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 犇めく建築群の、鋼鉄とガラスが軋りあう交響的細胞帯の合間で、ぽっかり口を開けた間抜けな気孔のように、正確な広さもわからない公園が、空にむけて白い息を吐き続けている。頸を立てて見回すと、どの方角をむいても黒ぐろと密生した木々の稜線が視界を上下に分断しており、一か所だけ歯が抜けたあとのような黒い空間に、ホテルの青いネオンが浮かび上がっている。

 ――ここに、いる。

 ふたたび水中に引きずられたように耳の奥がくぐもる。ふたたび? 居場所などはじめからなかったにもかかわらず、この肌が、身を圧する冷たい液体の密度を知っているとでもいうのか。水中なんて存在しない。そこにいたことはなかった。あるいは温かな水中、胎内という場所につながる光景があったのか。どこにもいたことなんかない。ただただ夜の表皮を掻き毟るように四肢を振り回し、屍が粉粒体になって押し固められた堆積土を足に合わない靴で踏み惑う。たしかポケットに入れたはずだと探る掌が、かすかに触れた気のする方位磁石の透明な形骸は、思い出せないほどはるか遠くに置いてきた少年期の記憶と関係しているらしく、指先の間で磁場は狂い続けている。ポケットの中は光の隠し場所だ。誰にも見せない。過去の光、見届けるまでもなく、消え去るだけの。どこをも差さない、闇のような光。今しがた街道を過ぎていったソフトクリーム会社のトラックが曲がり去った方角と、その赤蕪色の尾灯が引く軌跡。公園は消える。消える。消える。何もかも。細胞の通用口からナトリウムが流入するように人々がビルへと吸い込まれ、その内圧を高めてこらえきれなくなるとやがて無数の窓から火花みたいに弾け飛んで世界へ散らばっていく。耐えがたい宵闇に、吐く息を喘がせているのは公園ではなくむしろ私のほうなのだ。間抜けのように。真相を気取られまいとして。

 いつからここにいるのだろう。

 いつから、ここに、いないのだろう。

 誰かの声が追いかけてくる。声が突き刺す。心臓をではなく、空虚を。私は貫かれる。声にではなく、無声に。

 どうしてここにいなければならないのだろう、どうしてここにいさせてはくれないのだろう。風さえも方角を失ったこの空間において、夜は体温について無知のままだ。そもそも風が方角を持つ性質だったのかは怪しいところだ。接続詞除去の痕跡。夜が疑問符を水平に反転させる。繰り返し、問わないために。この場から先へ進まないために。手はどこまでも探ろうとする。闇の形をした光について。鳩の眠りを妨げる光に擬態した何かについて。手は光を破り棄て闇を掴もうとする。闇の中の心臓の孤独に触れようとする。一筋ひとすじの葉脈を内側から押し拡げようとするように、盲目獣の群れが都市の片隅に突如現れて、萎れ、閉塞し終えた無数の送電線に沿って私の居場所を発信するのを見た、たしかに見た気がする、いつのことだったか、グラヴィア印刷に定着され刊行された血の跡とともに、何もかもが均しく流通済みの世界で。

 どうしたって私はここにいるのだ。愚図だというなら聞いてみるがいい。馬鹿だというなら貶したらいい。私は答える代わりに見つめるだろう。すべてが消え去るまで。私はズボンを下ろし、この間抜けな空間に向かって、あの分断された夜の切り取り線に向かって小便を迸らせる、熱されたシリンダーの痙攣が動力を伝えるように、身震いしながら、背中の羽をかばう天使がするみたいに腕を自分の身体に巻きつけて、それから、鍵穴に鍵がはまるときのカチッとする音をさせて何かが回転する。私はひとつの機関だ。悪夢をたやすく忘れ去ることはできない。おまえは馬鹿なのだ、狂っているのだ、オオアラセイトウが夜の中でも寂しげな紫色の花弁を滲ませることなくそこかしこに固まっているのを見て、おまえは笑っている、どこへ行こうとするわけでもなく、方角を指すことを諦めた磁石のようにすっかり気が抜けて、いわば放心状態なのだ、もう何も考えることなどできない、殺すのか殺されるのか、たんに静脈が詰まって、あるいは破裂して死ぬこともあるかもしれない、音もなく死神が近づいて生命を脱臼させる、死ぬ間際の、腱だけでぶら下がった人生の前腕、指先が弛緩して何も掴むことのできない棒切れと化した腕、それが私なのだ。

 誰かが、誰でもある人間が、腕を引きちぎり、捨て、蹴飛ばし、犬に咥えさせる。尻尾を振って彼は疾駆し、草原の向こうの腕を追いかける。やがて立ち止まり吠え、飼い主を呼ぶ。公園の土から生えた一本の腕というのは傑作だ。それは捨てられた腕ではなく大地に根を伸ばし、まるでひとつの中心点であるかのようにその場に直立した腕、捨てられる前の、捨てられる夢をまだ知らぬしたたかな腕、それとも反対に、そんな夢を見ている一本の萎びただらしのない腕だったのだろうか。土の上に寝転がり、犬の大きな口から滴る唾液にまみれて、為す術もなく、ひそかに祈っているだけの、誰に触れたこともない固く閉ざされた指先。もう私は開かないだろう。どこへ向かっても、何に対しても。

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