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寓話集

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記事一覧

奇寿

奇寿

A それである日、彼女は歳を取らなくなったの。もうじゅうぶん摂ったから、わたしは歳を録り終えたのよ、と清々しいような声でそう言ったのを覚えてる。ええ、たしかにそう言っていた。

A 歳を捕り終えるということが、いったいどんなことを意味しているのか、そのときの私にはわからなかった。でも、それはありうることだと思えたし、なんて言ったらいいのか、ごく自然なことなのだという直感があった。

A 考えてみた

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兎

 右眼の後ろのずっと奥のほうに兎が棲んでいる。
 兎はそこで、じっと待っている。わたしが見た物を食べるために。ニンジンはいらないと言う。何が食べたいのかと聞くと、「ぼくは悲劇が好きだ」と答える。「ただし、シェイクスピア以外の」
「わたしは何を見ればいいの」
「とにかく、そこらへんの悲劇を見つけてきてくれたまえ」
 おかしな喋り方をする兎だ。そこらへんなどと簡単に言うけれど、わたしの身近に悲劇はなか

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特別な日

特別な日

 水生植物園内の、日の差すことのない二十五センチ四方の地面に、私が穴を掘って埋めたものをあのひとは知らない。きっと誰かに監視されていたに違いないという気がする。でも誰にも声をかけられることなくすべては終わった。奥まったその場所にたどりつくまでのあいだ、急な坂道を登る途中で、遠くに群生する花菖蒲が見え、湿地を渡る木道が見え、雨季の水飴みたいな空気を切り裂く、白い光の照り返しがそこかしこに見えた。私の

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蓮火

蓮火

 間断なく灰白色の砂が、カーブした分厚い壁の隙間から染み出してくるようで、そこにときどき小石が削られてできた黒いかけらが混じり散っていく。消火活動に使う粉粒を買ってくるように言いつけられたあなたは、火消しが回している――というよりはただ監督し、いくつかのスイッチで操っているだけの――巨大な石臼のたてるジリジリという音を聞きながら、キリギリスが翅を擦り合わせるところを思い浮かべる。涼しげなのに、重い

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最終日

最終日

 始まりました。余命一日の世界のみなさん。こう見えても私、予言者をやっておりましてね。もうだいぶベテランではあるのですが。今がこんにちはなのか、こんばんはなのかよくわかりませんが、とにかくまだ挨拶することはできるみたいです。こんな日には、さしずめさようならと言っておくのがふさわしいかもしれません。世界滅亡ラジオ第一回放送の今日は、明日に控えた世界の滅亡についてお話をしていこうと思います。最後までお

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逆さま

逆さま

 私はここに座って、もうかれこれ百年になる。私に今できることといえば、それからこれまでしてきたこととか、この先していかなければならないことといえば、この椅子にじっと座りつづけていることくらいじゃないかな。で、なんだっけ? そうそう、百年という年月はそうだな、頭と尻がひっくり返って逆さまになるくらいの実に長いあいだのことなんだよ、ちょうどこの私の頭と尻がひっくり返って逆さまになっているみたいにね。ど

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裸足で走る女

裸足で走る女

 今朝、仕事に行くために駅まで向かう途中で、ランニングをしている女に出くわした。女は裸足であるということ以外、どこから見ても完璧なランナーだった。ランニング用の帽子をかぶり、ランニング用のサングラスをかけ、ランニング用のウェアを上下に身につけていた。しかし、なぜかランニングシューズだけは履いていなかった。
 東京は朝から猛暑で、一日のうちでランニングに適した時間帯などあるはずもないと思うのだが、ど

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忘睡

忘睡

 熱がどこから生まれて伝わってくるのかわからなかった。
 たぶん太陽が移動したせいだろう。
 頭が故障したのかもしれない。
 目を覚ましたときにはいつもよりはっきりと明るかった。
 背中の下に敷き詰められている砂利も、正面から直角に降り注ぐ透明な粒子の入り混じった空気の雨も、熱を奪って私を冷たい人間に変えていきそうなものなのに、身体はどこかにある熱そのものと、さらなる熱さに対する切望のためにあえい

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夜

 犇めく建築群の、鋼鉄とガラスが軋りあう交響的細胞帯の合間で、ぽっかり口を開けた間抜けな気孔のように、正確な広さもわからない公園が、空にむけて白い息を吐き続けている。頸を立てて見回すと、どの方角をむいても黒ぐろと密生した木々の稜線が視界を上下に分断しており、一か所だけ歯が抜けたあとのような黒い空間に、ホテルの青いネオンが浮かび上がっている。

 ――ここに、いる。

 ふたたび水中に引きずられたよ

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ウ

 もう、ウナギなど食べたくないし、ウナギの顔も見たくない。
 宵闇の底を這う水生生物のような、湿っぽい紆曲を続ける町道を歩いていると、そんな想念が再び押し寄せてくる。
 この道は、どこにつづいているのだろう。蒲焼きをタレに浸したときみたいに、甘ったるい夜のしずくが、昼の熱を吸い込んだアスファルトの上でじゅわじゅわと音を立てる。
 ウナギから逃れたい。
 それは、絶体絶命の欲求として、存在の根源的苦

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