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【連載小説】息子君へ 87 (20 君は思い上がった子供になってしまうんだろうかね-3)

 それだとまるで君のお母さんがバカみたいじゃないかと思っているのかもしれない。けれど、君のお母さんは顔がいいことをいいことだと思っているし、全く何の疑問の余地もなく、かわいいことや格好いいことほど価値のあることはないと思っているのだろうと思う。
 君のお母さんには、そもそも世の中に対して正しいとか間違っているとか、そういうことを考えるような観点はないんだよ。君のお母さんは、自分がそこで何を得て何を楽しめるのかという観点でしか世界を見ていないんだ。それはほとんど生まれつきのようなものだったのかもしれないけれど、そうだとしても、それ以上に育ち方の問題が大きかったのだと思う。
 君のお母さんは自分のお母さんに嫌なことをたくさんされながら育ってきたらしい。母親が自分のことばかりで、かわいがってもらえなかったし、自分が嫌がることをたくさんされて、自分が楽しみにしていたことをたくさん邪魔されたし、生活の面でもお金の面でも家族みんなが迷惑をかけられ続けてきたと言っていた。そこには、あのひとにたくさん邪魔されたせいで、私は人生でかなり大きな損をさせられたというようなニュアンスがあった。
 君のお母さんは、小さい頃、自分が他の子供たちのようにお母さんからかわいがってもらえないことに、どれほど傷付いていたんだろうと思う。気分次第で理不尽に攻撃されて、楽しそうにしていると邪魔されて、お願いもきまぐれに拒否されてきたのだろうし、約束していたことも無数に反故にされていたのだろう。のびのびとさせてもらえなくて、また嫌なことをされるといつも緊張を強いられたままで、ずっと不安定な状態で子供時代を過ごすことになったのだろう。
 君のお母さんは、ケチを付けられてばかりの自分と比べて、いろんなものを与えられて、いろんなところに連れていってもらえて、ちょっとしたことでかわいいねとほめてもらっている他の子たちが心底羨ましくてしょうがなかったのだろうと思う。自分だって、かわいがってもらえていたら、あんなにめちゃくちゃな子供時代じゃなくて、もうちょっとはかわいい女の子として育つことができたかもしれないと思っていたのだろうし、してもいいのならしたかったことがたくさんあったのにとも思っていたのだろうし、自分はいろんなことをたくさん親に邪魔されてきたと思っていたのだと思う。
 子供時代というのは、多くのひとの場合、母親がいつでも大事に自分を扱ってくれることで、いろんな悲しいことや辛いことに傷付きすぎてしまわないで、自尊心を守りながらだんだんと世界に慣れていく時期になるのだろう。家の外の世界が自分の思い通りにならないことばかりで、自分が尊重されるわけでもなく、たくさん傷付くことがあっても、母親からはいつでも大事に扱われていて、母親との関係では安心して素直な気持ちで甘えられることで、外の世界で傷付けられた心を癒やすことができて、否定されて壊されかかった自尊心を回復させられるのだろう。
 君のお母さんは母親からそういうものを拒否されて、自分がやったことを母親からけなされるのから逃げ続けなくてはいけなかった。そして、親からもらえない愛情や承認を、他人に働きかけて、すごいと言ってもらうことで満たそうとずっと頑張ってきたのだと思う。
 君のお母さんの人生は、自分の人生に欠乏しているものや、奪われているものが明白だったことで、親に愛されたひとたちよりもシンプルなものになったのだろう。親への怒りを抑え込みながら、親に振り回されることに適応して、親を出し抜いて楽しいことを自分で確保して、親の手の届かないところで楽しいことをたくさんして、親がいくら邪魔しようと自分が楽しく生きることで、ざまあみろと言ってやるために生きてきたのだと思う。
 それはひどい母親と一緒に暮らしている間の話というわけでもないんだよ。母親がひどかったからそうなったのかもしれないけれど、君のお母さんは空気を読むのが苦手な直情径行なひとに育ってしまった。頑張っていっぱい楽しいことをしたし、いっぱいいい思い出は残っているのだろうけれど、楽しくやろうとするばかりになってしまったのだろうし、自分らしい自分を愛してくれる仲間との安らかな日々を過ごせたりすることで、母親への恨みを過去のことに思えるようになったりはしなくて、もっと愛されて、もっと認められてもいいはずなのにという欠乏感から抜け出せないままの人生になってしまったのだと思う。
 君のお母さんは、六本木の会社ではかなりおとなしくしていたつもりだろうけれど、それでも会社のひとたちからは、あのひとは自己顕示欲がけっこうすごいよねと言われているようなひとだった。ほめてほしいという感情があまりにも強くて、他のひとの仕事の話をしていても、自分も何のときにどうしたとか、自分がやったことに結びつけて話してしまうのが我慢できないようで、ちゃんとやってくれているのはわかるけれど、今はそんな話はしてなかったんだし、いくらなんでもほめられたさすぎなんじゃないかとみんなが引っかかるくらいには、そういう気持ちでちょくちょくぼろを出すひとではあったんだ。
 けれど、君のお母さんからすれば、年に一回か二回くらい、飲み会で何かの話の流れで、苦笑いされながら、アピール強いよねと言われても、それの何が悪いんだろうと思っていたのだろう。認めてもらえたり、ほめてもらえることこそがやりがいだし、どうしたらもっとほめてもらえるのかと思いながら頑張っているのだから、自分の頑張りに気付いてほしいのは当たり前じゃないかと思っていたのだろう。
 人生の初期にどれくらい欠乏感にさらされてきたのかということによって、そのひとの心と欲望との距離感のようなものが形成されていくということなのだろう。どんなふうに生きてきたからどんなふうに感じるという、知識以前の心の動き方みたいなものが、俺と君のお母さんではあまりにも違っていたりするんだ。君のお母さんからすれば、欲望を満たすことで自分を満足させるということが生きることなのだろうけれど、俺からすると、自分がどう生きたいとか、もっとどんなふうにやっていきたいと思っていることの足を引っ張ったり、背を押したりしてくるような、よくも悪くも感情を加速させるようなものとして自分につきまとってくるものが欲望だったりする。
 ものごころついて以降だと、俺は何が欲しいとか、何ができたらいいのになとか、そういうこともあまり一生懸命考えていなかったような気がする。欲しいものはあったと思うけれど、手に入らないならすぐに諦めて、別になくていいと思って、何の不満もなかった。
 俺はかなり多くの時間を親と一緒に過ごしてもらっていたし、大事にしてもらっていたし、まともに相手をしてもらっていたし、満たされない思いを持つことなく育った。それは自分の生活の中に解決するべきことや、変わってほしいことがなかったということでもあるのだろう。すでに幸せだったから、何があればもっと自分は幸せになれるのにと思う余地がなかったのだ。もっと漫画を読みたかったり、もっとゲームがしたかったかもしれないけれど、すでに幸せに暮らしていたから、漫画が読みたいなと思ったけれど、別に買ってもらえなくても全然悲しくもならなかったし、他のことをしていればそういう気持ちも通り過ぎて、別に読まなくてもよかったんだなと思うことになって、自分の欲求を軽視する方向にばかり人生経験を積んでいくことになったのだろう。落ち着きのない子供ではあったけれど、別に何がなくてもいいというか、何かできればいいだけで、欲しいものはなかったし、みんながもっと自分にどうしてほしいという気持ちもほとんどなかったのだと思う。
 別に俺は抑圧されていたわけではなかったのだと思う。たくさん旅行に連れて行ってもらったり、美味しいものもたくさん食べさせてもらっていたし、みっともなくない服も着せてもらっていたし、俺自身、大人になってから、買ってもいいかと思ったら、なくていいものでも買ったりしていたし、全く倹約家みたいな感じにもならなかった。人付き合いということでも、仲良くなれたひととも楽しい時間を過ごしたし、人並み以上に、思っていることをそのまま話せるひとと、思ったままのことを話し合えるような時間を過ごしてきたのだと思う。
 けれど、欲望が小さいというか、欲望が満たされることに喜びが小さい人間になってしまったというのはあるのかもしれない。金がもっと欲しいと思ったことがないし、給料とかボーナスを貰ってうれしかったこともなかったし、ものを買ってそこまでうれしかった経験もなかった。自分から誰かと仲良くなろうとすることがめったになかったし、誰かにほめてもらったりしたときにあまりうれしいと思うこともなかった。
 俺の場合、何かが欲しいという気持ちを原動力にするような回路が自分の中にうまく形成されないままになってしまった感じなのだろう。実際、ただ自分らしくありさえすればいいと思っていて、何かを獲得していくのが人生だというような感覚は全くなかったりする。何かを手に入れたからといって与えられるもので充分に楽しくやっていられているんだから、あれもこれもと欲しがる必要はなくて、楽しいことは勝手にいろいろやってくるんだから、それを楽しんでいればいいんだとか、そんな感覚でやってきたのだろう。
 俺からすれば、君のお母さんのほめられたいという気持ちをベースにしたかのような人格のあり方は、わけがわからないものだったりする。けれど、君のお母さんからすれば、俺の方こそわけがわからないのだろう。君のお母さんにとっては、自分の人生に欠けているものははっきりしていて、それは愛されることだったり、ほめられることだったり、かわいがってもらうことだった。けれど、それはどうしたって親からはもらえなくて、だから、かわいいひとになりたかったし、それが難しいから面白いひとになりたかったし、そのためにいろんなことを頑張ってきたのだ。
 君のお母さんは復讐心をベースに生きてきたのだ。それは幸せになってやるという復讐だった。そのために、みんなにほめられたかったのだし、みんなに認められてほめられることの一番すごいことが、君のお母さんにとっては、かわいいひととして扱われることであり、かわいいと言われることだったのだ。女のひとたちの集団の価値観がそういうものなのだから、どうしたってそう思うようになるしかなかったのだろう。そして、君のお母さんの場合、それなりに顔がきれいだったのと、ずっとがむしゃらに自分の中で頑張り続けることができてしまったことで、まわりを見て自分はこんなものかとなんとなく諦めがつくタイミングがいつまでもやってこなくて、ずっとかわいいと言われたくてしょうがないのが続いてしまったという感じだったのだろう。
 そんな君のお母さんが、君をかわいがってあげたいということに、どれほどのモチベーションがあるのかということなんだ。それはほとんど復讐心のようなものなんだ。君を見守りながら、どんなお母さんになってあげられるだろうと思うたびに、自分の母親を思い出してしまうのだろう。ひどいことをされた恨みを晴らしたいという気持ちでいっぱいになって、君には自分が母親にされたのと真逆にしようとするのだろう。
 自分がいい母親で、子供をかわいがって、子供にも好かれるということが、君のお母さんにとっては、自分の母親への復讐になるんだ。自分がいい母親になって、子供にいい子供時代を過ごしてもらうことで、ひどい親に邪魔をされた自分の子供時代を上書きしてしまいたいのだと思う。そうすれば、自分はいいひとだったのに、母親だけが嫌なひとだったということにできるのだ。だから君のお母さんは、君をかわいがりすぎて、いろんなものを与えすぎて、ほめすぎてしまうことになるんだ。
 自分がダメな親に育てられたのに、どうして自分はまた別の種類のダメな親になってしまうんだと嘆かわしく思うのかもしれない。けれど、やっぱりそれも同じで、君のお母さんは、正しいとか間違っているとか、そういうことを考えないからなんだ。
 君のお母さんは親から嫌なことをされたと思っているし、自分は子供には嫌なことをしないようにしようとは思っているだろうけれど、逆に言えば、それしか思っていなくて、子供にとって親がどういう存在であるのが幸せなのかということを考えたりはしないのだと思う。そういうことを考えていないだけでなく、本人はあれもしてあげたい、これもしてあげたいと、すでに充分子供のことを考えた気でいるから、子供に接していて、自分の接し方に問題があるんじゃないかと自分で疑問を持つことはほとんどありえないくらいに難しいのだろう。
 嫌なことはせずにいいことをするという以外には何も考えていないのなら、一つルールが追加されただけで、それ以外は子供に対して自分がやりたいことをやりたいようにやってしまっていいと思っているということだろう。そして、君のお母さんは実際にそうしてしまうのだ。君のお母さんが自分のしてあげたいことに延々子供を付き合わせて、子供のものの感じ方を歪めてしまうような母親になってしまうのは、君のお母さんがどういうひとなのかということを考えれば、どうしてもそうなるしかなかったようなことですらあるのだと思う。
 よくないことをされたひとが、それを反面教師にしても、また別のよくないことをひとにやってしまうというのはよくあることなのだろう。それは仕組みとしては、ずっと貧乏だったひとが、金があるというのはとにかく無条件にとんでもなく素晴らしいことだと思っていて、金が手に入ったら、金が入ったことをできるかぎり満喫できるものを買って身に付けたいと、成金趣味になってしまうのと同じようなことなのだろう。
 金持ちが金を使っていろいろしているのを間近で見せびらかされながら、そういうひとたちにどうしようもなく憧れていたようなひとたちは、もしもお金があったならという妄想にふとするたびに浸っていたりするのだろう。それと同じように、君のお母さんは、かわいい子たちや、かわいい子がするようなことを親にさせてもらっている子たちを見ながら、羨ましくてしょうがない気持ちでいっぱいになっていたのだ。
 君のお母さんはそうやって生きてきたわけで、君のお母さんが君をかわいがりすぎてしまうのは、仕方のないことなんだ。それは復讐のようなものだから、どうしたって底なしのしつこさで延々と君をかわいがろうとすることになるのだろう。
 けれど、君のお母さんがそんなふうになってしまうことは仕方がないことだとしても、だからって、かわいいいかわいいと君に言い続けて、君を思い上がった子供にするのはよくないことなんだ。君がまるっきり君のお母さんにそっくりな気質で生まれてきているのなら、それによって失われるものは特にないのかもしれない。けれど、君は俺の子供で、俺はそんなふうには育てられなかった。俺はそんなふうに俺を育てなかったひとの子供だし、君はその俺の子供なんだ。
 君のお母さんはかわいいとほめられたかった。だから、君のことをかわいいでほめてあげたいのだろう。俺の母親は、かわいいとほめてブスをバカにする世の中を嫌なものだと思っていた。だから、俺のことをかわいいと言わなかった。俺の母親は世界の不当さを少しだけでも遠ざけてあげようとして、君のお母さんは世界をできるかぎり楽しもうとしているということでもあるのだろう。
 きっと、俺の母親は、ものごころがついて以降、かわいいと言われたいと思ったことが一度もなかったひとだったのだろうと思う。人生を通して、ただひたすらにブスだとバカにされることを不快に思い続けていただけだったのだろう。そして、それは家の中の問題ではなかった。自分の母親も姉もブサイクで、俺の母親は姉と違って母親に似ず、頭がよくないことで出来が悪い子供扱いされながら育った。母親にひどいことをされたわけではなく、母親のことも好きだったけれど、もっと自分のこともお姉ちゃんのようにほめてほしいし、もっと自分にもかまってほしいという気持ちを持ち続けていたのだと思う。そして、俺の母親はそれでも自分なりに頑張っていたのだと思う。姉は絵画も上手くて、きっと俺の母親は絵はダメだと思ったのだろうけれど、書道をやって、それなりに上達して、社会人になっても少し続けて、展覧会に出したりもしていたらしい。勉強はさほど打ち込めないまま、栄養系の短大に行ったけれど、ブサイクなりにおしゃれで面白いひとになろうと前向きにやってきて、ずっとブサイク扱いにうんざりはしながらも、仕事もそれなりに打ち込んで、仕事の仲間とはずっといい関係でやってこれたのだろう。
 俺はそういうひとに育てられた。君のお母さんと違って、俺は親から何も奪われなかったし、何の邪魔もされなかった。俺の母親がそうされたように、えこひいきされることもなかった。大差はなかったとはいえ、俺の方が弟よりも勉強ができた感じだったけれど、それについて俺を持ち上げたり、弟を下げたりすることはなかった。俺が何かをできたり、何の賞をもらっても、やったからできたねというだけでしかなかった。見た目のこともそうで、徹底的に見た目のことでいいとかよくないということを言わなかった。それによって、俺は自分の見た目のことを全く気にしない子供になったし、誰かがかわいいとか格好いいと言われるために媚びている姿をわざとらしいと感じる子供になれた。そして、母親からすれば予期しないことだったろうけれど、俺は母親に似ずに生んでくれたおかげで、母親と違って容姿のことで勝手に他人から低く見られて悲しむこともなかった。
 俺は自分の見た目について、劣等感とか無力感みたいなものを感じた経験があったんだろうかと思う。そういう意味では、共稼ぎをしてくれていて、私学の男子校にいかせてくれたおかげでもあるのだろう。中学とか高校が共学だったなら、絶対にいろんなことをたくさん思って、たくさん悲しい気持ちになったのだろうと思う。けれど、俺は自分のダサさに傷付くことなくその時期をやり過ごした。そして、大学生になった頃には、おしゃれさは全くなかったけれど、比較的顔の整った、あまりおどおどすることのないマイペースな男になっていた。
 女のひとたちに対しての引け目のようなものもなかったし、男同士でも、かなり格好いい男のひとと一緒にいてあれこれしていたことも何度もあったけれど、きれいな顔だなとか、格好よさに迫力があるなと感じたりはしても、やっぱり劣等感のようなものはなかった。何かのプロジェクトについて話し合いをしていて、自分よりいい意見をどんどん出しているひとがその場にいたりするときなら、自分ももっと何か言えないんだろうかと思ったりはしていた。けれど、容姿のことではそんな気持ちにはならなかった。俺はそもそも格好いいひと枠でその場にいるつもりもなかったし、そもそも自分のことを格好いいとも思っていなかったのだ。
 俺はそれを本当によかったなと思っているんだ。そんなふうに自分の見た目について無頓着な十八歳として実家を出られる状態にしてくれたのは、本当に母親に感謝しないといけないことなんだなと思っている。
 自分の容姿を相手がどう評価してくれていそうなのかをいつも気にしながら生きていたっていいことなんて何もないだろう。女のひとだと、あまりにもみんなが自分の見た目に応じた接し方をしてくるから、自覚がないと相手の接し方と噛み合わない応対をするばかりになるし、それはそれで嫌味に思われたりもするのだろうけれど、君は男なんだから、他人に勝手に好きなことを思わせておけばいいんだ。どうせこのひとも自分の見た目のことを直接的なり遠回しに何か言ってくるののだろうとか、またどういう扱いを受けるのだろうというのを感じ取って、先回りしてそういうつもりでひとに接するメリットなんて何一つないんだ。
 それなのに、俺の母親とは違って、君のお母さんは、君にかわいいかわいいと言い続けて君を育ててしまう。それを思ったときに、俺がどれだけ苦々しい気持ちになっているのか、少しはわかってくれたんじゃないかと思う。




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