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 右眼の後ろのずっと奥のほうに兎が棲んでいる。
 兎はそこで、じっと待っている。わたしが見た物を食べるために。ニンジンはいらないと言う。何が食べたいのかと聞くと、「ぼくは悲劇が好きだ」と答える。「ただし、シェイクスピア以外の」
「わたしは何を見ればいいの」
「とにかく、そこらへんの悲劇を見つけてきてくれたまえ」
 おかしな喋り方をする兎だ。そこらへんなどと簡単に言うけれど、わたしの身近に悲劇はなかった。仕方なく、ニンジンやらなにやら野菜を見るために、スーパーマーケットへ行った。
「今日はこれで我慢して」
「ぼくは野菜が食べられないんだ。胃腸が受けつけないらしいんだよ、なんかの不具合でね」
「野菜がだめなら、肉や魚はどうなの」
「もっと無理。ぼくは兎だぜ、そんなの食べるわけないだろう」
「悲劇なんていちばん食べそうにないじゃない」
 だいいち、悲劇を見るってどういうことだろう。観劇をしなければならないのだろうか。それとも、話を聞くとか、本で読むとかでも問題ないのだろうか。
 兎はある日、わたしの眼の奥に棲みつくようになった。たぶん、わたしがペットショップで兎を見たからだろう。昼間はじっとしていることが多いみたいだけど、夜中にがさごそ音をたて、なんの用事があるのか知らないがあちこち動きまわっている。そのせいでわたしは不眠症になった。わたしが見た物を食べようと、端から口にして試しているようだった。悲劇なんて見た覚えもないのに、どうしてしきりにそれを欲しがるのかわからなかった。兎が毎晩、涙を飲むせいで、わたしの眼球はすっかり乾いてしまった。涙で晩酌するのが唯一の癒しでね、もっかのところ、と兎はいつか言っていた。ストレスが溜まるんだ、とも言っていた。そこにいるだけなのに、どうしてストレスなんか溜まるのだろう。
「きみがいろんなものを見すぎるからだ」と兎が言った。
「だって、しょうがないじゃない、生きてるんだから。なんだって見るにきまってるでしょ」
「ときには、見ない、という選択だって必要だよ」
「そしたら、あなた、何も食べられなくなるよ」
「ふん、夢を食べるさ」と兎は言って奥のほうへ引っ込んでいった。
 まるで獏みたいだ。悲劇を見ろと言ったり、見すぎるからストレスが溜まると言ったり、なんてわがままな兎なんだろう。いなくなってしまえばいいのに。目障りだ。
 わたしは焼肉をたらふく食べて、兎を追い出そうとした。一切れひときれ、口へ運ぶ前に、それらの肉をバカみたいに凝視した。ほんとうは、兎は肉も野菜も食べているにきまってる。でなければ、あんなにまるまると太ってるわけがない。
「見てばかりいないで、早く食べなさい」と父親が言った。
 見てはいるけど、食べてもいるのだから、黙っていてほしい。最後に冷麺とバニラアイスクリームも見た。
 その晩、兎はやけにおとなしかった。きっと腹を壊して冷や汗でもかいているのだろう。上ハラミ三人前をほとんど一人で見続けてやったのだ。表面と、ひっくり返して裏面と、見ているこっちが胃もたれしそうなくらい、何度も繰り返し。これで兎もうんざりするだろう。尻尾を巻いて逃げ出すに違いない。巻くほどの尻尾があればの話だけれど。
 翌朝、わたしは目を覚まさなかった。正確に言えば、目は覚ましたけれど、何も見ることができなかった。そこにあるのは、まったくの無の世界だった。光も暗闇もない。だから、目を覚ましたのかどうかも定かではなかった。
「きみのことは見損なったよ」と兎の声が聞こえた。目の奥からではなく、どこか部屋の外みたいな場所から響いてくるようだった。
「ねえ、待って。どこへ行くの」とわたしは言った。
「きみが追い出したんだろう」
 兎はどこかへ消えてしまった。世界が見えなくなったことは、ある種の悲劇かもしれないが、その悲劇も、もう見なくてすむ。あんなに食べたがっていたものがここにあるのに、あいつはもういないのだ。わたしは、夢の味見をしてみようと思って、開いているかもわからない眼を閉じた。夢は、見えなくなった世界より、もっと見えなくて、ふんわりして、シンプルだった。さらに固く眼をつむると、行き止まりの壁の隙間から、誰かの生ぬるい涙がとめどなく溢れてくるようだった。
 


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