のかたまりが今日も服を着て歩いて他の肉たちにあいさつしたり仕事をしたりたまに愛しあっ

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日記

君の大きな大きな瞳がわたしにばれないようにほんの少しだけきらりと揺れる。傷ついたこころを隠すように少し笑う。わたしはどうして君のことをいつもいつも傷つけてしまうんだろう。

君はわたしとまるでちがうふわふわとした髪の毛で少し肌が黒くてまつ毛が少女のように長くてそして、本当はとてもとても優しいただの若い男の子で、きっとわたしと同じくらい、もしかしたらもっと自信なんかなくって、傷つきやすくって、それが

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