仲白針平

小説家/ フランツ・カフカ ショートストーリーコンテスト最優秀賞受賞「傘」(『文學界』2024年2月号)/「主語のない窓」(『FFEEN Vol.5』) 📪 itachihajikami@gmail.com

仲白針平

小説家/ フランツ・カフカ ショートストーリーコンテスト最優秀賞受賞「傘」(『文學界』2024年2月号)/「主語のない窓」(『FFEEN Vol.5』) 📪 itachihajikami@gmail.com

マガジン

  • 横にされた殺人の記録

    短く不可解な偏執的創作の断片、スケッチ

  • 寓話集

最近の記事

眠り

 今日、眠らなかった。眠り損ねたといえばそのとおりだし、あえて眠らなかったといっても間違いではない。問題は、今日眠らなかったために、今日私が眠るはずだった眠りがどうなってしまったのかということである。そのことを考えて私は愕然とした。なぜなら、今日眠らなかったぶんの眠りは、一生、というか永遠に眠られることがないからだ。それは、どうしても今日眠られるべきだったのだ。今日が最初で最後のチャンスだったのだ。なのに私は眠りを蔑ろにし、ほとんど見向きさえしなかった。お互いの距離が微妙にぎ

    • すべては一度だけ起こったこと

       ひとつひとつの言葉の前で、ためらい、困惑し、怒り、疑い、驚く、などの症状をつねに呈しているので、本を読むのも書くのも人一倍遅い。言葉への執着はほとんど病気だと思っている。ちょっとした語順に躓く。なぜその逆ではなかったのか。どちらでも意味は変わらなかったはずなのに。読点をどこで打つか。打たないか。当然だけど、単語や句読点の位置というほんの些細な加減で文章は変わる。書かれている文章を何度も何度も読み返してしまって、先へ進むことができない。そこに書かれていることが、どうしてそう書

      • 沢鹿

         長く暗い夜のエリアを抜け、十二時間のフライトの末たどり着いたのは、見たこともないような世界の果てではなく、母国語でできた檻の内側だった。そのさらに内側の、異国語が飛び交う空間で、乗客たちがいっせいに席を立たって荷物を下ろしはじめるなか、ぼくはいつまでもじっと座ったまま待ちつづけていた。ついさっき、キャビネットから自分の荷物を引き出そうと手をかけたのだが、どうにも扉が開かなかったのだ。力ずくで何度か試してみたが、まったく駄目だった。しかたなく、大半の乗客が飛行機を降りてしまう

        • いかたらしい女

           イカタラシ璃子は今日も殺されなかった。誰だって、自分が殺されないことが普通だと考える。だけどそれは本当に普通のことだろうかと彼女は考える。本当に普通のこととはなんだろうと彼女は考え、本当らしくはないけど普通のこととはなんだろうと考え、本当に普通じゃないこととの違いを考え、本当ではないが普通でもないことこそがわたしの考えるべきことではないかと疑う。これだ。とイカタラシ璃子は悟った。つまり、本当ではなく普通ではないことこそが、殺されないことなのだ。しかしそれは本当に普通のことと

        マガジン

        • 横にされた殺人の記録
          32本
        • 寓話集
          10本

        記事

           おれは薄暗い人のいない道を、塀に沿って歩いていた。塀はとても高く、重たそうで、覆いかぶさるように威圧してくる。それがどこまでも続いていた。もし塀が途切れる場所があるなら、そこがおれの目的地だ。そこからおれは敷地内に侵入し、おそらくすぐにでも捕らえられて殺されるかもしれない。でもそんな場所はどこにもないだろう。塀の途中に黒いペンキのようなもので意味不明な落書きがされていた。冷たい風が吹いていた。長い長い塀だった。こんなに長いのだから、こうして自分に沿わせて長いことおれを歩かせ

          わたしの日

           今日が何日目の「わたしの日」なのか計算しようとして、わたしはペンと紙を手に取る。しかし空白をほんの少しでも埋めることはできないとわかる。計算式が言うことを聞かない。  看護師の服を着た女が入ってくる。 「調子はどうですか」 「それほど良くはないと思う」  女はわたしの体温を測り、二言三言話し、それから部屋を出ていく。  ここへ来る以前には、「わたしの日」について、もっとよく考えることができた。わたしはそれを日々計算し、記録し、世界の運行に役立てる仕事をしていた。この国家に属

          わたしの日

          滑走路 

           彼が空を見上げたのは、三月と四月の狭間のある夜、暗い滑走路で行われた灯火訓練のさなかだった。滑走路は北へ向かって延びており、それは北へ向かうための滑走路だった。誰もが一度は、ここから北へ旅立とうと考える。だが、実際に旅立つ人間はいない。そもそも北へ向かうことは禁じられているようなものだ。ここは限界域に属していて、いわば見えない壁によって北方向は閉ざされていた。この数十年、管制塔が滑走路への侵入許可をくだしたことは一度もなかった。滑走路を二キロメートル進むとそこから先は雪が降

          Overwrite

             ときどき、母の白昼夢を見る。半透明な、靄のかかったような視界の中に、いきなり黒い幕が下りてきて、わたしと世界とを遮断する。優しく微笑みかけるような甘ったるい声を浴びせられながら、閉ざされた視界を回復できない苛立ちでわたしは泣きじゃくっている。やっと拓けはじめた光の世界を、わたしに見せないように、母はいつも邪魔をする。黒い遮蔽幕にむかって、わたしは「母さん」と呼びかける。たのむから、そこをどいてくれないかな、わたしは光の世界を見たいのだから。しかし容赦のない母性愛がわた

          奇寿

          A それである日、彼女は歳を取らなくなったの。もうじゅうぶん摂ったから、わたしは歳を録り終えたのよ、と清々しいような声でそう言ったのを覚えてる。ええ、たしかにそう言っていた。 A 歳を捕り終えるということが、いったいどんなことを意味しているのか、そのときの私にはわからなかった。でも、それはありうることだと思えたし、なんて言ったらいいのか、ごく自然なことなのだという直感があった。 A 考えてみたら、どうして私たち歳なんて撮るの? あとでどうせ無駄になるとわかっていて、それで

          まったくわけのわからんあいつ

           あいつはわけのわからない  耳から小麦麺垂らしてる  あいつはわけのわからない  地球にチャーシューはりつけて  あいつはわけのわからない  ケバブ回して妖気に子守唄(ララバイ)  あいつはわけのわからない  エクセルシオールの扉に頭突きして  あいつはわけのわからない  顔から赤い血流してる  ああ顔面川、赤いね複雑ね  そんなあいつと二八蕎麦  姐さん天麩羅瓶麦酒  わたしも赤い血流したい  わたしも二八で流したい  あいつはわけのわからない  鼻から銀行ぶらさげて

          まったくわけのわからんあいつ

           右眼の後ろのずっと奥のほうに兎が棲んでいる。  兎はそこで、じっと待っている。わたしが見た物を食べるために。ニンジンはいらないと言う。何が食べたいのかと聞くと、「ぼくは悲劇が好きだ」と答える。「ただし、シェイクスピア以外の」 「わたしは何を見ればいいの」 「とにかく、そこらへんの悲劇を見つけてきてくれたまえ」  おかしな喋り方をする兎だ。そこらへんなどと簡単に言うけれど、わたしの身近に悲劇はなかった。仕方なく、ニンジンやらなにやら野菜を見るために、スーパーマーケットへ行った

          特別な日

           水生植物園内の、日の差すことのない二十五センチ四方の地面に、私が穴を掘って埋めたものをあのひとは知らない。きっと誰かに監視されていたに違いないという気がする。でも誰にも声をかけられることなくすべては終わった。奥まったその場所にたどりつくまでのあいだ、急な坂道を登る途中で、遠くに群生する花菖蒲が見え、湿地を渡る木道が見え、雨季の水飴みたいな空気を切り裂く、白い光の照り返しがそこかしこに見えた。私の埋蔵品は、見知らぬ監視者に掘り起こされてしまっただろうか。たとえそうだとしても、

          蓮火

           間断なく灰白色の砂が、カーブした分厚い壁の隙間から染み出してくるようで、そこにときどき小石が削られてできた黒いかけらが混じり散っていく。消火活動に使う粉粒を買ってくるように言いつけられたあなたは、火消しが回している――というよりはただ監督し、いくつかのスイッチで操っているだけの――巨大な石臼のたてるジリジリという音を聞きながら、キリギリスが翅を擦り合わせるところを思い浮かべる。涼しげなのに、重い荷物を引きずって坂を上るような、不思議な音だ。火消しは、臼で挽いた粉をカーキ色の

          最終日

           始まりました。余命一日の世界のみなさん。こう見えても私、予言者をやっておりましてね。もうだいぶベテランではあるのですが。今がこんにちはなのか、こんばんはなのかよくわかりませんが、とにかくまだ挨拶することはできるみたいです。こんな日には、さしずめさようならと言っておくのがふさわしいかもしれません。世界滅亡ラジオ第一回放送の今日は、明日に控えた世界の滅亡についてお話をしていこうと思います。最後までお付き合いください。とは言っても、私の声はどこにも届かないでしょうがね。今、ちょう

          忘れ物

           絶対に忘れ物をしない女が、人生でたった一度だけ忘れられない忘れ物をした。いつもと変わらない一日の、いつもと変わらないはじまりだった。  女は自分が忘れ物をしたことに気がつかないまま家を出た。いつもどおりの時間の、いつもどおりの快速電車に乗った。会社に着くと同僚に「おはよう」と言い、コーヒーメーカーで一杯のコーヒーを作った。瓶詰めの茶色い色をした角砂糖をひとつ取り出し、コーヒーの中に落とした。午前中、四種類の書類に目を通し、一種類の資料を作成し、三本の電話の対応をした。キッチ

          裸足で走る女

           今朝、仕事に行くために駅まで向かう途中で、ランニングをしている女に出くわした。女は裸足であるということ以外、どこから見ても完璧なランナーだった。ランニング用の帽子をかぶり、ランニング用のサングラスをかけ、ランニング用のウェアを上下に身につけていた。しかし、なぜかランニングシューズだけは履いていなかった。  東京は朝から猛暑で、一日のうちでランニングに適した時間帯などあるはずもないと思うのだが、どんなときでも走る人間は走るのだし、仕事に行く人間は仕事に行くのだ。  こんな日に

          裸足で走る女