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蓮火

 間断なく灰白色の砂が、カーブした分厚い壁の隙間から染み出してくるようで、そこにときどき小石が削られてできた黒いかけらが混じり散っていく。消火活動に使う粉粒を買ってくるように言いつけられたあなたは、火消しが回している――というよりはただ監督し、いくつかのスイッチで操っているだけの――巨大な石臼のたてるジリジリという音を聞きながら、キリギリスが翅を擦り合わせるところを思い浮かべる。涼しげなのに、重い荷物を引きずって坂を上るような、不思議な音だ。火消しは、臼で挽いた粉をカーキ色の紙袋に詰めて、無言であなたに手渡す。それを受けとっただけでもう、火は消えかかっているように思える。
 小さいうちなら、この粉をかけさえすれば、火は跡形もなく消える。乾いた紙袋から伝わる冷たさが、あなたの内を水で覆うように安心で満たす。でも、小さいうちというのは、どのくらいの小ささのことだろう。蝋燭の先に灯るくらいなのか、暖炉の中で眠たそうに揺れているくらいか。たとえば夜空で燃えるアルタイルは小さいのだろうか、大きいのだろうか。
 小ささの見え方について、誰を相手に議論するのがいいだろうかと考えながら帰り着いたとき、スイレン池の周りに大人たちが何人か集まっているのが目に入る。口々に喋りあっているが、それぞれの声は低く、近づかないと聞き取れない。
 ――六十年ぶりですよ。
 ――いや、百年は経ってるさ。
 ――前のあれのときは、少し燃え広がりましてね。
 大人のうちの誰かが、あなたから袋を受け取り、スコップで消化粉をすくって池に入れる。撒くという感じではなく、水中深くに向かって突き入れるようにして。それ自体がひとつの火であるかのように、ぼうっと咲いている乳白色のスイレンの花の脇で、粉は真っ直ぐ、ひとかたまりになって沈潜していき、葉の陰に見え隠れしながら池の底で燃えている冷たい小さな青い焔に降りそそぐ。
 消えろ、消えろ、消えろ。蓮火は大きくなったら厄介だ。大人たちがそう言うから、あなた自身も、火が消えてくれるようにと願っているような気がする。大きくなった火の、何が厄介なのかはわからない。でもそれが消えてくれればいい。
 消えろ、消えろ、消えろ。
 生まれる前の、何事もなかったときと同じ世界に戻るんだ。気づけばあなたは、心からそう願っている。命は水中で燃える火のようなものだろうか。
 火が完全に消えたかどうかわからぬうちに、むこうから走ってくる人影が見える。なかなか暮れきれない夏の夕空を背景にして、何か大声で叫んでいる。あなたは勢いに気圧され、後ずさるための脚の筋肉を緊張させる。大人たちが話す声を聞いている。
 ――交代制でやりましょう。
 ――今夜さえ乗り切ればなんとか。
 ――なんとか、なるもんですよ。
 百年ぶりの蓮火に、村の人たちはあいかわらず低声ながらも、どこか高揚しているようにも見える。それをあなたは見逃しはしない。祭りが始まる前の、神輿が担がれて行くのとは離れた路地の、打ち水で濡らされたアスファルトの黒さをあなたは思い出す。誰もいない、ひっそりとした通りを行く。脇道から飛び出した少女とぶつかりそうになり、そのとき顔を撫で去った風の、飴のような甘い匂いと、少し行ってからこちらを振り返る少女の影になって見えない顔。彼女は走り去る。
 それは、ついこのあいだに起こったことの記憶として、まだひそやかな熱をおびて胸をしめつける。やがて、それがひとりでにやってきて、ひとりでに居付いてしまった誰かほかの人の記憶ではないかという気になる。
 あたりが静かになり、大人たちも散り散りに消え去ったあと、あなたは池のほとりに陣取って水の中を覗き込む。薄闇を溶かしつつもそれまで澄明さを保っていたようだった曖昧な色の水面が、一瞬で黒く濁ったように思えたのは、あなた自身の影が映り込んだからで、その奥には火も夕空の反映も見えはしない。あなたはそっと水に触れてみる。そんなはずはないのに、水が逃げた気がする。
 池の水が意思を持ち、シャボン玉大くらいの揺れる無数の球体となって宙を飛び、よそへ引っ越すところをあなたは想像する。ひとつひとつの水の玉が、種子のように火の種を内包し、どこかべつの土地へ運んでいく。池は生きている、とあなたは思う。
 行きついた土地にも火消しがいて、大きな石臼を回している。べつのあなたがカーキの袋に入った消火粉を受け取り、池の底のほうで静かに燃える火に向かってスコップで挿し入れる。行きついた土地はあちこちにあり、あちこちの火消しが消火粉を挽き、あちこちの大人たちが見張りを務め、あちこちのあなたが夏の夕暮れの少女とすれ違う。
 たくさんのあなたのうちの、たったひとりのあなたが、また火を見つける。池はあなたの中にある。消えきらず、今もどこかでくすぶりつづけているたくさんの火があり、池の底がつながっているように思う。それがどのくらいの小ささであろうと、完全に消えないうちは火だ。
 消えろ、消えろ、消えろ。
 いつしか口癖の呪文ように唱えていた言葉が耳に流れ込んでくるが、それはどこかしら反対に向いた言葉みたいだ。消えるな、消えるな、消えるな。天邪鬼があなたを、あなた自身の池へ突き落とす。はっとして現実に引き戻されたとき、少しだけその小ささを護ってみてもいいような気がする。
 あなたは火を覆い隠す。スイレンや、オオオニバスの葉をならべて。

 

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