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裸足で走る女

 今朝、仕事に行くために駅まで向かう途中で、ランニングをしている女に出くわした。女は裸足であるということ以外、どこから見ても完璧なランナーだった。ランニング用の帽子をかぶり、ランニング用のサングラスをかけ、ランニング用のウェアを上下に身につけていた。しかし、なぜかランニングシューズだけは履いていなかった。
 東京は朝から猛暑で、一日のうちでランニングに適した時間帯などあるはずもないと思うのだが、どんなときでも走る人間は走るのだし、仕事に行く人間は仕事に行くのだ。
 こんな日に裸足で走れば、絶対足の裏が熱いだろうと思った。それに、ここが住宅街の舗装道路とはいえ、どんな小さな危険物が落ちていないとも限らない。細かな石の粒を踏んだだけでも痛いに決まっている。リポビタンDの蓋を開けたあとの、細長くくるくる巻いた、切れ味の鋭いアルミのリボンが、駐車場の近くに転がっているかもしれない。干からびたアブラゼミの死骸が、腹を見せてひっくり返っているかもしれない。
 いったい、なぜ彼女は裸足で走っているのだろうか。私は駅にたどり着くまでに、いくつかの理由を考えた。
 まずひとつは、その女が裸足生活主義者であるという可能性である。裸足生活主義者は、日常のいかなる行為も裸足でおこなうことを第一方針としている。家の中では当たり前のことすぎて話にならない。彼らが本領を発揮するのは屋外においてである。通勤通学のさなか、歩く道すがら、駅のエスカレーター、車のアクセルを踏む足、自転車のペダルを漕ぐ足、ショッピングモールの滑らかな床の上、音を吸い込むカーペットが敷き詰められた映画館の暗闇の中、誘導灯がひっそりと彼らの裸足の足を浮かび上がらせる。われわれが気がついていないだけで、彼らは、社会のあらゆる場所に潜んでいるのだから、ランニング中の女が裸足生活主義者だったとしても何もおかしくないのだ。
 次に考えられる理由は、シンプルにシューズを履き忘れたというものだ。女は朝起きて、顔を洗い、ご飯と味噌汁と納豆と卵焼きを食べ、ランニングの格好に着替え、日焼け止めクリームを塗り、走るコースについて検討をしながら玄関まで行った。往路はいつものように、南へ下って川沿いのコースを進んでから、今日は少し趣向を変えて公園の東側をぐるっと周って帰ってくる道を選ぼう。あのあたりは木々が生い茂ってきっと日差しもマシなはずだから。それとも、坂を上って高台からいっきに街道を目指そうか。負荷は増すけど、眺めがいいかもしれない。いずれにせよ、まずは川沿いだ。いつのまにか玄関の扉を開け、鍵をかけ、そしていざ走り出したときには、靴を履いていなかった。戻るのも億劫なので、彼女はそのまま最後まで走り抜く選択をした。
 三つ目の理由は、なんらかの事情で女は裸足で家を出ざるをえなかった、もしくは走っている途中で、シューズを脱がざるをえなかったというもの。飼い犬がどこかに隠したとか、底が剥がれて使い物にならなかったとか、靴擦れの痛みに堪えられなかった、あまりに高級なシューズだったので強盗にあった、靴を履いたら殺すという強迫文が郵便受けに入っていた、靴の履き方を忘れてしまった、などもこの理由に当てはまるだろう。
 そしてもうひとつのもっともらしい理由は、女が気まぐれでわざと靴を履かなかった、もしくは途中で脱ぎ捨てたというものだ。気まぐれで、というところがポイントで、本来は裸足生活主義者でも忘れん坊でもない女はふと、裸足で走ったらどんな感じだろうかと思いついた。心地よいかもしれないし、非常に不快かもしれない。何か新しい発見があるかもしれないし、とても退屈で憂鬱な気分になるかもしれない。ポジティブに考えれば、きっと野生に還ったみたいな感じがして楽しいだろうとも思う。思い立ったのだから、今日は裸足日和に違いない。でもけっきょくは、実際に裸足で走ってみないと、それがいいものなのか悪いものなのかわからないではないか。
 こうして、女はさまざまに考えられる理由のどれかひとつによって、あるいは、さまざまに考えられるすべての理由によって、裸足のランナーとなったのだ。私はどの理由がもっともらしいのか、ひとを納得させるのにじゅうぶんか、駅に向かうあいだじゅうずっと考えていた。
 職場に着いたら真っ先に、同僚に裸足でランニングをしていた女について話すだろう。今朝、こんな光景を見たんだ。裸足である以外は完璧なランナーが、突然目の前を横切っていった。君ならわざわざ追いかけていって「どうして裸足なんですか」と尋ねてみる気になるかい? 私はそのときはそんな気持ちにはならなかった。でもそれからずっと、彼女のことが引っかかって頭から離れないのだ。
 午前中のミーティングのあいだも、午後のデスクワークのあいだも、どうしてあの女が裸足で走っていたのかと考えてしまうだろう。裸足で走らざるをえない、やむにやまれぬ事情があったのか、それともあえて裸足で走っていたのか……。熱いし、痛いはずなのに。わざとなのか、しかたなくなのか。楽しんでいるのか、不愉快なのか。
 そんな堂々めぐりに陥りかけて、いや待てよ、と私は思う。もしかしたら、女はたしかにランニングの格好をしてはいたが、なにもランニングをしていたとは限らないのではないか。何か事情があって、裸足で外を走らなければならなかった瞬間に、たまたまランニング用のウェアを着ていたというだけなのではないか。
 女がランニングをしていたのではないとすれば、彼女はいったい何をしていたのだろう。彼女が走っていたというのは確実だ。走ってはいるけれどランニングではない、とはどんな可能性が考えられるだろう。忘れ物をとりに家に帰る。目的地に行くのに遅刻しそうになっている。ただ走りたくて走る。
 ただ走りたくて走るというのはランニングとは違うだろうか。たとえそこに、健康上の必要や運動大会での目標などが存在しなかったとしても、それはランニングにはならないだろうか。忘れ物をとりに家に帰ったり、遅刻しそうになって走ったりすることは、純粋なランニングとはいえないまでも、走っているのだからやっぱりランニングになってしまうのではないか。
 私は女に尋ねてみるところを想像する。
「どうして裸足で走っているのですか」 
 女が言うかもしれない答えが思い浮かばない。言わないかもしれない答えならいくらでも考えつく。
「靴を忘れたんです」「ただたんに、裸足の感触を確かめたくて」「靴が嫌いなんです」
 私は肝心なことを思い出す。というより、肝心なことが思い出せない。メロスはセリヌンティウスのもとにたどり着いたとき、ほとんど真っ裸だったはずだけど、はたして裸足であっただろうか。裸足だった気もするし、裸足ではなかった気もする。裸体とは書かれていたけど、裸足とは書かれていたかどうか怪しい。山賊も濁流もものともしない正義の韋駄天は、全裸にシューズだけ身につけた、逆裸足女だった可能性がある。
 ということは、私が出会った女がもし、誠実で勇敢なランナーとしてのメロスの崇拝者であったとしたら、リスペクト対象であるメロスと自身を重ね合わせるあまり、無意識に逆メロスを演じ、彼女なりのセリヌンティウスのもとへ、かけがえのない友のもとへ、一目散に駆けていこうとしていたところだったのではないか!
 腑に落ちたわけではないが、推理にひとまず区切りがついたところで、ちょうど私は駅に到着した。駅前には、ずらりと人がこちらを向いて横並びに並び、横断幕を掲げて待ちかまえていた。
「靴を脱いでください! 靴を脱いでください! 本日は世界裸足デーです! みなさん、靴を脱ぎましょう!」
 私は耳を疑った。横断幕には〈世界裸足デー・靴を休めて足には自由を〉と記されている。
 え、外で? 知らぬ間に、世間では裸足主義者が跋扈しはじめたというのだろうか。それとも反転メロスの推し活か。
 裸足になることが、足にとっての自由なのか定かでなかったが、もはや私には考える時間もなかった。靴を入れるためのビニール袋を手渡され、問答無用で履いていた革靴を脱ぐはめになった。
「靴下も脱いでください! 靴下は蒸れますよ! 足指を開放せよ! そこのかたもほら、地に足をつけましょう!」
 私は改札を通り、いつもの満員電車に乗り込んだ。相変わらず窮屈で、体が押し潰されて息もできなかったけど、裸足で踏む電車の床から伝わる振動は、思いのほかひんやりとして心地良かった。私は、この感触を足の裏でいつまでも楽しんでいようと思った。これが勇者というものなのだ。

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