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【連載小説】息子君へ 109 (25 かわいがられすぎていいことなんてないんだよ-2)

 ほめられるとうれしいものだし、その中でも見た目をほめられるのは特にうれしいことなのだろう。けれど、ほめられてうれしいのはしょうがないとしても、たくさんほめられたいなんて思うのは間違った感じ方なのだということを君はわかっていないといけない。ほめられたというエピソードを得られたことにうれしくなったり、ほめられているというシチューションにうれしくなるのは、みっともないし、意地汚いことなんだ。
 君もほめられたから喜ぶというのが不自然なことなのだということがわかってきただろうか。ほめられたとか、ほめられなかったというのは、そういうはっきりとしたメッセージを示してもらったかどうかというだけで、君が現実に相手と向き合って体験しているのは、そういうメッセージのやり取りではないはずだろう。
 君はただ、いつでも相手の気持ちを感じようとしていればそれでいいはずなのだ。誰かが君の見た目をいいなと思って、それがどんなふうにいいと思ってくれたのかと伝えてくれたり、君の見た目がいいことでうれしくなってくれて、そのうれしい気持ちを伝えようとしてくれたときに、その気持ちを受けとって、それが本当にそう思ってくれて伝えてくれているのだと実感したなら、君はそのとき自然とそれをうれしく思ってしまうことになる。ほめてくれている言葉というのは、相手がそれくらいの気持ちがあるときにそういう言葉を使うひとなのだという、相手のそのひとらしさとして受け取っておくだけでいい。君は言葉よりも先に相手の気持ちを受け取っているはずなのだ。気持ちを伝えてくれているのなら、それを受け取ればいいし、そういうわけでもなさそうなら、ほめたいひとがほめているのに付き合わされているとだけ思っていればいいんだ。
 好きとか、ずっと見ていたいとか、一緒にいたいとか、いろんな顔が見たいとか、自分に笑いかけてもらいたいとか、そういうことを思ってもらうことと、見た目がいいですねと認めてもらうことは全く別のことなんだ。君はそれをちゃんと区別しないといけない。
 相手の身体が自分に対してどう反応しているのかということが、自分とそのひととの間にある現実なんだよ。相手がおべっかを言っているのなら、おべっかを言っておこうとされるような半分舐めた感じの距離感でおべっかを真に受けるか探られているというのが、君がそのとき体験している現実なんだ。おべっかじゃなくて、本当に君のことを見た目がいいと思ってくれていたとしても、ただ気持ちを伝えてくれているのでなく、君を持ち上げようとしてくるのなら、どういう感情によって持ち上げてきているのかということを感じていればいい。
 逆に言えば、親が子供にしてあげるべきなのは、自分にとっての自分がどういうものなのかというのがだんだんはっきりしてきたときに、ひとが何を言ってきたとしても、自分がそう感じるならそうなのだと思っていられるようになる邪魔をしないことなのだろう。それはどういうことかといえば、子供が感じたいことを感じたいだけ感じさせてあげて、言いたいことを言わせてあげて、したいことをさせてあげて、それにちゃんと反応してあげることなのだと思う。自分がそう感じて、そう思ったということが大事で、それを伝えた相手が喜んでくれたときには、ただ一緒に楽しいことをしたのとは違ううれしさがあるということを知って、自分が何かを思うというのはとても楽しいことなんだということを当たり前に思っている子供になっていけるように、親は子供を操作せずに見守っていてあげないといけないのだ。
 それなのに、子供を喜ばせてあげたいからと、親からやみくもにほめられるなんて、本当にひどいことなんだ。小さい君は、わけもわからないまま、ほめられていることに気持ちよくなって、自分はほめてもらうべき存在なのだと思って、ほめられるようなことをしようとするようになってしまう。子供が自分の思いたいことを思うようになる前から親が誘導してばかりいることに、いい影響なんて何もあるわけがないんだ。
 ほめたり叱ったりというのは、アメとムチというか、暴力とその反対なのだろう。そういうもので相手を支配して、自分が誘導しようとしている方向性を感じ取ってさっさと自分からアメを欲しがる行動を取るように訓練させようとすることなのだ。子供の好きにさせてあげずに、すぐに何かしらの行動だけをほめることで相手を支配しようとしているのなら、そこで働いているのは汚い感情でしかないのだろう。
 多くの場合、ほめるということは、君らしさへの侵害なのだ。逆に、それを侵害していないようなほめ方をしてくれていると感じられたひとだけが、ちゃんと君を感じたうえで、ほめたい気持ちを伝えようとしてほめてくれているということなのだろう。そして、まだ小さければ、子供はそんなことは判別できないのだ。自分のしたいことをする前に、ほめられることをして満足してしまうことで、どんどん自分のしたいことを自分で感じていない子供になっていく。そうやって自分の感情が希薄なわりに、自分はほめられて当然の存在だと思っている子供になって、ほめてもらえそうなことを探しながら、うまくやりさえすればほめてもらえるつもりでひとの前に立つようになってしまう。
 ある程度の歳になったら、子供だからといって、自分で自分をすごいとか、自分で自分を格好いいと思っているのはみっともないことだというのはわかってくるのだろう。だから、自分が恥ずかしかったことに気が付くと、こっそりとすごいと思っていたのをやめていく。けれど、子供なりにそういうことを自重していたとしても、他人からほめられることはそれとは別の響き方をしてしまう。
 誰かが自分を持ち上げてくれると、自分が恥知らずにも自分でそう思っているわけではなく、誰かがそう言ってくれたということを根拠にして、自分はそうなんだと思っていられる。どれだけ表面的なものだったとしても、ほめてもらったという事実だけもらえれば、ひとのせいにしながら自分の中でいばっていい気分になっていられるのだ。
 親にほめられすぎることが有害なのはそういうところで、ほめられる自分という自己イメージを持つようになると、自分が他のひとよりもほめられるはずだというつもりで生きるようになってしまう。そういうつもりで人々の中にいると、きっとここでも自分はほめてもらえそうだと思いながら、みんなと自分を見比べて、みんなのことをほめられるかどうかという観点で常に値踏みしてまわるようになってしまう。そして、自分の中ではいつまでも自分はもっとほめられていいひとということになったままで、いつもほめられる準備をしているみっともない大人になってしまう。
 この十年くらいで、世の中の若い男たちで、需要がありそうならすぐに媚びてみせるようなひとがかなり増えたような印象がある。メディア上では、昔からアイドル的なひとたちが、アイドルファン的なひとたちに向けてたくさん媚びてはいたけれど、そういう界隈のひとたちでなくても、媚びてもらえるとうれしいひとが喜ぶ準備をしているのに向けて媚びてあげるということが一般的に行われるようになったし、それと並行して、世の中の普通の男たちでも、ちょっとしたネタとして、わざとらしく格好いいことやかわいいことをしてあげるというのがよく目につくようになった。俺が若い頃は、勘違いしたちょっと気味が悪い感じのひと以外は、自分から他人に格好つけたことをしようとはしていなかった。むしろ、格好つけたりかわいくしようとしていると思われないようにみんな気を付けていたくらいだったのだろう。
 それだって育ち方の問題なのだろうなと思う。かわいいかわいいと言われて、かわいいと言ってもらえることを自分からやって、かわいいと言ってもらえてうれしいという経験を何千回も繰り返して、もう少し大きくなったら、格好いい格好いいと言われて、まんざらでもない感じで、自分は格好いいつもりで、格好いい状態をキープしようと思って生きてきたような男が増えているのだろう。そして、その中の大人になっても比較的きれいな見た目をしてひとたちが、わざとらしいことをしても白い目を向けられないからと、わざとらしいことをやってみせることをネタにしているのだろう。
 媚びてもらえるとうれしいひとが膨大にいるのは仕方がないけれど、そういうひとたちを喜ばせることで、自分をちやほやされている状態にすることをどうしてそんなに素晴らしいことに思っているんだろうなと思う。誰の機嫌を取ろうとしているわけでもなく、自分のしたい顔をして好きにしている姿の方がいつだって素敵なものだろうに、どうして媚びるひとたちは、ちやほやしたがっているひとたちなんていう、どうでもいいひとたちからちやほやされることにそんなにいい気分になっているのだろうと思う。
 それはきっと、鬱病になった女のひとが露出度が高い服装をするようになる傾向があるという話と似たような現象なのだろう。そういう現象というのは、現実の具体的な感情を見失ってしまっているから、一番多くのひとが自分に明確な好意的なアクションを取ってくれるファッションを、一番自分が得られるものが多い服装だと思ってしまうことによるものなのだろう。そうやって、やりたいだけの男から、ちやほやされたらすぐにやらせてくれそうな女だと見られて、あつかましく寄ってこられて、けれど、まともな判断力が働かなくて、自分の頭の中のことしかまともに感じられないから、誰かが寄ってきてくれることだけが唯一確かな自分の存在価値のように思えて、そういう服を着てきてよかったと思うのだろう。そして、バカにされながらセックスされているのに、自分を求めてくれているとほっとして、けれど、あとからその相手とのことを振り返っても、本当には大事にされていなかったんだという感覚しか残っていなくて、また自分を少し嫌いになるためのエピソードを一つ積み上げることになっただけになるのだ。ひとをちやほやしたがるようなひとにちやほやされるのだって、まるっきりそれと同じなのだ。

 俺が君のお父さんになれるのなら、君が楽しくしていられるように、次から次に先回りしてお膳立てするようなことはしないのだろう。過保護にしたりもしないのだろう。君にはいつでも自分のそのときの感情があって、君は君の感情の続きを生きるだけでいいはずなのだ。まわりのひとたちの反応を確かめながら、自分のしたいこととか、すると楽しいこととか、嫌な気持ちになることとか、何をしたら何が起こって、そのとき自分の気持ちがどう反応するのかを身を持って知っていくんだし、そのうえで君の好きにすればいいし、その邪魔をしないように見守ってあげたいなと思う。
 俺は君がお行儀よくうまいことやりながら感情的にコストパフォーマンスのいい生活を送ろうとする子供になってしまわないといいなと思っている。君が自分の気持ちでそう決めたと思えることが大事で、だから、何をしろとは言わないようにしたいとも思っている。そういうのはやめておけというのも、汚いことをしたときとか、嫌がられるようなことをしたときだけでいいだろうと思っている。自分勝手に手軽に気分よくなろうとして、それに他人を付き合わせようとしたときも、言ってもわからないだろうから、それに俺が付き合わないことで、それは他人に喜んでもらえないことなのだと君に伝わるようにしてあげられたらなと思う。
 そういうことと同じようなこととして、俺は何でもすぐにほめたりしないようにするのだと思う。俺がほめたい気持ちになったときだけほめるし、そもそもほめるという感じにならないようにして伝えてあげたいと思う。俺がうれしかったら、俺のうれしさとして伝えるし、君に対してよかったねと思ったら、そのよかったねというのを伝えようとしたい。あとは、君がそれをやって、そんなふうになって、どんな気持ちなのかなと思いながら、どうだったねという話ができれば、それで充分だろうと思っている。ほめられるようなことをやっていないのに、自分がよかったと思えたときと同じようにほめられていると、俺の言葉が信じられなくなってしまう。そうならないように、俺がほめておきたいからほめるみたいなほめ方はしないようにしたいと思っているんだ。
 それはとても大事なことなんだよ。いろんなひとがいろんなことを言ってくるけれど、本当にそう思っているのか疑わしいひとたちばかりだろう。だからこそ、少なくても俺のことは信じられるように接してあげたい。そして、思ってもいないことを言わないようにして喋ったときには、どんなふうに話し方や話すことに違いがでてくるものなのか、なんとなくわかっているようにしてあげられたらなと思うんだ。
 多くの人々が日常で一番ほとんど嘘みたいなことを気軽に相手に言っているのが、ほめるという行為をしているときなのだろう。それは当たり前のことで、ほめるほどのことなんてなかなかないんだから、ほめようとして無理をするほど、そのひとは嘘つきになる。よかったねと言えばよくて、いいんじゃないと言えばいいだけなのに、どうしてほめたい気持ちがないときにほめてしまうのだろうなと思う。俺は素朴にそう思ってきたし、君もそういう当たり前の感覚が麻痺していないままで子供時代を過ごせるようにしてあげられたらなと思っているんだ。

 もしも本当に俺が君のお父さんになってあげられたなら、君のお母さんと延々と喧嘩を繰り返しながら、子供を増長させてもいいことなどないということを、そのうちにわかっていってもらえるのだろうと思う。君のお母さんだって、干渉されるのが好きなひとではないし、たくさん話せば、かわいがることはそのとき相手を喜ばせるだけではなく、かわいがりすぎることで相手の気持ちの動き方を歪めてしまうようなことなのだというのをだんだんわかってくれるのだろうと思う。
 それでも、自分がかわいがりたいからとかわいがるのはよくないことだということについては、いくら話してもわかってもらえないのかもしれない。君のお母さんはそもそも清く正しく生きたいという感覚がないのだろうし、そうしたときには、みんなめちゃくちゃにかわいがっているんだから私だってめちゃくちゃにかわいがりたいという気持ちをどうしても間違ったものに思えないのだと思う。
 実際、今の子供は、母子関係が良好な家庭なら、乳幼児の頃はひたすらかわいいかわいいと言われて育てられてきた子供たちばかりなのだろう。親の側の意識として、子供にかわいいことをさせて、それをかわいいかわいいとマッチポンプ的に喜ぶことは、母になることの喜びのひとつだと思われているように見える。それはもう何十年もずっとその方向性が強まり続けているような、社会が豊かになったなら、そうなっていくしかないような傾向なのだろう。昔は甘やかす余裕がなかったから、子供を甘やかしてはいけないことにして、甘やかせないことを正当化していたところもあったのだろうけれど、もうずいぶん前から、庶民にも子供を甘やかす余裕ができて、それ以降はみんなで甘やかしも含めていくらでもかわいがっていいことにして、たくさんかわいがって子育てを楽しもうとするのが普通だということにしてきたのだ。
 何かをかわいがって、そのかわいがった対象が喜んでくれるというのは、かわいがる側に大きな喜びを発生させる。そして、子供は生まれつきとしてかわいがられると喜んでくれるし、うまく仕向ければ、親にかわいがられたくていろんなことをしてくれる子供にすることもできる。そうできれば、かわいいことをいっぱいさせて、いっぱいかわいいとほめてあげて、子育てをうれしい気持ちでたくさんの、とても楽しいものにしていくことができる。
 生活に余裕ができるほど、人々は家庭生活をレジャー化させるようになる。食事作りも含めた家事もレジャー化されていくし、子育てもレジャー化されていく。そして、レジャー自体がひとに自慢するために、自慢できそうなレジャーを体験したがる場合が多いのだし、同じように家庭生活も自慢できるように頑張ろうとして、食事を含む家事も自慢できるようなことをしたがるし、子育ても自慢できるような成果をあげたくてあれこれするようになる。親自身が自分の人生を自分が置かれた状況なりに、レジャー的に楽しんだり、自慢合戦の中でできるだけいい気になろうとすることに、子供たちはどんどんと巻き込まれていくようになったのだ。
 昔はそういう親が楽しむためのレジャーとしての子育てに子供時代のまるまるを巻き込まれていたのは、金持ちで暇で自分というものがあまりない母親とか、金持ちでもないのに自分は特別だし自分の子供も特別であるべきだと勘違いしたような母親のところに生まれた子供だけだったのだろう。子供は子供たちで勝手に遊んでいるし、ちゃんと食べさせていれば、放っておいても育つし、干渉しようとしても無駄だから、言うことを聞かなくなっても、悪いことをする子にならなければそれでいいというような子育て観が、俺が育てられた頃にはまだまだ一般的なものだったように思う。
 とはいえ、俺が育った頃でも、もう子供たちは一日中近所の子供たちで集まって遊び回っているという時代ではなくなっていたし、俺自身、遊んでいたけれどご飯の時間だからと一回家に帰って、晩ご飯を食べてまたみんなが遊んでいるところに戻ったりした経験は一度もなかった。子供は子供で遊ばせていればいいというというわけにもいかなくなって、親が日常的に子供を遊ばせてあげたり、遊ぶためのものを与えたりするようになっていく過渡期に俺は育ったという感じだった。
 けれど、子供は子供と遊ばせておけばいいという時代ではなくなっていったというのは、子供がみんなと集まって遊んでいなくても退屈ではなくなったから、子供を家の中に閉じ込めておけるようになって、それが多数派になってきたから、一日中夜になっても外で遊ばせるというのが非常識ということになってきたということだったりもするのだろう。
 昔は貧乏だと、子供を喜ばせてあげられるような遊びを親が提供することが難しかったというのが大きかったのだろう。昔子供が何か欲しがってもめったに与えなかったのは、我慢を覚えさせるとか、甘やかさないようにという名目だったけれど、実際は、自分が金持ちなら子供にもっといろいろ買って喜ばせてあげられるのになと思いながら、金持ちを羨ましく思ってもしょうがないから、そういうものだと諦めて生きろと教えていただけだったのだろう。だんだんお菓子もおもちゃも気軽に子供に与えられるようになって、ゲームも当たり前になって、近年はお金もかからないからと、録画したアニメや、インターネット動画をいくらでも見せてあげられるようになったし、ゲームだっていくらでもやらせてあげられるようになった。みんな本当は甘やかしたかったから、金持ちでなくてもいくらでも物を与えて甘やかすことができる時代になったことで、世の中の風潮も、甘やかすのが普通であるかのように一気に変わっていったのだろう。もう今では、世の中の風潮として、子供は甘やかしてもいいし、いっぱい遊ばせて、いっぱいほめて、好きにさせてあげるのがいいということになっているし、ほとんどの親たちが何の罪悪感もなしに、買ってあげられる刺激物を次々と買い与えて、喜ばせてあげられている自分にいい気分になるというのを日々楽しんでいるのだろう。
 子供は動画やアニメやゲームを好きになるものだし、お菓子を好きになるものだし、ほめたら喜ぶし、ご褒美をもらえるとうれしくなる。子供は生まれつきそうなるようにできていて、子供が好きになるようなものを差し出し続ければ、それをもっと欲しがるようにして、親からの干渉に慣れっこにさせて、親が餌で釣って子供で遊ぼうとするのに付き合い続けてくれる状態を維持させることができてしまうのだろう。
 子供が小さいうちは、思った通りの反応をさせるために、いくらでもつけ込むことができる。けれど、ほめてくれたりご褒美をくれるからと親の言う通りにして、いろんなものに楽しませてもらって満足しているのでは、すごーいと言っていればいい気になってへらへらしてくれるキャバクラの客のようなものとして、子供をコントロールして楽しんでいるようなものだろう。そういうご褒美ベースの馴れ合いに慣れ親しませてしまうことで、将来キャバクラに行くと楽しくてしょうがないような男とか、キャバクラみたいな対応をしてくれる女のひとをいい女のひとだと思うような男の予備軍を育てているという自覚があるのかなと思う。男はみんなバカだと思ってとりあえずほめておくことしかしないキャバ嬢と自分を大差ない存在だと諦めているから、そういう自分なりにできるかぎり精一杯としてほめているというわけでもないだろう。それなのに息子をすごいと言ってもらうのが好きで、すごいと言ってもらえるだけで気分よくなれるような異様に鈍感な男に育てようとするのはどうしてなんだろうなと思う。
 もちろん、母親たちは自分がやっていることがそういうことだとは思っていないのだろう。みんながやっていることをやっているだけだし、こうしてあげたら喜ぶと思ってやっているし、こうするといいと言われていることの中から、自分の子供が興味を持ったことをやらせてあげていると思っているのだろうし、むしろ、子供の主体性を見守っているつもりだったりするのだろう。
 けれど、小さい子は誰でもアンパンマンを好きになるのだから、アンパンを見せて気に入ったからといって、そこにその子供の主体性なんてないのだ。お菓子を食べさせてみたら好きなようだったとか、果物ジュースを飲ませたら好きなようだったとか、そんな理由でほしがるままにお菓子をあげるのはバカげているし、だったら、小学生高学年くらいになってポルノ的なコンテンツを見せてあげれば夢中になって見るとして、本人の個性とか主体性として好きなんだから、自分の好きを大事にさせてあげたいし、ポルノを存分に楽しめばいいということになるのかということだろう。
 子供が喜ぶからそれをさせてあげているとか、子供が楽しそうだから子供にとっていいことなんだと思うのは、自分のやりたいことを子供のせいにして正当化しているようなやり方なのだ。飼い猫が夢中になるような餌をあげて喜んでいるとか、猫がどうしても反応するおもちゃを使って猫で遊ばせてもらっているのと大差がないのに、相手がそれを好きな自分になりたいと思ってそれを好きになったかのように思っているのは、単純に不誠実だろう。自分が喜ばせたいから喜ぶものをもってきて思ったように喜んでもらって楽しんでいるのだから、そういうことをするたびに、子供がまだ自分らしさを見付けていないひとりの人間になりきる以前の状態だからといって、自分はペットをかわいがるみたいなことをひとりの人間に対してやっているんだなとちゃんと思うべきなのだ。
 けれど、実際はその逆に、世の中では甘やかすことをよくないこととする感覚は衰えて、子供をひたすらかわいがって、子供が望むことなら何でもやらせてあげようとすることは、子供にいいことをしてあげていることだと思われるようになっているのだろう。
 君のお母さんには、私は自分の親と違って子供をいっぱいかわいがってあげるんだという思いが先にあっただろうけれど、そういう思いがなくても、もう世の中の親たちは、そっちの方が楽しそうだからと、どういうつもりもなく、ただ甘やかすことを楽しむことで子育てを楽しむことを当たり前に思っているのだ。子供にとって何がいいことなのかということについては、自分には考えは特に何もないけれど、みんながしているのならそれは悪いことではないだろうからとか、子供がそれを欲しがるからとか、そういういいわけをしながら、いいことをしてあげた気になれることをやらせてもらって、ものを与えるたびに、べたべたとかわいがってあげるたびに、いい親をしてあげられたことに満足しているのだ。
 君が一緒に生きていく、君と歳の近いひとたちというのは、ほとんどのひとが、そういう親に育てられて、甘やかされて、自分の機嫌をとってくれるものを次々に与えられながら生きてきたひとなのだろう。君はみんながそれを普通だと思い込まされた世界で子供時代を過ごすことになる。
 君だって、いつか甘やかされてきた自分に何かを思うのかもしれない。他人から少し放っておかれたり、他人が自分を持ち上げてくれないとなんとなくつまらない気持ちになることに恥を感じるのかもしれないし、そのときには少し母親を憎むのかもしれない。
 もちろん、そんなことになったとしても、かわいがってもらえなかった君のお母さんの方が、はるかに自分の母親を憎んでるんだろうし、そんなことでお母さんをなじったら、何時間も涙ながらに自分がどれだけひどいことをされてきて、他のかわいがってもらっていた子供たちがどれだけ羨ましかったのかという話を聞かされることになるのだろう。
 けれど、そういうことがあったなら、君もそのとき、君のお母さんが自分さえよければいいという感じ方のひとであることがはっきりとわかるのかもしれない。




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