【連載小説】息子君へ 116 (26 ほめられないと縮こまるタイプにならないようにね-3)
自分をほめられて伸びるタイプだと思っているのは若いひとたちだけではないようだし、それなりの年齢のひとたちでも、自分をほめられて伸びるタイプだと思っているひとは年々増えているのだろう。そういうひとたちが増えているのは、近年の親子関係だけの問題ではなくて、社会全体として、決まっていることは決まっている通りにやりたがるひとが増えたり、何事にもコストパフォーマンスが重視されるするようになったことで、人々をそういう感じ方に引っ張っているところもあるのだろう。
ほとんど同じことなのだろうけれど、それと同時に、他人の機嫌を損ねてしまわないかということにびくびくしているひとも、昔よりも増えているのだろう。そういうひとたちの多くが、いつも自分に対して不機嫌とご機嫌のどちらかで圧力をかけてくるひとが身近にいたからそうなってしまったのだろうけれど、そういう圧力を無意識にかけてしまうというのは、親が子供に対して自己犠牲心を持たなくていいと思うようになって、自分のしたいことをしようとしながら子育てするようになった世代のひとたちには、かなり当たり前の感覚なのだろう。それより上の世代でだって、自分のことしか感じていなくて、面倒くさいという気持ちに振り回されてばかりで、できることなら何でもしてあげようという気持ちにはめったにならないひとはたくさんいただろうし、そういう親のところに生まれたひとは他人の機嫌ばかりうかがっている子供になっていたのだろう。そして、親がそうじゃなくても、関わってきたひとがそういうひとたちだったから、だんだんと縮こまったものの感じ方になってしまったというひともたくさんいるのだろう。
女のひとたちはかなり多くが自称ほめられて伸びるタイプなのだろうけれど、とにかく文句をつけられないようにと思いながら窮屈な思いをして生きてきたことで、とにかく文句をつけられるのが嫌いでしょうがなくなっているひとがたくさんいるのだろう。ネガティブなことも、ネガティブかもしれないことも、よくわからないことも言わないでほしくて、何でもいいから、とにかく自分にもわかることで、肯定的なことしか、よくわからないひとからは言われたくないのだろう。そういうひとが男女ともたくさんいて、だからこそほめることは挨拶みたいなレベルのマナーのようなものになっているのだろう。
若いひとたちには、友達といるときでも、友好的なムードが途切れないように気を付けながら接していると自分で思っているひとが多いらしいけれど、それは女のひとたちがお互いに気を遣いながらお互いをほめあっていたような会話のやり過ごし方を、コミュニケーションの正解ということにして、男女ともに若いうちからやるようになったということなのかもしれない。
俺からすると全くわけがわからないというか、友達であれば、普通に自分の今の気分のまま接するし、何か気に入らなければそういう顔をするし、他人が不機嫌にしていても不機嫌な相手なりに話すだけだった。友好的なムードを取ってつけてあげないといけないのなら、それは俺にとってはお客さんだった。その若者の友達感覚についての記事を読んでいて、友達もお客さん感覚なんだなとうんざりするような軽蔑心が浮かんだ。
他人に攻撃的になっても、お互い嫌な気持ちになるだけなのだし、それがわかっているのだから、若者が昔よりも賢くなったということなんじゃないかと思うかもしれないけれど、それは多分見当外れなのだと思う。相手から嫌な反応をされないようにという感覚にずっとつきまとわれていることでそうなっているのだろうし、知恵としての友好性というよりは、みんなの顔色を見て、やってもよさそうなことの中からしか自分の言動を選べないということが常態化しているだけなのだろう。そうやって自分のやりたいようにやろうとせずに、やっていいことだけをしてにこにこひとに合わせたことだけを言っているのなら、それはむしろ思考を停止することを引き換えにした友好性でしかなかったりするんじゃないかと思う。
もちろん、俺は友好的に振る舞うことをよくないと思っているわけではないんだよ。挨拶のように相手を軽くほめるというのは、俺はしないし、そういうことを言われるのも面倒くさいだけだけれど、かといって、俺はそうやってみんなにいい言葉を向けようとしているひとたちのことを、今までずっとえらいなと思ってきた。何かを話しかけないといけないとしたときに、適当にほめられそうなところをほめるというのが、たいして仲のよくない相手に対しては一番無難だったりもするというのもあるだろうけれど、笑顔で挨拶されたらうれしいというだけで充分に価値があることだと思ってきたし、挨拶だけではなく、話しかけて、何かしらの言葉と一緒に笑いかけるために、ほめられるところを探してほめてくれているのだ。みんな挨拶の言葉に何かしら相手に対しての問いかけを付け加えるだけでも精神的に苦労のあることだとわかっているから、ほめられている内容はどうでもよくても、そういうコストを自分にかけてくれていることだけでも悪い気はしないものなのだろう。
同じ場所にいて気分よく関わっていくために、ほめることが有効に働いている光景というのは、俺だってずっと目にしてきたのだ。けれど、どうしたところで、ただほめればいいというものではないのだ。
六本木時代の俺の上司は、部下に対してはとにかく何かほめようと心がけていた。六本木の会社に勤めている頃の俺は、自分の仕事とか業界にそれほど興味がなかったし、プロフェッショナルとして働く気概が希薄な人間として、サラリーマン的な取り組みでしか働いていなかったけれど、とりあえず机にいる間はなるべく集中して、それなりにくたくたになりながら毎日仕事をしていた。その上司は機会があるたびに、頑張って俺をほめようとしていた。俺はそのひとに対してあまりいい感情がなかったりしたし、ほめられたり、仕事のスピードや出来を評価してもらっても、うれしかったことは一度もなかったように思う。自分がうれしいかどうか以前に、いかにもほめようとして頑張っていて、それらしい過剰な言葉をもってきながら、反応が薄い俺にぎこちない笑顔を向けているその上司に、どうしてこのひとはこうなんだろうなと思っていた気がする。
そのひとはビジネス系の記事とか、マネジメントの本とかはちょこちょこ読んでいたのだろうと思う。そして、そういう内容に則ってほめようとしているのだろうなとほめ方をしていたなと思う。相手を前にすれば相手に対しての肯定的な言葉が次々頭に浮かんでくるという感じのひとではなかったのだろうし、事前にどうやってほめるか考えたうえで面談なんかをしていたのだろうなと思う。
実際、陰口の多いひとだったし、下に見ているひとの働きぶりをバカにするようなことを気軽にひとに話してうれしそうにしている悪い意味で子供っぽいひとだった。けれど、基本的にはひとに気にいられたくてひとの様子をうかがいながら行動するひとで、嫌なこともたまに言うくらいだったし、仕事上では自分もしっかり汗を掻くタイプだったし、みんな挙動不審にされたり急にいばられたりしてなんだかなと思っているくらいで、パワハラ上司よりはマシかと流している感じだったのだと思う。
そのひとは、俺以外のひとに対しても、なるべくほめようとはしていたのだろう。そして、きっと他のひとたちも、あのひとにほめられても、悪く言われなくてプラス評価だったからまぁいいかというだけで、ほめられ方にうれしくなったりはしていなかったんだろうなと思う。それはどうしたってそういうものだろう。どんな言葉でほめるとか言い方の問題ではなく、中心はどうしたって人間関係としていいものが発生しているのかどうかという問題になる。
その上司の場合、どうだったならもっとみんなにとってよかったんだろうなと思う。挨拶のようなほめ方はするくらいならよかったのだろう。たいしたことじゃなくても、相手がやってくれたことに対して、助かった、よかった、よくなってる、すごいちゃんとやってくれているとか、ひとしきりそういうことを毎回言ってから本題に入るようにするとか、それくらいのことであれば、長めににこやかに挨拶したようなものだし、無害だし、雰囲気もよくなるのだろう。
そして、その上司はそうしようとしていたのだろう。けれど、そうしながらも、普段できるだけ他人をバカにしようとしながら生活しているから、ちょくちょくボロが出るし、ほめられそうなことをほめたあとに喋る内容に、そこまで深い内容がなかったり、ちゃんと見てくれて、自分の仕事ぶりに気持ちで向き合ってくれている感じがしなかったから、なんだかなと思われていた。けれど、その上司がとにかくほめないと相手をいたわったことにならないし、ほめたうえでじゃないと伝えたいことも伝わらないという話を鵜呑みにして、頑張ってほめていたから、あんな程度ですんでいたのだ。マネージャー職以上が中心で集まっている会議の場で、自分と同格の相手に対して軽口を叩きながら、調子に乗って出来の悪いひとのことをバカにしていた態度のままで部下に接していたら、もっと無神経さを撒き散らしていたのだろうし、そうだったなら、ほとんどの部下からはっきり軽蔑されるなり嫌われるなりされていたのだろう。
部下をほめろとしか書いていない記事を定期的に目にしても、俺はバカにしたりはしていないんだよ。俺はむしろ、みんなとりあえずやみくもにほめるようになるなら、さっさとそうなってくれた方がいいのになと思っているくらいなんだ。そうなったら、集団の横並びに満足いかないひとが、ほめるより相手に喜んでもらえる接し方について考えたり調べたりして、それが面倒くさいことだったとしても、ひとよりできているひとになりたくて、そういう面倒なプロセスを踏めるように頑張ってくれるようになるのだろうし、そうしたら本格的に世の中がマシになっていくのかもしれないと思ったりするくらいなんだ。
もちろん、ほめるよりもっと相手に喜んでもらえるやり方というのは、考えたり調べたりしなくても、そもそもわかりきっているはずなのだ。相手のやっていることをちゃんと見て、ちゃんと見ていたことが伝わるように、やってくれたことに反応を返すことが、どうしたって一番お互いにしっくりくるやりとりになるだろう。ほめられることなんかより、思っていることをあれこれ伝えてもらって、どう伝えたらいいかわからないことも一生懸命伝えてくれたりした方がはるかにうれしいし、それを自分がうまく受け止められたらもっと気分よくいられるのだ。それは単純に言えば、話が通じていると思えるような会話を自分たちができていると感じさせてくれているということなのだろう。
みんなで何かをしているときには、ひとりひとりのやっていることがみんなにとってよいことになるように、方向性を確かめ合いながら、どう進めるのがみんなにとっていいのかというそれぞれのイメージをすり合わせていくというのをずっと繰り返していければ、それだけで充分みんな気分よくやっていられるのだ。
ほめられたからそれでオッケーという感覚でいるひとも、うまくやれて、これはみんなにとっても価値があるものにできたとなったときに、それを一緒に確かめてくれていたひとが、うまくできたねと一緒に喜んでくれて、そのうえで、じゃあ次はどうしようと、うまくできたことをベースに、もっとできることがあるんじゃないかという話をできたなら、それはそれで楽しいはずだろう。ほめる必要なんてなくて、一緒に喜んでくれて、やれたことについて話ができたなら、それで充分なはずなのだ。
ほめることが有効なのは、コミュニケーションに充分な時間が取れないような関係性で、上下関係がはっきりしていて、上位のひとが下位のひとにとって権威が高いような場合なのだろう。コミュニケーションの時間がしっかり取れているのであれば、ほめ言葉でどうにかするしかない場面などないはずなのだ。プロセス全体を共有しているのだから、お互いに思っていることを伝え合っていて、お互いのやっていること全体を評価し合っているのなら、それ以上に必要なものはないだろう。むしろ、そういうコミュニケーションができていない関係性でも、うまくほめることで何とか取り繕えると思っているようなひとがいるのなら、そういうひとは他人全般を舐めすぎているということなのだ。
そもそも、自分でうまくできたと思ったら、その時点で、自分の中でうれしくなれているのだ。それである程度満足しているのだから、そこにしゃしゃり出てきたひとから、よくわからないけれどよい結果が出たみたいだね、すごいね、ありがとう、また頑張って、と言われることにはたいした価値はない。逆に、どうでもいいことや、自分で飽き飽きしていることをやったのなら、それなりに成果を出せたとしても、特にうれしさは感じなかったりするかもしれないけれど、そういうときには誰であれほめてもらう必要がなかったりもするだろう。軽くねぎらってくれれば充分だし、自分がやる気がないなりに我慢してやっている部分についての苦労にも目配せした言い方をしてくれたなら、それで充分気を遣ってもらえた気になれるのだ。
俺は二十代のはじめくらいから、ひとと集まってああだこうだ言いながらあれこれやってきて、ずっとそんなふうに思ってきた。ちゃんと見ていたのなら、ちゃんと見て思ったことを伝えればいいだけで、そのときの伝え方として、相手が自分の思い通りにやってくれないことに文句を言うような態度にならないようにしていて、みんなにとっていいようにするためにどうしようかという観点で話し続けていられれば、相手にやる気があれば、それでうまくいくものだろうと思っていた。みんな自分なりにうまくやろうとしているのだから、うまくいったならうまくいったねと思って、うまくいっていないように感じたら、どこがうまくいっていないんじゃないかという話をお互い納得するところまですり合わせていけばいい。うまくやれたら、誰かがほめてくれなくたって充分にうれしいんだから、そういうことで相手の機嫌をとっても、その場だけのことにしかならないのだ。
リーダーっぽい役回りをそれなりに長くやっていそうなひとでも、そういうことが全然できないひとはけっこういるなと思ってきた。そういうひとというのは、面倒くさそうに上辺だけでひとをほめながら、自分の頭の中でごちゃごちゃと考えて、駆け引きっぽいやり方でひとを動かそうとしている場合が多かったように思う。ほめておくことで、そういうやり方でも、相手が表立って怒らないでやり過ごせているのだろう。けれど、ほめられているんだし、よくわからないけれどこれでいいんだろうと、相手の向上心を阻害していたりする場合も多いのだろうなと思ったりもしたし、そんなことよりもちゃんと相手を見て、相手に反応してあげるというのを最低限やってあげれば、どれくらいで相手が警戒をといてくれるのかは相手次第だけれど、そのうちに相手も機嫌がよくなって、自然とうまく回っていくものなのになと思ったりしていた。
俺にとっては、とりあえずほめるみたいなことを心がけていて、そういう自分をえらいと思っていそうなひとというのは、そんなふうに見えていた。やたらとほめるというのは、ちゃんと見ていないし、ちゃんと見る気もないから、見ない代わりにほめているということなんだろうなと思っていたのだ。
もちろん、やる気がないひと相手には、そういうわけにもいかないのだろう。やる気がないひとの頭の中には、常にやらなくていい理由が渦巻いている。そういうひとは何を伝えたからといって変わるものではないから、自分の中でまぁいいかと機嫌よくやっておいてもらうしかないのだろう。そのひとがさらにやる気をなくすいいわけにできる材料をなるべく与えないようにして、そのひとのまわりが前向きな感じにやるようになったときに、やる気がないひともまわりに合わせる感じでそれなりにやるようになってくれば、それで充分というくらいにしかやりようがないのだ。どうせやるのなら、やってよかったと思えるようにやれた方がいいという感覚をもっていないのだから、いくらこちらがもっとどうできた方がいいだろうと話しても伝わらないし、相手が自分のタイミングでまわりを見てくれて、自分のやり方をみんなに合わせようとするのを待ちつつ、それまでひたすらほめておくしかないというのはあるのだろう。
それだけでなく、やる気がないわけでなくても、話が伝わらないひともいる。そのひとの中で、こちらとはかけ離れたものがモチベーションになっていたり、一緒にやっている事柄に対しても、思っていることがかけ離れている場合がある。そういうひとには、そのひとの中の文脈にとって価値がありそうな言葉で何かを伝えるしかない。そして、話はいまいち通じていなくても、ほめれば肯定していることは伝わる。だから、話が伝わらないなら、とにかくほめて、その他は、何かひとつでも相手の文脈に引っかかれば上出来というくらいのつもりで接していくしかないのだろう。
女のひとは仕事とか世の中に全く興味がないというか、その業界のあれこれを知っていきたいとか、理解を深めたいという気持ちがないひとがかなりいるし、男は他人と話していても、自分に言いたいことがないときは、自分が何をすればいいのかという話以外ほとんど聞いていなくて、それ以外のことは面倒だとしか思っていないひとも多い。そういう要件しか受けとっていなくて、話してくれている相手の気持ちは受けとっていないひとたちとうまいことやっていくにも、ほめるくらいしかできることがなかったりする局面が数限りなくあるのだろう。
そもそもひとの話をまともに聞く気がないひとというのがたくさんいるのだ。そして、相手が話していても聞かないままでいられるというのは、相手の気持ちをほとんど感じていないような状態になっているから、平気で話を聞いていないままでいられるのだろう。実際、そういう話を聞く気のないひとたちというのは、明らかにおべっかでしかなくても、ほめているとまんざらでもないような状態になりがちだったりする。相手の気持ちは受け取る気がないけれど、自分がほめてもらっているというシチュエーションには、せっかくそういうシチュエーションだから気分よくなっておこうということなのだろう。
俺は相手が俺をほめようと喋り始める前から、相手の顔や呼吸とか、相手の姿から伝わってくるもので充分喜びを伝えてもらえているし、逆に、今からどうでもいいことを適当に言われるなと思った状態で、おべっかを聞いている。
けれど、自分のことしか感じていなくて、共感があまり働いていない状態になっているひとは、そんなふうにひとの話を聞いているわけではないのだろう。言葉を言葉通りに受けとってしまいがちで、相手の言ったことをそのひとがそう思っているから言ったこととして受け取りがちなのだろう。自分が敵視していないか相手からであれば、おべっかを言われても、おべっかではあるんだろうけれど、すごいと言ってくれているんだからすごいのだろうと思えて気分がよくなれたりしてしまうものなのだろう。
そして、もともと共感能力の働きが弱いひとたちもそこにたくさん混じっているのだろう。共感能力が低いひとたちの場合は、肯定的な感情が向けられていても、表情とかシチュエーションとしてはっきりほめられないと、ほめられていることがわからなかったりするのだろうし、言葉ではっきりと何かについてどれくらいほめてくれているのかわかるように話してくれないと、相手の自分への評価がわからなかったりするのだろう。
感情自体をまともに受けとっていないから、はっきりほめられないかぎり自分への肯定的な気持ちを受け取りようがないひとというのがたくさんいるのだ。みんなのことを熱心に見てくれて、いろいろ思うことを伝えてくれるリーダーがいたとして、その集団の中で、共感能力の下がっているひとだけが、リーダーのことを何をしてもああだこうだ言うばかりでほめてくれないひとだと思って、一緒にやっていて面倒なひとだと思っていたりすることがよくあるのだろうなと思う。みんなにとっては気持ちのケアをしてくれるいい上司なのに、そのひとだけはそれを感じていなくてびっくりしたひとというのは、今まで同僚でも何人もいた。
多くの場合、そういうひとは、自分がやったことをアピールしやすい上司をいい上司に思っていたりするのだろう。それにしても、子供にはよく見られる行動だったりするのだろう。自分の話を聞いてくれるひとや、自分の遊びたい遊びに付き合ってくれるひとがいると、そのひとのところに行って、一方的にそれに相手を付き合わせて、相手が楽しんでくれているかも気にしないで、ひとりで勝手に満足気になっているというのは、ありがちなことなのだろう。
ちゃんと熱意を持って相手のやっていることの詳細もわかったうえで話しかけても響かないひとというのが、ほんの一部ではなく、それなりに多くいる状況になってしまったのだ。もちろん、昔からやる気のないひとはたくさんいたけれど、昔はパワハラも当たり前だったから、圧力をかけて表面的にであっても従わせることができた。今はパワハラだと訴えられないようにしか何も言えなくなってしまった。社会人になってから、ちゃんとした上司と、一部のやる気のある同僚といろんなことを話し合いながら仕事をしてきたひとが昇進して、ちゃんと伝えればわかってもらえると思ってしまっていることで、話がまともには通じないタイプの部下にあたってしまったときに、今までの成功体験にしがみついて一生懸命伝え続けてしまうことで、伝わらない無力感にどんどんはまりこんで、上司の側がつぶれてしまうということがどんどん増えているのだろう。もともとは部下側がパワハラでつぶされていたとはいえ、社会としては熱意のある優秀な人材がぶちあたる不幸なケースを減らしたいのだろうし、そういうこともあって、ほめておくことしかできない相手も多いから、そういうものだと思って上辺だけでもいいからとにかくほめておけということを積極的にアナウンスしているという面もあるのだろう。
ひとの気持ちがわからないひとだって、昔からたくさんいたのだろう。けれど、昔はさほどほめられないで育つひとが多かったから、何かを言われてもいい反応をしないことに怒られても、怒られ慣れていてやり過ごすことができていたというのもあるのかもしれない。親がむやみやたらとほめるようになったし、要領が悪かったり、鈍かったり、のろかったりしても、学校生活の中で怒られたりけなされ続けたりする経験をしないままになったひとは増えているのだろう。そういうひとたちが怒られ慣れていない状態で社会に出て、言った通りにやらないとひとを困らせるし、言われたことを理解しないと腹を立てられるようになって、若いひと本人も上司の側も困ってしまっているという感じなのだろう。今でも大手企業は新卒採用なんかで体育会系の人間であることをかなり重視しているようだけれど、それは結局のところ、怒られ慣れているとか、本気のテンションで意見し合ったり、自然と怒鳴り合うようになったりすることに、いちいち傷付いたりするようなひとは関わるのが面倒だからというのが大きいのだろうなと思う。もちろん、そうやって怒ったり怒られたりに慣れているひとが多い集団だと、そういうひとの方が評価されやすくなるのだろうし、デリケートなひとたちの居心地が悪いという意味で、時代遅れな雰囲気の会社になっていくことになるし、それが賢いやり方なのかはまた別のことなのだろう。
それでも、働いている時間のほとんどをスクリーンを見詰めて過ごすような職種でもなければ、大企業は今でもまだ体育会系の人材こそ欲しがっているようではある。ひとの気持ちをまともに感じていないひとたちの気持ちがわからない俺からすると、いまだに体育会系のひとばかりを採用しようとするというのは、そうしたい気持ちになってしまうというのは理解できるし、それが可能な大企業が実際にそういう方針で採用してしまうのも、当然のことではあるんだろうなと思う。
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