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わたしの日

 今日が何日目の「わたしの日」なのか計算しようとして、わたしはペンと紙を手に取る。しかし空白をほんの少しでも埋めることはできないとわかる。計算式が言うことを聞かない。
 看護師の服を着た女が入ってくる。
「調子はどうですか」
「それほど良くはないと思う」
 女はわたしの体温を測り、二言三言話し、それから部屋を出ていく。
 ここへ来る以前には、「わたしの日」について、もっとよく考えることができた。わたしはそれを日々計算し、記録し、世界の運行に役立てる仕事をしていた。この国家に属するすべての人間が、「わたしの日」に従って生活を営んでいた。もちろん、あの看護師の女だって同じだ。この国の、生きている人間の数だけ「わたしの日」が存在し、それぞれに割り当てられ、人々は安心して自分を保っていることができる。わたしでない人間などいないのだ。
 だがすべては一変してしまった。戒厳令が敷かれ、計算省は軍の支配下に置かれた。計算は強制的に止められ、割り当ての供給もストップした。そして、わたし以外の人間はわたしではなくなった。それとも、わたしだけがわたしに取り残されてしまったとでも言えばいいのだろうか。とにかく、こうして計算することがうまくいかない以上、わたしがわたしでなくなる日も、そう遠くはないのかもしれない。
 当てずっぽうに、今日が九千七百二十五日目の「わたしの日」だということにしてみる。ここへ来て何日経つのかすらわからないので、ほかにどうしようもない。正気を保つには、多少の自己欺瞞だって必要なのだ。
 わたしではなくなった人間たちはどこか奇妙だ。もう数えなくていいし、もう生きていなくてもいいのだから。それでもかれらは生きつづけている。これは予想外の事実でもある。わたしであることを失ってなお、人間があたかもわたしであるかのようにふるまい、わたしであるかのように生活を送るなんてことが可能なのだろうか。たとえばあの看護師は、いったい何を拠り所にして毎日仕事に励み、食事を楽しみ、だれかのことを大切に感じることができるのだろう。そもそもじっさいに、何かを感じるということがあるのだろうか。
 かれらがわたしではなくなってしまったせいで、わたしはかれらが何かを感じているかどうかがわからなくなってしまった。かつて、かれらがわたしだったころ、わたしはわたしが感じているすべてについて当然のように理解することができた。しかしいまでは、わたしはここにいるわたしだけが唯一のわたしなのだ。おまけにだれ一人計算するものがいない。
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 これがわたしの今日だ。わたしだけの「わたしの日」を書き出してみても張り合いがない。それはもう、大きく胸いっぱいに吸い込んで味わうような清澄な数字ではない。もうひとり、あとひとりだけでいいからわたしがほしい。まるで、わたしであるということが犯罪であり、わたしでいつづけることが悪徳であるかのようだ。かれらはもしかしたらわたしを逮捕するかもしれない。いや、もはやわたしはここに捕らえられているのだとも言える。
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 わたしの今日が、でたらめの今日だとしても、わたしは依然わたしだ。試しにあの看護師の「わたしの日」を計算してみたい。計算式が機能しないので当てずっぽうに言うしかないだろう。だが、それを言ったところで何になるのだろう。女がもはやわたしではない以上、今日が第何日目だろうとわたしは戻ってきやしない。
 ここには、わたししかいないのだ。わたしがいるのは、わたししかいない世界で、そこはわたし以外しかいない世界なのだ。ようするにここには、わたし以外しかおらず、わたしはどこにもいない。
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 これは「わたし以外の日」だ。わたしの関節がはずれた日。はずれそこなった日。何の日でもない日。特定の数字は意味をなさない。その裏にある代入可能な任意の記号が透けて見えるようだ。式は計算をやめるだろう。すべては溶けて、わたしはわたしではないものの影になる。進軍が待っている。わたしではないものたちの進軍が。

 


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