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忘れ物

 絶対に忘れ物をしない女が、人生でたった一度だけ忘れられない忘れ物をした。いつもと変わらない一日の、いつもと変わらないはじまりだった。
 女は自分が忘れ物をしたことに気がつかないまま家を出た。いつもどおりの時間の、いつもどおりの快速電車に乗った。会社に着くと同僚に「おはよう」と言い、コーヒーメーカーで一杯のコーヒーを作った。瓶詰めの茶色い色をした角砂糖をひとつ取り出し、コーヒーの中に落とした。午前中、四種類の書類に目を通し、一種類の資料を作成し、三本の電話の対応をした。キッチンカーで鶏の胸肉をローストして野菜とライスを添えたランチボックスを買った。オフィスの休憩室で、同じ部署の同い年くらいの女と食事をした。相手の女はいつもと同じように手作りの弁当を食べた。何百回も見たことのあるふりかけがかかっていた。
 二人は絶対にSNSだけはしないと決めた同盟だった。もし、どちらかがそれに手を出したら、関係は解消され、二人は永久に一緒にランチをすることはなくなるだろう。
「あんなのバカよ」と女は言った。
「ほんと、バカよ」と相手の女が言った。
「どうしてバカかわかる?」
「どうしてバカかなんて、言われないでもわかるわよ」
 午後のコーヒーを淹れ、瓶から角砂糖をひとつ取り出し、カップの中に落とした。二種類の書類に目を通し、二種類のグループとミーティングをし、三種類の電話対応をした。今日一日で二種類のタスクがあらたに生まれ、一種類の懸念材料にあらたに追い詰められた。だが明日にはきっと見通しが立つだろう。最後にスケジュール帳をもう一度確認し、女は会社をあとにした。
 Yと待ち合わせている店の前で立ち止まり、腕時計を確認した。予定時刻より十分は早かったが、十五分早いわけではなかった。店内で待っていると、予定時刻より二分前にYが現れた。
「ごめん」
「まだ時間前だよ。わたしが早く来ただけ」
「いや、来週の木曜日」
「無理になった?」
「いや」
「なんで?」 
「木曜日が金曜日の前日だってこと忘れてた」
 女はしばらく黙り込み、Yの顔を探るように見つめていた。
「金曜の朝早いとか」
「そうじゃないんだ。今日ずっと、来週の木曜日について考えていた。着ていく洋服は何がいいか、夕飯はどこの店を予約しようか、タクシーで移動すべきか、バスに乗るべきか。頭の中で、あらゆることをシミュレーションしたよ。きみが喋りそうなセリフまで。でもぼくは肝心なことを忘れていた。ついさっきそのことに気づいたんだ。気づいただけましだけど」
 そこまで言ってYは一息つき、ビールを二口飲んだ。
「肝心なことって、その、木曜日が金曜日の前日だってこと?」と女は思い切って訊ねた。ビールを二口飲んだ。
「そのとおり」とYは言った。
「でも、その何がごめんなの?」と女は言った。
 すると、Yは驚いたように目を大きくし、「え」と声に出した。「ごめん、なんだっけ?」
 そのあとも二人はたくさんの話をし、たくさんのビールを飲んだ。飲みすぎて、ビールのほうが謝るくらいたくさんのビールを飲んだ。それでも女は一切記憶を失くさなかったし、しらふのときの八割五分ほどには理性を保っていた。明日の朝には十割に戻るから、何も忘れ物などするはずもなかった。
 すべては整然と鞄の内側に場所を占めていた。何がどこにあるか、物の場所を女はつねに感じとり、何かひとつでもあるべき場所にないとわかれば、即座にそれを取り戻した。たとえ酔っ払おうとも、髪留めひとつ忘れたことのない女だった。
 Yと別れたあと、女はいつものルートで電車に乗り、途中で快速電車に乗り換え、何百遍も繰り返し降車してきた駅のプラットフォームを踏んで歩いた。家に着いて洋服を脱ぎ、ため息をつき、シャワーを浴びてスキンケアをし、髪を乾かした。鏡で自分の体を点検し、明日のことを考え、今日あったことを考え、ZOZOTOWNのカートに入れておいた新しい洋服について考えた。
「あんなのはバカよ」と声に出してつぶやいた。
 いつもどおりの夜だった。すっかり落ち着いて、あとは寝るだけというときだった。女は今日、一生に一度の忘れ物をしたまま家を出たことに気がついた。はじめはなんとなく、しだいにそれが確実で取り返しのつかない忘れ物だったという緊張感が押し寄せてきた。自分が忘れ物をしたことはわかったが、何を忘れたのかはわからなかった。枕元に置いたままの読みかけの本を持っていこうとして忘れていたのだろうか。つけていこうとしていたピアスを忘れたのだろうか。換えのコンタクトレンズ、予備の頭痛薬、携帯電話の充電を完了していくのを忘れたのだろうか。そのどれでもなかった。それはクローゼットの前の冷たい床の上に静かに転がっていた。それは女のほくろだった。胡椒の実みたいだった。以前、Yに言われたことを思い出した。「ここにほくろがあるね。首の後ろの下のほう」首の後ろの下のほうに手を伸ばした。自分では、ちゃんとそのほくろを見たことがなかった。合わせ鏡をして、襟足を確認するときに、視界の隅にそれとなく映っていたのかもしれない。体についているときよりも、床に落ちているほうがそれはほくろらしく見えた。
 忘れたものはしかたがない。朝、もしそれに気づいたとしても、どうすることもできなかったに違いなかった。元の位置につけることなんかできっこない。女は接着剤でほくろをつけるところを思い浮かべた。ティシュペーパーにくるんでごみ箱に捨てたらいいだろうか。
 ほくろを忘れたせいで、今日一日が台無しになったような気がした。よりによって、自分の体の一部を忘れるなんて。Yに話すところを想像した。
「ごめん」
「なにが?」
「ついに忘れ物をした」
「絶対に忘れ物をしない女もいいけど、少しくらい忘れ物をする女も魅力的だよ」
「何を忘れたかきかないの?」
「それって、だいじなもの?」
 女はほくろをティシュペーパーでくるみ、ごみ箱に捨てた。布団に入り、わたしはほくろ以外のものは、絶対に忘れ物をしない女なのだ、と自分に言い聞かせた。ほくろ以外のものは絶対に。

 

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