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これからは(実は昔からずっと)適応力の時代

最近は日本のような安全な国でも凄惨な事件が起こるとか、経済大国だったはずの日本が賃金が安い国になっていたとか、未曾有の自然災害が起こったとか、日々のニュースは話題に事欠きません。「世の中はなんて予測不能になってしまったんだ」と思って日々憂いている方もいらっしゃるかもしれません。今日はそんな皆様のために個人的な想いを書いてみました。

本当に最近になってVUCAの時代になったの?

最近よく聞く言葉として「VUCA (ブーカ)」があります。これは、「先行きが不透明で、将来の予測が困難な状態」(「Volatility: 変動性」「Uncertainty: 不確実性」「Complexity: 複雑性」「Ambiguity: 曖昧性」の頭文字をとった言葉)のことを指し、最近のマーケティング的なプレゼンテーションでもよく耳にする言葉です。「東西冷戦終結後から不確実性の高い時代になった」みたいに言われます。

ところで、いきなりですが「最近の世の中は、先行きが不透明で、将来の予測が困難な状態になった」「最近はVUCA (ブーカ)の時代になった」なんでいうのは、本当に正しいのでしょうか?

結論から先にお話しておくと、これは真っ赤なウソです。世の中は太古の昔から予測が不可能でした。これはたとえば社会・経済面で見ても消費者物価指数や成長率が毎年安定していたのは日本だと1960~1970年前後の高度経済成長の時期くらいで、他の時期は毎年大きく上下に変動しており予測ができません。株価もいくつかの時間スケールで相場観が見える時があるものの、結局のところは大きく外れることも多々あります。宝くじ、あたり馬券もずっと当てられるのであれば、その人は世界一の大金持ちに成っているはずですが、宝くじ、ギャンブルで成り上がった人はいまだかつて現れていません。また、東西冷戦というのも1947年から1991年までの約40年の間だけの出来事です。

科学の世界ではどうでしょうか。世の中の物体の記述はニュートンの運動方程式のような時間方向に依存しない単純なルールで記述されているように見えます。これは、過去の条件 (初期条件) をすべて明らかにすれば未来を予測できる、逆に現在の事象をすべて明らかにすれば過去のことも全て分かるのではないかという野望を人類に与えます (そのような存在は"ラプラスの悪魔" と呼ばれます)。しかし、実際には物体の数が多すぎるN体問題 (Nの数は無限に近い数)で方程式が厳密に解けず、かつ時間がある程度離れるとカオス的な振る舞いをして予測不能になったり、厳密な運動方程式は高次の多項式の補正項が現れ、時間方向にも非対称になってしまうなど、実際にはうまくいかないことが分かっています。実際には運動方程式は限られた少数の物体 (現実的には2体)、短い時間スケールに対して、かつ与えられた制約条件下で近似的に解くことができます。

前述の例に共通して言えることは、「ある短い時間の範囲に絞ると、経験則や近似的な法則が成り立つように見えることもあるものの、より長い時間スケールで見ると実はそれはたまたまだったことが分かる」ということです。

つまり、世の中は太古の昔からずっと "VUCA" の時代なのです。この記事でもマーケティング的に「これからは~」とタイトルを付けていますが、実は「昔からずっと」なのです。人は短い時間スケールで物事を考えがちなので、その視点で見ると短期的にはいろいろなものが予測可能に見えるのですが、時間が経つとその経験則は成り立たなくなってしまう、というカラクリです。

ちなみに、VUCAという単語は東西冷戦が終わった1990年代に、それまでは東側諸国に対してだけ備えていれば良かったアメリカ軍が新たな脅威であるテロと対峙するようになって生まれたようですが、Googleトレンドで見ると世の中で実際に広く使われるようになったのは2010年以降、日本では2016年以降で、動き的にはバズワード的な振る舞いをしています。

「生き残るのは変化できる者」である

ところで、よくビジネスの場面でも以下のような言葉が引用されることがあります。

最も強い者が生き残るのではなく、
最も賢い者が生き延びるのでもない。
唯一、生き残るのは変化できる者である。

これはダーウィンの進化論に関連付けられて語られることが多いのですが、実際にはダーウィンの「種の起源」を読んだメギンソン  (Leon C. Megginson、1921-2010)が自身の感想として述べたもののようです。(ダーウィンの進化論は、種の選択は何世代にも渡る生命の継承の中で、環境に適さないものが結果的に淘汰されていくプロセスであり、一世代の中では発生しない)

この論説がダーウィン本人が述べたものかどうかはともかく、一世代の間であっても「環境に適さないものが結果的に淘汰されていく」というのは、私は本質的に的を得ていると思います。ビジネスの世界でも、10年、20年の時間スケールでは、世界の環境、経済の環境が変わってきて、ゲームのルールも変わってきますので、それに適用できるかどうかが生き残れるかどうかの鍵になります。たとえ世界一の権力者や金持ちになっても、変わりゆく環境を元に戻そうと抗うことは叶わないことは歴史が証明しています。

人材流動性は社会の重要な要素

日本では戦後になって本格的に「終身雇用制」が普及し、戦後の高度経済成長の時期とも重なって、多くの労働者・雇用者が安定した雇用・給与・生活を享受し、制度は日本独自に進化を遂げました。終身雇用は雇用者側にとっても労働力を安定的に、かつコストを抑えて獲得する手段として重宝されました。

しかし、高度経済成長の時代が終わると、この終身雇用制のメリットは逆回転をし始めます。市場のグローバル化、新興国の台頭に加えて、為替レートや人口構成の変化なども影響して、日本の主力産業であった製造業で海外生産移転が行われるようになり、国内の産業構造も大きく変化し始めたにも関わらず、雇用は固定され、新卒採用と定年退職でしか従事者数が調整されないということは、雇用者は次の一手を戦略的に大きく打てないことを意味します。

その後、第三次産業がGDP構成の中心になっていくにつれ、第三次産業の雇用者が大幅に増えていきますが、終身雇用の変更にはあまり大きなメスが入れられず「窓際」ポストや不必要な仕事を生み出すなど非生産的な調整に留まっていました。一方、非正規従業員 (パート、派遣、有期の外国人労働者等) を増やすことで調整する対応が先行して行われ、大手企業では2010年代後半になってやっと終身雇用にメスを入れ始めているのが現状です。

実にそれまでの間の約40~50年もの間、この人材流動性の本質的な部分にメスが入らなかったことになります。「失われた30年」と呼ばれる長期経済低迷の間に日本の労働力人口や資本ストックが減少してしまったわけですが、これの挽回には少なくとも国内外の大きなスケールでの人材流動性を取り戻すことがひとつの大きな鍵になるはずです。長い目で見ると、日本でも戦前・戦中以前は終身雇用は一般的ではなく流動的な雇用体系であり、終身雇用は歴史的にはとても短い期間の出来事です。

私も長年働いてきた外資系企業の世界から、いまは日本企業の世界に足を踏み入れていますが、両者を比較してみると「雇用に対する意識」には大きな差があると感じます。

私もマイクロソフトでは結果的に20年働いたことになりますが、新卒で入社した時には、内定式では当時の社長に開口一番「俺は新卒は嫌いだ」という訓示をいただくような環境でもあったため😁、定年までこの会社で働くという意識はありませんでした。周りも中途採用の方がほとんどで、プロジェクトにより必要人数の増減も大きく、転職して別の会社で活躍されていく方も多かったため、キャリアは自分で切り開くものだ、会社はいつ辞めてもおかしくないという意識がありました。

一方、私が現在在籍している富士通では、転職組も増えてきているものの基本的には新卒採用で入社して定年まで在籍する予定で働いている方が大多数です。最近ではジョブ型への移行、社内ポスティング制度、早期退職制度も実施されるようになってきているものの、まだまだ自分のキャリアは会社がレールを引いてくれるものだと思っている人が多いようです。今後の社会環境を考えると、まだ大きな意識の調整が必要になってくるものと思われます。

適応力の時代に気をつけるべきこと

ここまでいろいろなことを見てきましたが、「結局最近は生きづらい世の中だな」と思われるかもしれません。しかし、安心してください、世の中は昔から予測不能で生きづらいのです。今と昔とでは何も変わっていません。

最後に、私が心の安定を保つために常に気をつけていることについていくつかご紹介します。何かのご参考になれば幸いです。

有事に備えるだけでなく起こった後の適応力を身につける
さまざまな事態を想定して備えを行うことは重要です。一方で、すべてのことを事前に予測して対策を打つことは不可能です。事前の対策に力を入れ過ぎると行動範囲が狭まり動きが遅くなります。あるところでバランスを取って前に進み、問題が起こった場合の対応策・適応の仕方を考えておくほうがアジャイル、かつ悲観的になりすぎない対応が可能です。

極端なことを想像することで現状を受け入れる
人は予想しなかった大事が突然起こると、絶望に打ちひしがれてしまうことがあります。そのため、普段から極端なことを想像して置きましょう。明日家族が亡くなったら?明日会社を首になったら?大地震が起きて家が無くなったら?明日核戦争が起きて世界が滅びたら?その時に打てる手段やどういう考え方をするかを予め考えておくようにすると、普段身の回りに起こる、より小さい出来事も受け入れて対処できるようになるでしょう。

報道には常に偏りがあることを理解する
事件を取り上げるニュースメディアにはいくつかの選択肢があるものの、特に日本のメディアは裏で結託しているのかと思うくらい同時期に同じような報道をします。しかも取り上げ方や取り上げる内容に恣意的なものを感じることもあるでしょう。しかし、そもそも中立的な報道など存在しないことを理解していれば、報道に怒りを覚えることもなくなります。「私たちは正確で中立で独立して公平な報道を心がけます」と言っているメディアもあるかもしれませんが、これはそもそも原理的に不可能なのです。報道する内容のテキストをなるべく客観的に記述したとしても、そもそもある事件を取り上げるのか取り上げないのかという次元で恣意性が存在します。つまり、物事が語られる時は常に「観測者の窓」を通して行われることを理解しておく必要があります。そのため、どの報道を信じるかは最終的には民衆側が自主的に決めるためのリテラシーを身に着けた上で決断する必要があります。

物事には常にメリット/デメリットがあることを認識する
人は毎日大小さまざまな "選択" を迫られます。その日に食べるものから、人生を左右するような大きな選択まで、いろいろな選択を日々しています。時には自分がどういう選択をすべきか迷うこともあるでしょう。また、他人が取る選択肢が自分の意見と合わず意見が対立しそうなこともあるでしょう。その時どういう選択肢が取られたとしても、その選択によるメリットもあればデメリットも必ずあることを認識しておくと、自分が選択をする際に、もしくは他人の選択を受け入れる際に、寛容になれるかもしれません。選択肢には絶対的真理を持ってどちらかに決まるものは殆どなく、正解も周りの条件や時代によって変わる場合があります。そのため、かならずメリットは何か、デメリットは何かを両方考えるようにしておきましょう。すべての選択に対して必ず両方とも見つかるはずです。

現在人類が知っていることは世の中のほんの一部であることを認識する
世の中にはさまざまな知識が溢れています。人類の叡智を持ってすれば、何だってできるという感覚に陥ることがあるかもしれません。ただ、一般社会には専門的なことは丸められて伝えられることも多く、専門家になればなるほど「今わかっていないことがとても多くある」ことを認識しています。(そのため彼らの職が成り立ち、モチベーションも続いている!) 事件が起こったときに執拗に他人を批判する人もいますが、人類は元から多くのことを知らないことを知っていれば、何か不測の事態が起こったときの期待値も調整できるかもしれません。

人類が解決できる問題はほんの一部しかないことを認識する
一方、人類には昔から知っているけれど解決できない問題もたくさんあります。世界平和・戦争/争い、貧富の差、差別などの社会問題から、「貪食」「淫蕩」「強欲」「悲嘆」「憤怒」「怠惰」「虚栄心」「傲慢」といった八つの想念の抑制まで、さまざまなものが挙げられます。中には出家して悟りを開いて解決しようとした人もいましたが、全人類がそのようになれるわけもありませんでした。現在の日常でも似たような問題が日々起こっていますが、解決できない問題も多くあることを認識しておけば、絶望することも減るでしょう。

常に前向きに考える
人が選択できる選択肢にはいかなる場合もメリット/デメリットがあり、かつ知っていること・解決できることは一部しかないことを学びました。後は、それを受けて自分がどう考えるかなのですが、同じ限られた条件・環境下で選択をするなら、なるべく前向きに、ポジティブに考えることに越したことはありません。物事の二面性を考慮して、悲観的なことが頭をよぎったときには楽観的なこともあるはずだと考えてみてください。少し引いた立場から客観的に両面のことを考えて、ポジティブな方を考えるようになることで、気が楽になるのではないかと思います。

最後までお読み頂きありがとうございました!それでは、また!

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