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奇寿

A それである日、彼女は歳を取らなくなったの。もうじゅうぶん摂ったから、わたしは歳を録り終えたのよ、と清々しいような声でそう言ったのを覚えてる。ええ、たしかにそう言っていた。

A 歳を捕り終えるということが、いったいどんなことを意味しているのか、そのときの私にはわからなかった。でも、それはありうることだと思えたし、なんて言ったらいいのか、ごく自然なことなのだという直感があった。

A 考えてみたら、どうして私たち歳なんて撮るの? あとでどうせ無駄になるとわかっていて、それでも欲しくなってしまうスナック菓子の付録のシールを蒐集するみたいに。

A 私たちは数字の書かれたそのシールを貼る場所でいつも悩まされる。結局はどこにも貼られずに、シールは束ねられ、輪ゴムでぐるぐる巻きに留められて、抽斗の奥にしまわれる。

A あるとき、何かの拍子に抽斗を開け、光沢を失ったシールの束に気がつく。埃と狼狽の匂いが立ちこめ、慌ててはねのける。それはただの数字の書かれたシールの束にすぎない。とにかく、歳なんてものは、採りたい人だけが好きに盗ればいい。

B C'est très étrange (それはとても奇妙なことですね)、と彼は言う。せとれぜとらんじゅ。ええ、じつに、エトランジュなことです、歳を取らなくなるというのは。

B で、いったい何歳になって、その人は歳を摂らなくなったというのですか。もう、けっこうなお歳だったのではと推測しますけれど。ぼくの予測では、きっと百歳は超えていたでしょう、なにしろ、それ以上撮ることがもうそこで完了してしまうくらい、すでに歳を採っていたわけですからね。

B この国では、キリのいい歳を執るごとに、お祝いをする風習があります。録った歳ごとに名前がついていて、還暦とか古希とか、傘寿とか卒寿とか、ベージュなんてのもあった気がしますよ。

B あなたの言うとおり、それらはただのシールなのかもしれない。ぼくならしまわずに貼ってしまいますがね。たとえば何十巻もの漫画シリーズの古びた裏表紙です。どんなに歳を録っても、色褪せたり削れたりしたシールの痕跡が残るに違いない。少しくらい盗りすぎたとしても困らないでしょう。

 ところで、という声と、ねえ、というもうひとつの声が同時に重なって響く。それは秋の短い午後のことで、黄金色の光が窓から滲んでいる。

A そうね、エトランジュなことには違いないかもしれない。でも、とてもというより、少々じゃなくって? C'est "un peu" étrange, mais pas "très" étrange.

A 百歳より先のゾーンことなんて、とてもわからないもの。

B ですからぼくは、あまりに歳を獲りすぎて、それ以上歳を執らなくなってしまう、つまりそれっきり年齢が消失してしまう、その節目に――もし節目なんてものが存在するのならですが――、奇妙の奇に寿ぐという漢字を書いて、えとらんじゅという名前をつけたいと思うんです。それが、おめでたいことなのかどうかはわかりませんけれど。

A 自然にそうなっていくの、もうそれでおしまい、というところまで。何かが、それより先にはもう進まなくていいと、あなたはもうじゅうぶんやり遂げたと、ねぎらうようにして、それを踏みとどまらせる……。

B 先に去っていったのはどっちなんだろう、歳と、その人と。とり残されたのは? ずっと続いていたものが、そこで終わるんだ。それは、とても奇妙なことだよ。

A それは、少しだけ、奇妙なことよ。

 声はそれきり聞こえなくなる。最後のシールを貼り終えたみたいに。

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