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今こそ本気で見つめ直したい「食事」との向き合い方。


リモートワークでなんとなく生活にハリが出ない。食事は合間にパパっと済ませておしまい。最後に無音で食事をしたのはいつぶりだろう…?

今回は、そんな方にこそおすすめな枡野俊明さんの「禅と食」について。昨晩から半分ほど読み終えて、私自身の今日一日の食事に対する向き合い方が驚くほど変化した本だ。

生活の当たり前が次々とひっくり返されていく今だからこそ、真剣に見つめ直したい「食事」との向き合い方。夕食を終えて後半を今すぐにでも読み進めたい気持ちを抑えつつ、特にハッとさせられた前半の学びを振り返る。


手を合わせて「いただきます」。

食事のたびに、目の前の食事に手を合わせて「いただきます」と感謝する人はどのくらいいるだろう。

本を読み進めていく中で、私は日ごろ自分がこの行動をほとんど行っていないことにまず気付かされた。1人暮らしなので食事をするときは自分一人。なんとなく合間に作った料理を、なんとなく食べ進め、なんとなく食べ終わる。食べ終わる頃にはもう席を立って、いそいそと流しに食器を下げに行く。

枡野さんによれば、目の前にある食材はすべて「ご縁」だそうだ。多くの人がその食材に関わり、最後にスーパーや八百屋さんなどで数ある品々の中から自分によって選び抜かれた最後の一つ。それがいま目の前にある食材である、というわけだ。

それが高級食材であろうとなかろうと、肉や魚であれ野菜であれ、縁あって選び抜かれたが目の前にある。そして、「いただきます」という言葉は、そんな「命」「ご縁」、そして「お蔭様」といった存在に心から感謝する気持ちを表すもの。

この一説を読んだとき、子供の頃にはピンとこなかった感覚が、今こそ腑に落ちるような気がした。今日は一日の食事を通して、食べる前には手を合わせ、その食材一つひとつに携わってくれた人や食材自体への感謝を込めて「いただきます」と口にしてみた。昼食は外国人上司と同席したが、彼の前でも欠かさずやった。なんだかそれだけで、背筋がピン!と伸びて、それから口に含む食事への向き合い方が改まるような気がした。もちろん、食べ終えた後の「ご馳走様」も忘れずに。

たったこれだけの「当り前」を見直すだけで、食事の時間が一気に引き締まり、目の前の食事が決して「当り前」のことではないという事実を改めて実感した。


「所作」と「心」は切り離すことが出来ない。

高級食材が手に入れば、どうにかしてその食材のうまみを引き出そうと方法をあれこれ考える一方、安い野菜などは手間暇かけずにパパっと調理する。まだ食べられる部分が残っているにも関わらず、それらを生ごみとして処分してしまう。食べてもらう相手が自分しかいないからと言って、「こんなものでいっか」と適当に調理を済ませ、隙間時間にパパっと掻っ込む。調理道具をぞんざいに扱う…。

何を隠そう最後の一文にドキッとさせられたのが、流しに食器を置いていた私である。そう、「食事」とは何も、食べる時間だけでなく準備から食す時間、そして後片付けまでの一連の流れを指すものなのだ。

枡野さんいわく、食に向き合う姿勢や所作とその人の心は切り離すことが出来ないという。

たかが食事、されど食事。ということで今日はさっそく、ネギの固~い部分を細かく刻んで念入りに油で炒め、それを卵焼きの中に入れてみた。「いただきます」と手を合わせ、ごぼうとひじきの炊き込みご飯と合わせていただくそれは、一見すればなんともないいつもの食事のようだった。でも、それが格別の「ごちそう」に感じられた秘密は丁寧な調理と感謝の心、そしてもう一つ、その時間と心から「向き合った」ことによるものだった。


「向き合う」こと。「ながら」ですること。

ポッドキャストを聴き「ながら」調理をし、一人だから「こんなもの」でいっか、と手早く調理を済ませ、味わった「つもり」でパパっと掻っ込む(または、映像を観「ながら」、音楽を聴き「ながら」うわの空で食事をとる)。もちろん、「いただきます」や「ごちそうさま」はなし。

こんな食事をしてしまうことが誰しもあるのではないだろうか。少なくとも、私にはある。これは何も食事に限ったことではないのだけれど、現代人は特に、何かをするときその対象に身体や心の一切を集中して行うということが少なくなっていると感じる。

時間を大切に。一分でも一秒でも無駄にしないために。そんな文句があちらこちらで散見され、「ながら」聴き出来る音声配信が人気を博している。かくいう私も、Podcastの大ファンである。

しかし、本を読み進めていくと、普段いかに自分が食事の時間を「何気ない」時間としてぞんざいに扱ってきたのかがよくわかる。もちろん、ゆっくり味わって食べようと意識する日もある。でも、準備や後片付けの時間にまでは気が回っていなかったのだ。気づけば最近、調理中に無音なことはほとんどなくなっていた。

そこで今日は、食べる時間だけでなく、準備から後片付けの時間までを通してが「食事」なのだと心してみた。ネギを刻むときも、食べ終わった後の食器を洗うときも、終始無音で自分の行動一つひとつに集中した(食べ終わってすぐに食器を洗ったのは言うまでもない)。一口食べ終わるごとに箸を置き、ゆっくりと噛んで味わった。

最初はいつもよりも食事の時間が長く感じた。けれども次第に五感が冴え、いつもの食事の時間はかけがえのないものに一変した。そこに在るのは自分と、目の前の食、そしてそこに関する一つ一つの行動を「味わう」時間が流れていくだけ。最後の食器をいつもより念入りに洗い、すべての行動を終える頃には、なんだか一人の人間としての感覚を取り戻したような、不思議な気持ちになった。


合間に済ます食事。生活のアクセントになる食事。

もちろん、毎回そんなにじっくり時間をかけて食事と向き合っていられないという人も多いかもしれない。そんな方は、規則正しく食事を摂るところからスタートするというのはどうだろう。

枡野さんは毎回の食事の時間を決めることで、その時間が生活の中での「アクセント」になり、その他の仕事に落ち着いた心で取り組めるという。

リモートワークで仕事と私生活にいまひとつメリハリがつかないという人は、あえて食事の時間を設定することで生まれるリズムに乗ってみるというのも一つの手かもしれない。

そうすることで、食事が合間に「済ませる」ものではなく、なんとなく生活の「主役」になったかのような感覚も味わえるのではないだろうか。

例え一回一回の食事と365日じっくり向き合えなくても、一週間に一日、または夕飯だけ、などと決めてとことん無音で食事に集中してしてみるのもいい。普段の食事と「なんだか違う」気がしてきたらしめたもの。食事に「向き合っている」という感覚は、自分の心を落ち着かせ、私たちの背筋を伸ばしてくれる。


枡野さんの本は二冊目になるが、今回もスラスラと読めている。普段だったら読書の時間を意識的に作っている私が、読むのが待ち遠しいと感じるほど何か引き込まれるようなものがあるのだ。中でも、もてなしとは、相手のことを「思う」ことと言う一説を読んだ際には、母の姿を思い出し涙してしまった。

さぁ、今晩も続きを読んで、自分の食事への姿勢ととことん向き合うとしよう。


Peace!




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