可能なるコモンウェルス〈24〉

 ブルジョワジーたちの関心はそもそも、「自分たちの利得がいかに確保され得るか?」というところにあった。そしてそのためであれば、自分たちがたとえ「何者であったとしても」一向に構わなかったのである。
 ではそのような彼らブルジョワジーが、何をさておいてもまず最優先としていた自らのその「利得」とは一体、どのように見出されるものなのだろうか。
 一般に世の人々の様子を見てみると、どうもその誰もが「自分の福利にしか関心がなく、同時にその福利の『原因』と自分自身は、全く無縁・無関係である」(※1)と信じているものと見受けられるのは、偽らざる印象なのではないだろうか。さらに言えば、そういった世間に生きる「各個人は、自分の個別的利益に関係のある統治の計画しか『よい』とは思わないので、もしも『よい法』が絶えず人々の窮乏を強制するようなとき、そこから引き出すべき、あるいは引き出しうる何らかの『公共の利益』については、これの意味や意義といったものを容易に認めようとはしない」(※2)ものなのだ、というようにも感じられてくるところであろう。
 ところでこういった、世間の人々が信じきっていささかも疑わず、そして自らは進んで手放そうなどとはけっしてすることのない「自分自身の福利、あるいは各個人個別の利益」とは、実際その「自分自身あるいは各個人の帰属する人間集団において、『利益として見なされている限り』において、はじめてその人自身の利益となる」ものなのである。このことについてはもちろん、「ブルジョワジー」であっても何ら変わりはない。彼らが帰属する人間集団、すなわち「ブルジョア階級」が利得として認めるものだけが、彼ら自身の、つまり「ブルジョワジー各個人の」利得として、彼ら自身が見出しているものなのだ。そしてブルジョワジーは、それを一度「自分自身にとっての利得」として見出したなら、絶対にそれを自ら進んで手放さない、この「固執」ぶりといったら、実に「他の階級」にはちょっと見られないほどのものである。そして彼らは、「この利益のためになら、本当に『何だって』やる」わけだ、それこそ全くなりふりも構わずに。
 さらに彼らブルジョワジーは、自分自身にとっての利得が間違いなく得られるものであるなら、自分自身の帰属する人間集団=階級が、たとえ「何であろうとも」構わないのだと、腹の中では思っている。実際、「自分自身が何者であるか」だとか、あるいは「何処の誰であるか」などということは、彼ら自身の利益をいささかも担保しないのだ。だから彼らブルジョワジーは、それが自分自身の利益に結びつくのであれば、たとえ「何者になること」も全く厭わない。何なら、「自分自身であることをやめて」もよいのだ。何であれ彼ら自身の利益が確保され得る状態こそが、彼らにとって「自分自身であること」に他ならない。だからこそ彼らはその時々の状況次第で「何者にでもなれる」わけである。ある意味彼らブルジョワジーが、「特定の人間集団=ブルジョア階級に帰属することで、それぞれ互いに一致共通させているもの」が何かあるとすれば、実にこういった行動様式においてあらわれているものの他には何も思い当たらないくらいなのだ。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 オルテガ・イ・ガゼー「大衆の反逆」
※2 ルソー「社会契約論」

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