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自称ブサイクやお腹の出たひとともかわいいと思ってやってきた男にとって世間のルッキズムはただ邪魔なだけなもの

早く世の中からルッキズムが薄れていってくれるといいなと思う。

特定の容姿の権威化というか、今イケているとされている顔に似た感じだといい顔で、今イケているとされている体型だといい体型だという思い方が早く人々から薄れていくといいなと思う。

イケていないとされるタイプの顔や体型のひとはイケていないひととして扱っていいかのように思われている状況は変わるべきだというのがルッキズム批判なのだろうけれど、それは本当にいくら批判されても足りないものなのだろう。

ブスだとかデブだとかと軽視されたり、冷たく扱われたりすることがなくなったとすれば、他の理由をでっちあげられていじめられるひとはたくさん残るにしても、多くの人の傷付けられる量を大きく減らすことができるのだろう。

傷付けられる量が減れば、もっと気を楽にして生きていけるし、もっといろんなことを素直に楽しめる生活ができて、そのひとはぼろぼろにならずにすんで、気持ちの見える無邪気な笑顔をこぼせたりするようになるのかもしれない。

そうすれば、多少顔の作りにアンバランスなところがあったりしても、かわいいところのあるひとだとまわりのひとは認知するようになって、本人もみんなから排除されていると感じずに生活できるようになっていくのだろう。

ブサイクなことに変わりがなくても、容姿のことで気軽にいじめられなくなるだけで、何もかもが変わるケースはたくさんあるのだと思う。

俺のような、顔の作りが多くの男からしたときにブス寄りに思われるひととも、ブスだなんて思わずに、かわいいなと思いながらセックスしていたひとからすれば、それだけで世の中にかわいいひとがたくさん増えるのだし、一刻も早く、容姿のことでひとを傷付けて楽しむことが許されない世の中になってほしいとしか思いようがないのだ。

俺がかわいいと思っていた顔の作りが整っていなかったひとたちの多くは、人生を振り返ったなら、ブスと言われたことも何度もあって、そのつど深く傷付いてきて、けれど、いい友達とか仲間がいたり、いい職場で働けていて、ぼろぼろになりすぎずにそれなりに楽しくやれているひとだったのだろうと思う。

ぼろぼろにされてしまわないでいられたら、被害者意識とか損得勘定で頭が埋め尽くされていなくて、他人に向かって素直な気持ちで笑える瞬間が残っているようなひとたちは、みんなそれぞれにかわいいはずなのだ。

そこにいるひとたちの中に傷付けられすぎたひとが多いほど、その景色は汚されてしまった不快なものになる。

悪意と、悪意によって破壊されたままになっているものは、なるべく視界に入ってほしくないものなのだ。

かわいそうとかではなく、自分が生きていて目障りだという意味で、いじめられてバカにされ続けて軽視され続けてぼろぼろにされてしまうひとがひとりでも少なくなってほしいなと思う。

バカにされるようなことをしないかぎりバカにされなければ、みんなもっとまともな顔で生きていけるのだ。

その場その場で、自分が何をどの程度できるのかということに応じて、みんなから評価されたり軽視されたりするのだって、自分が最初からダメなやつだと無視されているわけではなく、自分にできることをそれなりに発揮できたうえで軽視されているのなら、自分はそうなんだなと恨みの気持ちもなく受け入れられるのだろう。

そうしたら、みんな自分がしっくりくるものを探しながら生活して、自分にとしっくりくるひとたちと楽しくやりながら、楽しいときに楽しいという気持ちだけで、そのひとらしさが垣間見えるような顔で笑っていられるようになるのだろう。

そして、そうやって笑えているひとは、みんなそれぞれに美しいものを感じさせてくれるのだろうと思う。

人間の他人を前にしたときの相手からの印象の受け取り方が外見至上主義的なのは未来永劫変わらないとしても、差別問題としてのルッキズムが改善していったなら、世の中はずいぶんよくなるのだろうと思う。

もちろん、それはいじめが減るというだけで、平等なんて実現されないし、相手の見た目によって人々が脳内に発生させるオキシトシンの量は違っているのは変わらないし、見た目によって集団内での見た目の良し悪しの序列が作られてみんながなんとなくそれを共有している状況も変わらないのだろう。

そもそも、デブだとかブサイクだとか、そういう言葉でいじめられることがなくなったからといって、そのひとがデブだったりブサイクだったりすることには変わりがないのだ。

いい顔で笑うひとだし、デブだけどブサイクじゃないと思ってもらえるのかもしれないけれど、表情がよくなってもブサイクだなと思われるひとはたくさん残るのだろう。

直接的にルッキズム的な暴力を受けることがなくなったからといって、人間は見た目が全てなのだし、みんな見た目から感じるものでそのひとを扱うし、外見至上主義的な序列の中で劣位に置かれるのには変わりなくて、ただいじめられないようになるだけだったりはする。

ダサくてもいじめられたり攻撃されたりしないということだと、見た目があまりよくないおじさんが今感じているくらいの屈辱レベルにまでは下がるということなのかもしれない。

おじさんたちというのは、さほどはっきりと見た目でバカにされる経験もしてこなかったから、誰からも格好いいとは思われていないのはわかったうえで、特に自分の見た目にコンプレックスがなかったりする場合も多いのだろう。

もちろん、コンプレックスがないだけで、まわりからは、見た目もよくないし、自分勝手で性格もよくないし、話も面白くなくて、みんなそのおじさんが独身のままであることに、そりゃそうだろうと思っていたりする。

けれど、おじさんは見た目のことで日々傷付いてストレスでぼろぼろになっているわけでもないから、仲のいいおじさんと趣味をしているときは子供っぽく楽しそうに笑っていて、それを見るひとたちも、あのおじさんもそんなに嫌なひとというわけでもないんだろうなとは思えていたりする場合が多かったりするのだろう。

見た目のことでいじめられないなら、みんな見た目が悪かったとしても、それくらいの状態にはなれるのかもしれない。

しばらく前まで、男たちの中で、自分の見た目のことをあれこれ気にしているひとは一部だけだった。

男前は男前として扱われていたし、おしゃれなひともそう認知されてはいたけれど、それ以外のひとたちの多くは、ブサイクなひとも、ダサいひとも、キモいひとも、よっぽどでなければ、自分のことをブサイクだとかダサいとかキモいと思ったりしていなかったんじゃないかと思う。

男の場合、ブサイクの上位一〇パーセントくらいがルッキズム的いじりの対象になっていたのに対して、女のひとの場合、女集団ではブサイク上位一〇パーセントくらいで、男女混合の集団では、ブサイク上位四〇パーセントがルッキズム的いじりの対象になっていた感じなのだろう。

よほどでなければ、男は気にしたくなければ、自分の容姿を気にしなくてすんでいた。

容姿による差別がなくなっていったときには、女のひとも、そういう昔の男たちと同じような気楽な状態になれるということなのかもしれない。

けれど、昔の男たちに比べれば、今の若い男のひとたちは、ダサいとバカにされるという強迫観念が大幅に強くなっているのだろう。

その結果として、かなり多くのひとがそれなりにこぎれいに自分の見た目を整えられるようになって、そして、男たちの中でも、ちゃんとすればいいのにダサいままでいるひとをバカにすることが普通の感覚になっているのだろう。

不潔で不快感を撒き散らす男が減ったのは女のひとにとってはいいことなのかもしれないし、こぎれいにしている男たち自身も、自分をこぎれいにできている側だと思いながら生活できるから、見た目を気にしないよりは気にしていてよかったと思っているのだろう。

そうすると、結局、異性からの攻撃がなかったとしても、自分のまわりのみんながある程度きれいにしていると、きれいにしていないと浮いてしまうという、差別というよりは同調圧力のようなものに変質したルッキズムが内面化された度合いが今も強まっていっているということなのかもしれない。

けれど、それはさほど悪いことではないのだろう。

ダサいのをバカにするのは差別ではないのだ。

特定のスタイルをなぞるべきものに思って、それをなぞっていないひとをダサいと笑っているのは論外だし、顔がどうだからとか、デブだからダサいと、相手ではなく相手の属性をダサく思うのは差別だろうけれど、そうでないのなら、ダサく感じるのだからダサいのだろうし、ダサく思うこと自体が差別心だから、そう思わないように自分を律しなくてはいけないというのでは、ほとんど自分の気持ちを生きる余地がなくなってしまうくらい頭でっかちにものをとらえないといけなくなってしまう。

仲間外れをいじめるのをやめて、あとは、ブサイクだとかデブだとかキモいとかと攻撃されることえさなくなければ、それだけで充分なのだ。

きれいなひとや格好いいひとを引きずり下ろすことで平等を作り出そうとするのはバカげているし、どうしたって不自然なことだろう。

どうしたところで、ひとは美しいものを美しいと感じて、美しさを感じていると気持ちがよくなってしまうものだし、それはどうしたところで変わらないのだ。


(続き)


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