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紫陽花盗み

 その紫陽花の鉢植えはいつもの通りの右側の端の、建物と建物の間の細長い暗い薄汚れた隙間にポツンと置かれていた。なんの変哲も無い茶色い素焼きの鉢にふたつ、ぼんぼんと薄紫の花をつけていた。

 まるでなんでもない朝だった。なんでもない紫陽花。いつもなら何も思わずに何気なく通り過ぎるはずの道だった。しかし実際にはわたしはその朝、鉢植えの前でふと立ち止まりちょっとしゃがんで、その紫陽花をさっと抱えてなんともないように踵を返し、早足で自宅へと帰ったのだった。
 鉢の下から溢れた土が道路に落ちているのに気がついて途中で手で塞いだ。湿った重い土の感触を指の先でしっとりと感じながら頰を上気させ、しかしわたしは何をしているのか?というような疑問は思い返せばその時わたしにはなく、わたしがやっと、いわゆる「我に帰った」瞬間は、施錠された自室の玄関の鍵を片手で開けて滑りこみ、もう片方で抱えていた鉢植えをそのまま隠すようにゆっくり降ろした時だった。

 ベランダの左のほうの端にそっと鎮座したその鉢植えは、あの建物の隙間にある時よりなんだかずっと大きく見えた。それからようやくわたしは、自分の指についたぼそりと濡れた黒い泥に気がついたのだった。それはまるで殺人の証拠のように恐ろしく、わたしはにわかに動揺した。一体どうしちゃったんだろうと思った。それまでは、その瞬間までは不思議と一切の躊躇いはなかった。わたしはただ当たり前のことをしているだけ、というようなさりげなさだったのだ。とにかくわたしはひどく驚いて、眼前の紫陽花から逃げるようにベランダから部屋に入り、後ろ手に鍵まで閉めてからやっと大きく息を吐いた。薄暗い部屋を見渡して後ろを見ないままカーテンを閉め、洗面所に向かい、手についた泥を落とした。
 そうして、ふと見上げた鏡に映った自分はなんだかよそよそしく、何を考えているのかわからないように思えた。そう思っているのだって自分であるのに不思議だ。何か目の奥で別のものを見ているようだった。

 とりあえず、いつものように紅茶を入れようと台所に立ち、やかんを火にかけて夜のために米を研ぐ。しかし、そのどれもただ、先ほどまでの動揺からなんとか気をそらすためだけに行なっているということはよくわかっていた。でもどれだけ何かに気をそらそうと努めても、かえって余計に自分の意識が後ろ髪をひかれて、いつのまにかベランダの方へと引き寄せられているのをひしひしと感じる。そしてわたしは結局、淹れたばかりの紅茶をほとんど飲まないまま立ち上がって再びベランダに出てしまう。

 例の紫陽花の頭は、どちらもわたしの方を向いてじっとただ黙っていた。わたしはそれらから目をそらすことができない。紫陽花はじっと、水面下で、空気の中の中の目に見えないところで、あるいは地中から、わたしを大きな強い執着のようなちからで縛りつけていた。
 たしかにそれがわかった。執着。わたしはじわりと額に汗をかいている。胸の間にも、指と指の間にも、そしてわたしは股の間にわたしが持っているあの機関がぬるりと覚えのある感覚でそっとその機能を発揮する用意をしていることに気がつく。胸の先端が尖るのは血が送られてくるせいだ。心臓がやかましく余計に速く脈打っている。混乱と羞恥を十分に感じているわたしの前頭葉とは全く関係のない生き物みたいにそっとわたしの腕は動く。脚はそれがし易いようにさりげなく開く。わたしはきちんと、紫陽花に向かって自分の秘所を拡げているのがひどく恥ずかしく、不適当であると感じている。しかしそれはどうしようもなく起こる。目の前の紫陽花がわたしに迫ってくる。まるで自分より力の大きなものに組み伏せられて何もできずただ無力に犯されているように感じた。
 実際には、わたしはただ盗んできた紫陽花の前で自慰をしている、というだけであるはずなのに、どうしてもそうとは思えない。だって脚の間に滑るように割り入ったわたしの指は、わたしがまるで知らない動き方をしてこれまで触ったことのない壁をそっといろんなやり方で撫でている。
 わたしがこれまで自分自身だけとこっそり分かち合ってきたささやかな自慰と、今わたしがこの紫陽花の前で行なっているのは全然違うものだった。わたしは侵され、犯されている。
 もはや気もそぞろになって目を閉じてしまっているのに、いや、開けているんだろうか?それすらわからないくらいにただその紫陽花の薄紫がもうわたしの視界を全部覆ってしまうくらいに大きくなっている。
 頰や耳や脳みそまで沸騰しているように熱く熱く血が上ってくる。わたしはひどく大きく理不尽な快感の波の中になすすべもなく押し流されてひどく怯えていた。

 やがてわたしは、薄暗がりの中で目を覚ます。しばらくのあいだ瞳は開かないで、そのままじっと身動きせず、少しずつ世界に自分を馴染ませる。締め切った麻の白いカーテンの向こうからやわらかく、外の世界はほんの少し発光している。カーテンの外のガラス戸のまた向こうに幾朶も連なって咲いているわたしの紫陽花が確かにこちらを見透かしている気配がする。

 「はい、すぐに水を差し上げますね」

 そう小さく呟くと、それは満足げに風にさわさわと揺れる。「是」と言われているようで可笑しい。わたしは裸足の足を冷たい床にそっと下ろし、ひたひたと窓から出て庭へ向かう。
 まだ慣れていない目に朝の光が眩しく、一瞬目の前がくらむようになる、その時わたしはあのはじめての時を少し思い出して微笑む。あなたがわたしを選んでくれた朝。指を濡らした湿った土。庭用の簡素なサンダルに足を突っ込んで水やり用のホースを掴み、水勢は弱いままそっと丁寧にあなたの身体中に冷たい水を遣る。
 ふと吹いた風にあなたのどこかが揺れる。わたしがかけた水滴が光を孕んできらりと落ちる。あなたはなんでもない朝の光の中で、どことなく満足げに、そっと落ち着いているように見える。わたしにはそのことがひどく嬉しく、そして、あの朝にはたったの二朶ぽっちだったあなたの花序がいまでは数え切れないほどに広がってわたしの庭に根付いていることは、きっとあの朝にあなたがわたしに求めたことなのだと信じている。


新宿ゴールデン街にある文壇バー、「月に吠える」様が運営されている、「月に開く通信」様で開催されていた「第一回 紫陽花はどこに消えた?文学賞」(http://magazine.moonbark.net/special/ajisaibungaku1archive/)
に投稿し、優秀賞と賞金をいただいた作品です。再投稿にあたり加筆修正しました(19.11.16)。楽しく書かせて頂き、また初めて自分の文章に値段がつく喜びを味わせて頂きました。ありがとうございました!

#創作 #小説 #女 #紫陽花

本を買います。たまにおいしいものも食べます。