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特別な日


 水生植物園内の、日の差すことのない二十五センチ四方の地面に、私が穴を掘って埋めたものをあのひとは知らない。きっと誰かに監視されていたに違いないという気がする。でも誰にも声をかけられることなくすべては終わった。奥まったその場所にたどりつくまでのあいだ、急な坂道を登る途中で、遠くに群生する花菖蒲が見え、湿地を渡る木道が見え、雨季の水飴みたいな空気を切り裂く、白い光の照り返しがそこかしこに見えた。私の埋蔵品は、見知らぬ監視者に掘り起こされてしまっただろうか。たとえそうだとしても、かまうことはない。大事なのは、それをこの手で一度でも埋めたということ、私が素手といくつかの尖った石ころを使って、一生懸命、念入りに穴を掘ったということなのだから。

 あのひとはしょっちゅう仕事場を取っ替えていた。熱海行きの新幹線の車内のこともあれば、その日のように植物公園の大温室に設置されたワーキングスペースということもあった。あのひとは机に向かい、ノートパソコンで何かを書き、ときどき目の前のガラス越しにベゴニアを眺める。自分の書いた物語の世界に没頭して疲れた脳みそを休めるために。私は、何かを書くことが仕事であるというのは、どんな感じだろうかと考える。「今どんな話を書いてるの」と私はたずねる。「ものすごくイライラしている朝に、突然どこの誰とも知らない男から謎の電話がかかってくる話」とあのひとは答える。
「そのひとはどんな電話をかけてきたの?」
「今すぐ仕事に行け」
「知らない人なのに?」
「部屋ではオーネット・コールマンの『サムシング・エルス!』のA面が流れている。『インヴィジブル』って曲」
「そんなもの朝から聴くやつなんてこの世にいなくない?」と私が言うと、あのひとは殺虫灯に飛びこむマイマイガみたいに、バチッと電撃的な音を出して笑った。どこから音を出しているのか、そんな笑い方をする人をほかに知らない。舞い散る鱗粉が見えた気がした。
「とにかく、何人もの知らない人間から、仕事に行けと言われ続ける男の話なんだ」
「最悪」
 私は見ることにこだわってきた。とりわけ見えないものを見ることに。それが不可視であればあるだけ、私は強く惹きつけられた。オーネット・コールマンが彼のサックスでこじ開けてまで見ようとした「インヴィジブル」な闇のなかのように。私は穴を掘った。闇をこじ開けようとして。ひっちゃかめっちゃかに掻き回した闇の分子を、未来のために保存させようとして。

 初夏のある日、私はあのひとを温室まで迎えに行った。レジャーシートとサンドイッチ、成城石井で買ったワインを二本にクラッカーとチーズ、パテ・ド・カンパーニュを携えて、芝生広場で絵に描いたようなピクニックをする計画だった。
 あのひとが仕事にキリをつけるまでのあいだ、私はひんやりしたベゴニア室を巡り、何種類もの重たそうな花の匂いをシャワーのように浴びて、肌を赤や黄や橙色に変色させてくるくると回りながら飛び出すと、こんどは熱帯的なスイレン室で、フウリンブッソウゲの花を吟味しながら待っていた。それは線香花火のように垂れ下がり、空中に赤い火花を散らしていた。スイレンが所狭しと顔を出す水面を覗くと、紺や銀や薔薇色に光る小さな南国風の魚たちが何匹も、長いスカートのような尾鰭をくねらせて泳いでいるのが見えた。
 木の陰にレジャーシートをひろげ、私たちはワインを飲んだ。持ってきていた食べ物をあらかた胃袋に詰め込んでしまうと、横になった。物語の男はどんな仕事をしているの、と私は聞いた。無数の木の葉の裏側が見え、木は風のほうに震える手を伸ばし、風が樹皮を愛撫しているのが見えた。目に見えるものを見ていると、目に見えないものの気配を感じた。「殺しだよ」あのひとの声が、まぶたの裏で幾重も丸を描いていた。丸は右から左へ、左から右へとゆっくり動いていた。「今日が期限です。わたしの指示通りに殺さなければ、別の人間があなたを殺します」
 二人だけしかいない植物園で、私たちは蜜蜂のような探索者だ。展示されているひとつの種類の花から、次の種類の花まで移るあいだに、新たな道標を刻み、確かな兆候を手にし、密やかな発見をする。
 うとうとしはじめてどのくらい過ぎただろうか、離れたところから、芝生の上を歩く聞こえないはずの足音が聞こえてきて、耳のすぐそばで止まった。顔を横に向け薄目を開けると、むこう側の芝生が透けて見えそうなほど不自然な白さの足首があった。「ここで失くしたんですけど」片側の耳に、若い女のひとの声が降ってきた。
 私は体を起こしてその顔を見上げた。髪を後ろで束ね、眼鏡をかけている。顔も足に負けないくらい白く透きとおるようだったが、不健康そうというわけではなかった。私は意味もなく立ち上がって見つめた。女の着ている半袖のシャツも芝生と同じ色をしていたので、上半身が透明人間のように見えた。「ここで失くしました」と女はもう一度言った。
 あのひとも身を起こして、こちらの様子を気にしているのがわかった。私はできることならまともに取り合わないほうがいいのではないかと思っていた。何を失くしたのかと、相手が聞かれるのを待っているのだとしたら、その手には乗らないほうがいいのではないか。きっとろくな結果にはならないのだから。
「何を失くしたんです」と眠たそうに聞いたのは、座ったままのあのひとだった。
「月状骨を失くしました」
「ゲツジョウコツ」思わず私が声に出してしまった。
「骨です。小さな。このくらいの。手のここのところにある」女は困惑したような表情で、自分の手を指し示した。「あれがないとだめなんです。掘るのに必要ですから」
 ワインを飲んでいなければ、きっと相手にしていなかった。それに、彼女の月状骨のことを心配したのは、どちらかといえばあのひとのほうだ。「そんな大事なもの、どうして失くしちゃったんですか」わざわざレジャーシートをどかして、あのひとは捜しはじめた。見知らぬ女と一緒に這いつくばる姿は、どこか奇怪ですらあった。私はまじめに探す気にならず、女とあのひとの話し声に耳を傾けながら、遠くのパンパスグラスを眺めていた。大人の背丈よりも高く、広範囲に密生したその植物は、大地が何らかの不具合に見舞われて、地表から勢いよく吹き出した巨大な吹き出物みたいだった。
 女の話によると、彼女には穴を掘って埋めなければならないものがたくさんあるらしかった。「お二人にも、ありますよね、そういうの……」そう言われると、あるような気もするし、ないような気もする。でも何かを埋めようなんて、子供の頃のタイムカプセル以来考えたこともなかった。タイムカプセルには未来が詰まっていた。いや、詰まっていたのは過去だったかもしれない。校庭の隅に穴を掘って埋めた気がするが、何を詰めて埋めたのかは忘れてしまった。そしてそれをちゃんと掘り返したのかもわからない。何年かの間、地底の暗い場所に閉じ込められて、じっと掘り返されるのを待ち続けているものたちのことを私は考える。その暗闇のことを考える。時間の止まった暗闇を私は見つめている。今でもそれを見続けている。
 女は今日も穴掘りをするつもりで、公園までやってきたのだが、この場所で何かに躓いて転んでしまった。軽く足をひねったけれど、歩けないほどではない。予定地まで行って、いざ穴を掘ろうと手を土にむかって差し出した瞬間、自分の手にあるはずの月状骨が失くなっていることに気がついた。
「それにしても、月状骨なんて、いままで存在すら知らなかったな」あのひとが芝生を掻き分けながら言った。
 結局、いくら探しても月状骨は見つからなかった。もっと大きな骨なら見つけられたかもしれない。
「代わりに掘りましょうか」あのひとが言いそうな台詞だけど、これを言ったのは私だ。どうしてそんなことを言ったのかわからなかった。女が骨を失くしたことも、穴を掘ることも、自分には全然関係のないことだとどこかで考えていたはずなのに、本当にそう考えていたのかどうか確信が持てなかった。私は責任を感じていたのかもしれない。女が躓いたちょうどその場所に、たまたまレジャーシートを敷いたからって、彼女の失くしたものに責任を負う必要はないのに。でも、世の中にはそういった種類の責任も存在するのだ。負わなくていいはずなのに、どうしてかわからぬまま首根っこを押さえられ、こちらの動きを封じられてしまうような種類の責任が。
「水生植物園に、いい場所を知ってるんです」と女は先ほどまでより温かみのある声で言った。

 閉園時間が近かったので、別の日に私は女と待ち合わせをした。予定の合わないあのひとはほうっておいて、私たちは二人きりだった。朝から晴れて、蒸し暑い日だった。彼女は芝生色のTシャツを着て、髪を後ろで束ね、眼鏡をかけていた。
 女は〈埋めものリスト〉を見せてくれた。「わたしが埋めなければならないものは、これらなんです」重なったA4のレポート用紙に、埋められるべきものたちが、几帳面にびっしり書き込まれていた。いったいいくつのものが、彼女によって埋められようとしているのだろう。そこには、日用品から抽象的な概念にいたるまで、ありとあらゆるものがリストアップされていた。剃刀の替刃、履き古した下着、賞味期限切れのチューブ入りコチュジャン、もう一生読むことのない本、底の剥がれた靴、幼少期の記憶が何種類か、捨てそこねた給与明細、電池蓋のとれた目覚まし時計、自分に自分でつけた何百もの名前、過去の、それから現在の空白のスケジュール帳、二度観た映画の半券、溜め込んで色褪せた古い写真たち、黄ばんだ投票権、錆びているビニール傘、頭に取り憑いて離れない夢で見た風景、神は死んだという言葉、毎夜聞こえてくる叫び声、北極星、網戸に張りついた虫の死骸、ミとファの間の音、歯ぎしり、平常心に繋ぎ留める紐帯を失った感情、吐いた息、充電器、言葉、手紙の言葉、いくつかのノートの、もう読まれることのない言葉、話されることのない言葉、沈黙、自分の身体、自分の身体的言語、言語的身体、声、叫んでいる、静かな、無音の声、等号、風、風が運んでくる言葉、匂い、火の燃える匂い、火、頭痛薬。彼女はまるで自分の人生そのものを、あるいは世界そのものを埋めようとしているみたいだった。自宅の部屋のあらゆる家具、あらゆる道具、あらゆる場所に、付箋が貼られ、次に埋められるのを待っているということだった。毎日毎日、埋められるものが書き足されていく。私には埋め方のわからないものがたくさんあった。知らない人間に、仕事に行けと言われ続けるのと、思いつくかぎりの埋めるべきものたちに包囲されて暮らすのと、どちらが苦しいのだろう。比べられるものでもないが、殺したり殺されたりする仕事を強制されるよりは、何かを埋めなければならない強迫観念に取り憑かれているほうがましかもしれない。
 一瞬、日が陰りあたりが少し暗くなった。私たちはそれから少し歩いた。そして人の気配のない、ほとんど誰もたどり着きそうもない奥まった場所へ進んだ。園内は地図から想像するより広く、奥へ行けば行くほど鬱蒼としていた。
「それで、今日は何を埋めるんですか」私は思い切って訊ねた。
 いまさらだけど、代わりに土を掘ることにためらいもあった。そもそもあの胡散臭いなんとかという骨がなければ、本当に穴が掘れないのだろうか。それに、いったいどのくらいの大きさの穴が必要なのか。これから先、彼女はどうやってひとりで掘っていくつもりなのだろう。もう片方の手で掘ればいいじゃないか。多少勝手は違っても、根気よくやればできないことではないだろう。
 こうして穴を掘ることばかり考えていると、まるで生き物の死骸を埋めに行くみたいに思えてくる。子供の頃に、死んだ二匹のハムスターを埋めたのを思い出した。ハムスターの死骸は冷えて固まり、生きていたときより縮こまったように見えた。死んだ動物のように土に還るかどうかはともかくとして、〈埋めものリスト〉は死のリストなのかもしれない。私は埋葬の列に加わるような妙に神妙な気持ちになって、今日は何を埋めるかなどと聞いたことを少し後悔した。彼女は黙ったまま歩いていた。
 ふたたび日が照りだして、私は頭がくらくらしてきた。陰気な死の雰囲気が光に押し流されて、蜜蜂のうなり声が金属的な響きをおびて耳にまとわりつき、私は首筋に汗をかいた。あのひとは今日もどこかで物語を書いているだろう。あの、ろくでもない電話の話の続きかもしれない。
 ふと、彼女のリストに記されているのは、廃棄処分を待つ不用品などではなく、ただたんに、誰も耳を傾けることのなくなった、孤独な空転をつづけるサムシング・エルスたちなのではないかという考えにとらえられた。慌ただしい朝の背後で鳴り響く、控えめとは言えそうもないジャズナンバーのような。Something elseという言葉には、文字通りの「何か他のもの、別のこと」という意味だけでなく、「素晴らしいもの、驚くべきこと、格別なもの」という意味もあったはずだ。女の生活が、無数のちょっとした驚きや、特別な品々に取り囲まれているのだと思うと少し嬉しくなった。
 女は雨の匂いを嗅ぎ分けでもするように、かすかに鼻翼を動かしてから、「今日は、せっかくですから、あなたの埋めたいものを埋めましょう」と言った。
 そう言われても、私は何も持参してこなかったし、埋めたいものが思い浮かばなかった。「何も、私、とくに持ってないし、思い浮かばないんですけど」と私は言った。
「考えてください」と女は言った。「必ず何かあるはずです」
 鞄の中には、ハンカチと化粧道具と財布と家の鍵が入っていた。どれも埋めるわけにはいかない。財布に、いらないレシート類が入っているのではないかと思いついた。
「レシート、はどうですか」
「もっと柔軟になってください。なにも、モノでなければいけないわけではないんです」
 モノではないもの……。空、とか? 空気とか?
 少し間を置いてから、女は「そうですね、たとえば、時間、えっと、ひとまとまりの、何か季節とか、そういうものがいいのではないでしょうか」と言った。
「季節、ですか」
「好きな季節はいつですか」
「えっと……冬。ですかね。今とは反対ですけど」
「もっと、具体的に、冬のいつですか」女は真剣な目つきで私の顔を覗き込んでいた。私は問い詰められるような気になって、必死に答えを探した。
「そうですね……あの、十二月です、十二月の、晴れた日曜日の」
「あなたは何をしていますか」
「散歩をして、それから、食事をとります。昼ご飯です。サンドイッチか、ガパオライスか」
「誰かと一緒に? それとも一人で?」
「一人です。一人で過ごす日曜が好きなんです」
「どんな気分ですか」
「え?」
「そういう日を、どんな気分で過ごしますか」
 一人で散歩をして、昼ご飯を食べて過ごす十二月の日曜日に、私はどんな気分でいるのだろう。想像しようとしたが、うまく頭が働かなかった。それはひどくふわふわしていて、なんの実体もともなっていない空虚な休日だという気がした。特別でもなんでもない。
「あの……どんな気分か、ちょっとわからなくて」私は正直に答えた。
 女は眼鏡の奥で不思議そうに目を丸くして、それから、いいでしょう、と言った。何がいいのかはわからなかったが、一応は納得してもらえたということだろうか。

 私は彼女に言われるまま、藪の近くから尖った石ころを拾ってきて、穴を掘りはじめた。地面は思った以上に硬く、作業はなかなかはかどらなかった。もうひとつ別の石ころも見つけてきて、それを使って続きを掘った。先ほどよりはペースが上がり、穴は深みを増してきたように思えた。私は一息ついて、女のほうを見上げてみた。彼女は黙ったまま、首を横に振った。私はもう一度、作業に没頭した。汗が吹き出てきた。いったい、私が埋めるものは何なのだろう。晴れた十二月の一人で過ごす日曜日? なんとなく間抜けな気がする。それを、どうやって埋めるというのか。そんな日曜日は、どこにあるのだ? 本当にそんなものを埋めることができるのだろうか。
 穴を掘り終えたとき、女はもう一度、「どんな気分の日ですか」と私に訊ねた。「嬉しいですか、悲しいですか」
 私は少し考えて、「そうですね、どちらかといえば、清々しいような、身が軽くなったような感じの日だと思います」と答えた。
「ありふれた日だと思いますか」
「え?」
「特別な日?」
「ありふれた日です。どこにでもあるような。でも、どこか特別だという気もします。そのありふれた日は、二度と来ない特別な日なんです」
「よくわかりました。埋めましょう」
 女と私は、私の日曜日を穴の中に埋めた。女が私の心の中からそれを引っ張り出し、二人がかりでそれを持ち上げ、それから穴の中に置いた。ハムスターを埋めるのとはまるで違う感覚だった。それは死んでもおらず、生きてもいなかった。手で土をかけて穴を埋めながら、私は誰のことも考えていなかった。ただ、冷たく乾いた土の匂いを吸い込んで、しだいに覆われていく冬の日曜日を、その内側で微かに揺れ動く、私自身の小さな影を見つめていた。

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