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自分の見た目に目の前の人が喜んでいることにもうしわけない気持ちになるのはやりすぎ

(こちらの記事の続きとなります)

世の中の母親が自分の息子の見た目に執着すること自体は、仕方がないことなのだと思う。

かわいいからとかわいがりすぎることには問題があるのだろうけれど、息子の見た目を好きで、ちょくちょく顔がかわいいねとか格好いいねと話しかけたとしても、それくらいのことは何の問題もないのだろう。

ひとを喜ばせられる能力が高いことは、みんなすごいと思ってあげればいいし、すごさを語り合えばいいし、特別すごいひとがいたのなら、特別扱いしてあげればいいだろうと思う。

誰かの作った料理はとても美味しくて、別の誰かの作ったものも美味しくはあるけれど、比べるとどうしても差があるというように、みんなそれぞれに魅力的なひとばかりが集まっている場所であっても、誰かの姿を見たときに、美しさやかわいさに気分をよくさせられてしまう度合いはひとりひとりで全く違ってしまう。

いろんな食べ物を食べて、いろんな美味しさのあり方を知っていって、バランスが崩れたような失敗した料理でなければ、それぞれに面白みを感じて楽しく食べられるようになったとしても、料理人の食べさせたいイメージが心地よく実現されたものには、面白いなと思って夢中になって食べてしまったり、いい材料をいい状態に心地よい調理を加えられているものには美味しさの強烈さに感動してしまったりする。

それと同じように、徹底的に嫌なやつ以外、みんなをそれぞれ魅力的だと思えるようになったとしても、ひとがたくさんいる中で浮き上がっているように目が引きつけられるような美しいひとはいるし、どれくらいかわいいということではなく、自分にとって特別にかわいい相手に目を引きつけられてどきどきするということもあるのだ。

美味しいものが食べたかったときに、出されたものが美味しくなくてがっかりすることを禁じる必要はないはずだろう。

それと同じように、かわいいひとに会えるかもしれないと合コンに来て、かわいいと思えるひとがいなかったからがっかりするのも、勝手にすればいいことだろう。

そのうえで、相手を傷付けようとしたり、相手のやっていることを価値のないことのように扱おうとしなければいいだけなのだと思う。

美味しくないもの差別をして、美味しく作ることのできるひとのように作れないからといって、バカにするのはよくないのだろう。

けれど、美味しい店ばかりもてはやされるのは差別だと、美味しいとか美味しくないということで評価するのはやめて、美味しくない店も美味しい店と同じように楽しむべきだと主張するのはおかしな話だろう。

料理店であれば、訓練によって味覚が定型的に発達している多くのひとが美味しく感じるものを作れるようになっていけるはずなのだから、努力の問題なのだし、そもそもそれは差別ではないといえるのかもしれない。

それならば、農家のひとたちの中で、美味しい米や野菜を作ることができるかどうかということでもいいのだろう。

親から引き継いだ農地がひどく傷んだ土地で、だんだんと改善していこうとはしていても、まだまだ何年も大量に薬品を使わないと虫とか病気を抑えられない状態が続きそうだとか、隣接した他の農家の農法の影響もあるから、自分の土地だけで地質の改善に取り組んでもうまくいかないとか、そういう状況のひとが自分の土地なりに努力して作った野菜が、どうしても特別美味しい野菜ほどは美味しくならないということもある。

そういう状況のひともいるのだし、もっと美味しい野菜を作っているひとがたくさんいるのにあまり美味しくない野菜を作っていて恥ずかしくないのかと攻撃するようなことはおかしいだろう。

努力したって、いろいろ野菜がある中で特に美味しい野菜だと思ってもらえるような野菜を作ることのできる可能性がない状況にいるひともある。

ちょっとずつだんだんよくしていくしかないし、それでも上限はあるうえで、善処していても、それほど味をほめてもらえることがない農家生活を送っているひとたちもいるのだ。

そして、だからといって、お百姓さんが一生懸命作ってくれたものなんだから、美味しいとか美味しくないとかじゃなく感謝していただきなさいという言い方しか許されないというのはバカげているのだろう。

どこかで食べた野菜に、この野菜はとても美味しいなと感じたなら、野菜自体が美味しいと料理の美味しさもまた別の心地よさがあるなと思っていればいいし、都会で安く売られている野菜がどれほど味や香りが希薄なのかということに何かを思っていてもいいのだ。

いろんなものがある中で、特に心地よい感触がするものはあるし、そこそこいい感触がするものもあるし、特にうれしくなるようなものは感じないものもある。

それはちゃんとそれぞれの感触を感じて、いい感触があるものをいいものだなと思っていればいい。

楽しめるかもしれないと期待していたときには、いい感触がしないことにつまらない気分になることもあるかもしれない。

それだって、自分がどんなふうにがっかりしているのか、自分でじっくり確かめていればいいのだろう。

けれど、そういうときに、もっとすごいひとがいるのにお前は何なんだというような勘違いしたロジックで相手を責めるのはおかしなことなのだというのはわかっていないといけない。

自分がそのよさをわかっていないだけなのかもしれないし、何かと比べることで相手を貶めてもしょうがないのだ。

けれど、何についても同じで、いいものは自分の気分をよくしてくれて、それに比べれば、さほどいいわけではないものにはたいしてうれしい気持ちにもなってあげられないのは本当のことなのだ。

だから、その時点でしっかり感じてみてそう思ったのなら、それに引け目は感じる必要はないし、堂々とうれしくなったりがっかりしていればいいのだ。

見た目のことなんて気にしてはいけないと思うことはないのだ。

それぞれが自分がそうあれるといいなと思うように、格好よくあろうとすればいいだけなのだ。

見た目を含めた自分として、いいやつになるべきで、ぱっと見ていいやつに思われるような、自分らしい見た目をしたひとという意味で、見た目のいいやつになるべきなんだ。

そのひとが愛されるときには、見た目ごとでしか愛されない。

だからこそ、自分の見た目を自分だと思っていないといけない。

何もかもが見た目にあらわれるのだから、その人は、どうしたって見た目通りのひとになってしまう。

他人の気持ちの動きを感じ取れているひとからすれば、見た目だって気持ちの動きとセットでしか受け取れないのだし、そもそも自分の見た目を取り繕うことなんてできないんだ。

自分らしくあればよくて、そうなれた結果として格好よくなれるのなら、格好よくなれるのがいいのだし、それが人生なのだ。

歳を取ってダサいおじさんになってしまうのなら、それはそのひとがそういう人生だったということだろう。

その人がいいやつになるほど、その人はいい見た目になる。

他人のことだってそう見ていればいいんだ。

そして、他人をそんなふうに見ていられるために、わざとらしく格好つけたり、わざとらしくかわいいぶっているひとたちのことは、自分とは関係のないひとたちだと思って無視していればいい。

それでもあなたの目は、誰かが何かをしている姿に自然と引き寄せられる。

そのひとを見ていて伝わってくるそのひとの気持ちの動き方に、いいひとだなとか、素敵なひとだなと思っていればいいし、そのひとらしい表情が動いているそのひとの顔を、いい顔だなと思っていればいいのだ。

そうやってちゃんとじっくりとそのひとのことを感じようとするのなら、見た目でひとを好きになっていても何も問題はないのだ。

ひとをブス扱いすることはいじめでしかないのだろうし、生まれつきの見た目のことで、自分の価値が低いかのように思ったりするのは間違っているのだろう。

だからといって、見た目のことをとやかく言ったり、見た目のことをこだわっているのはみっともないとか、内面ではなく外見でひとを判断したり好きになったりするのはおかしいだとか、そういうことを言うのもバカげているんだ。

もちろん、モテたくて仕方なくて、やるとモテそうなことをいろいろ探してきて次々にやろうとしたりとか、とてつもない手間をかけて、もとの顔とあまりにも印象が変わるように化粧するのを習慣にしていたり、少しでも若く見られたくて、アンチエイジング関連の商品を調べていろいろ試すことに夢中になるようなことはバカげているのだろう。

けれど、先輩が格好いいなと思って、自分ももっといい顔ができるようになりたいと思って、先輩くらい頑張ろうと思ったり、自分が不健康な生活をしているせいで不健康さがにじみ出た見た目になっているのをよくないなと思うようになって、顔色をよくしたいなとか、お腹が出ていない方がいいなと思ったり、髪の毛がもっとつやがあったはずだけどきれいに戻らないかなとか、そういうことを思って、何かを気を付けてみたり、何かを頑張ってみたりして、そして、自分が前より少しきれいになったように感じたら、それはうれしいことだろう。

そして、それによって自分に対しての他のひとの態度がよいものに変わったなら、そうできてよかったなと心から思えるのだろう。

見た目でひとを判断してはいけないという言葉は、他人のわざとらしさをわざとらしさと感じられないようなひとに向けた言葉なのだ。

そうならないひとの場合は、自分は見た目でひとを判断しても大丈夫だと思っていればいい。

そのひとの顔の作りより、そのひとの気持ちの動きにばかり意識がいくようなひとにとっては、そのひとの顔の印象は、そのひとの人格への印象から切り離しては発生しない。

気持ちを感じ取れるひとからすれば、そのひとがまわりからかわいいとか格好いいと思われているらしいということはその場にいればわかるけれど、そのひとへの印象は自分がそのひとを見ていてどう感じるのかからしか受け取りようがないのだ。

わざとらしいなとか、こぎれいにしているけれど話すとびっくりするくらいみんなが言うようなことしか言わないひとなんだろうなとか、一部のひと以外にはすごくしらけた態度で接するひとだなとか、そういう人格への印象が先にあって、そういう印象にあてはまる瞬間の表情を中心にそのひとを見ることになるのだから、顔がどういうタイプなのかということに反応して、ただきれいだとか、ただ格好いいという印象を他人に持つことがそもそもないのだ。

ひとの顔を見てすぐにかわいいとかかっこいいと思って、そこからは自分の頭の中で妄想がスタートして、それ以上にそのひとの内面を感じ取ろうとすることもなく、勝手なことばかり思っているようなひとがたくさんいるだろう。

そういうひとは、実際に関わるまでは、そのひとがどんなひとなのかということをほとんどまともに感じ取ることもないのだろうし、見た感じどういうタイプらしいというところから、みんなの噂話をベースにそのひとをどういうひとなんだろうと思いながら、見た目とか喋り方だけを切り取って、それをイメージとして好き勝手に消費するのだろう。

けれど、発達障害とか愛着障害でもなければ、多くのひとは、脳の働き的に、そのひとの内面性を感じないまま人間が何かをしている姿を眺めているということ自体がありえないはずなのだ。

もちろん、そういう気質に生まれついたとしても、時代が違うのだし、ひとの気持ちの動き方の違いよりも、外見の違いの方がそのひとらしさに感じられてしまうのかもしれない。

時代が変わって、子供たちの精神生活の内容が均質化したというのもあるのだ。

インターネット普及以前の文化度の低い庶民の子供なら、自分が何も知らないことに何の恥も感じずに、何も知らないからこそ無邪気に自分の思いつきを楽しんでいられたけれど、今の若い世代はそういうわけにはいかないのだろう。

みんなが同じようなコンテンツを消費して、なぞるべきモデルが明白で、あらゆる局面でどういう振る舞いを選ぶのか正解なのかがわかっているような状況になってしまったのだ。

みんな楽しくしなくてはいけないといつでもうっすら強迫されているから、他人をじっくり感じる余裕もないし、ひとの話も長いと聞いていられなくなって、みんなひとそれぞれに自分らしいということを実感する瞬間も生活の中に少なくなってしまっているのだろう。

そして、自分のことにしたって、自分はまるっきりみんなが好きなものしか好きじゃないし、みんなが知っているようなことしか知らないということをはっきり自覚させられる日々なのだろうし、自分の行動や思うことに自分らしさを感じたりすることも少なくなっているのだろう。

そうすると、外見の方がまだ他人と違いがあって、内面はみんなと同じただの消費者でしかないというような気持ちになってくるのだろう。

だからこそ、みんながみんな、自分の見た目のことを気にするようになって、話題についていけるようにするだけではなく、見た目でバカにされないようにと、最低限やっておくべき見た目を整える作業をやるようになっているのだろう。

そして、そうやって見た目すら似たようなものになっていったうえでも、それでも、やっていることや言っていることに比べれば、まだ見た目のほうが自分とみんなに違いがあるのだ。

そうやって、同じようなことをやって、同じようなことばかりを言ってみんなで一緒に笑うということを繰り返すほどに、むしろ見た目の違いしか目に入らないような感じ方になっていって、自分の見た目のことや他人の見た目のことでうれしくなろうとしたりバカにしようとしたりするばかりの感じ方になっていってしまうというのもあるのだろう。

誰もがそういう世の中の全体的な流れに押し流されていくしかないのかもしれない。

そういう流れに押し流されてしまわないためには、他人の気持ちをじっくり感じて、ひとの話もゆっくり聞いて、長々とした話をできるような友達を作って、そういうひとたちと過ごす時間こそが自分の人生だと思って置くということが必要なのだろう。

ゆっくりと気持ちを感じ合えないひとたちとは、楽しくやればいいけれど、そういうひとたちに合わせて自分を変えてまで何かをする必要はないのだ。

他人をじっくり見て、いいなと思ったら、そのひとの見た目をいいと思っていればいいし、誰かがじっと見てきて、自分の中身を感じ取ってくれて、いいひとだなと思ってくれたなら、それをうれしく思っていればいい。

自分の見た目が自分にとってしっくりくるものになっていくように、わざとらしいことをしないように、自分らしく格好よくなれるといいなと思っているだけでいいんだ。

そして、そういう意味での見た目のよさとして、見た目がいいと思われることをいいことだと思っていればいいし、他人を見るときでも、見た感じがいいなと思ったら、自分が見た目がいいと思ったんだから、きっとそのひとはいい感じのひとなんだろうと当たり前のように思っていればいいなんだ。


(続き)


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