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アンティークコインの世界 | レオポルト1世のハーフターレル銀貨

今回も神聖ローマ帝国下で発行されたコインを紹介していく。神聖ローマ帝国のコインはバラエティが多く、非常に面白い。また、彼らによって発行された大型銀貨は無骨だが、何とも言えぬ魅力を秘めている。繊細さで言えば、他の時代や国家のものの方が優れているのかもしれない。それでも、存在感という点では最高峰の満足感を誇る。下記、今回紹介するコインの基本スペックを最初に示す。

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図柄表:レオポルト1世
図柄裏:双頭の鷲紋章
発行地:神聖ローマ帝国ハンガリー王国クレムニツァ造幣局
発行年:1691年
銘文表:LEOPOLD : (Madonna and child) D : G : R : I : S : AV : GER : (coat-of-arms) HV : B : REX •
銘文裏:ARCHID : AV : DVX • BV : MAR : MOR : CO : TYR : 16 91 •
額 面:1/2ターレル
材 質:銀
直 径:37.0mm
重 量:14.3g
分 類:KM 251

ハーフターレルまたは1/2ターレルとも表記される本貨は、ターレル銀貨の半分の額面に相当する。特徴としては直径がターレル銀貨よりも一回り小さく、重量も半減した造りとなっている。

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表側には軍装したレオポルト1世の姿が描かれている。また、彼の胸には金羊毛騎士団の紋章が飾られている。この騎士団は、ブルゴーニュ公フィリップ3世によって創設された世俗騎士団のひとつだった。

金羊毛騎士団
カトリック教会を守護する騎士団。ブルゴーニュ貴族を象徴する地位でもある。聖アンデレを守護聖人に定めていた。異端宗教・宗派の排除に積極的で、メンバーはカトリックに限定されていた。

本貨は「ハプスブルク顎」と呼ばれる身体的特徴が顕著に現れた肖像で、レオポルト1世本人の容姿を忠実に再現している。ハプスブルク顎は、ハプスブルク家特有の身体的特徴のひとつで、現在では「下顎前突症」と呼ばれている。特に欧米人を中心に現れる顎変形症の一種で、下唇が上唇よりも前に突出してしまい、噛み合わせが悪くなるなどの弊害が生じる。ハプスブルク顎は、近親交配が繰り返されたために生じたものと考えられている。血の高貴さを保持するためにハプスブルク家は、近親結婚を繰り返していた。結果、病弱な子どもたちが生まれることが多かった。

下記、表側に刻印されているラテン銘文と英・邦の試訳を示す。

:LEOPOLD : (Madonna and child) D : G : R : I : S : AV : GER : (coat-of-arms) HV : B : REX •
:Leopold, by the grace of God, Emperor of allthe Romans, Ever Augustus, King of Germany, Hungary, and Bohemia
:レオポルト 神の恩寵による 全ローマの皇帝 常に尊厳なる者 ドイツ、ハンガリー、ボヘミアの王

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銘文の間には聖母子像と盾紋章が組み込まれており、非常にエレガントなデザインである。上記の写真は該当箇所をアップして撮影したものである。小さいながらも聖母マリアが赤子イエスを左手で抱き、右手には王笏を握っている姿がしっかりと表されている。これだけ小さい面積の中でモティーフを忠実に再現している点に彫刻師の腕前の高さを感じる。

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裏側には王冠を戴く双頭の鷲が描かれている。双頭の鷲は笏と剣を持ち、胸に勲章を付けている。フィールドには「K B」というミントマークが見られる。これは、本貨が神聖ローマ帝国ハンガリー王国クレムニツァ造幣局で製造されたことを示す刻印である。

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下記、刻印されているラテン銘文と英・邦の試訳を示す。

:ARCHID : AV : DVX • BV : MAR : MOR : CO : TYR : 16 91 • K B
:Archduke of Austria, Duke of Burgundy, Margrave of Moravia, Count of Tyrol 1691 Kremnits mint
:オーストリア大公 ブルゴーニュ公爵 モラヴィア辺境伯 チロル伯爵 1691年 クレムニツァ造幣局

レオポルト1世は、フェルディナント3世とスペイン王フェリペ3世の王女マリア・アンナの間に生まれた。彼は1618年から1648年にかけて行われた三十年戦争で荒廃した領土を継承した上、オスマン及びフランスからの攻撃を受けて国家防衛に苦心した。だが、戦争では苦戦しながらも勝利を重ね、領土を奪還してかつての領域の回復に成功するなど、再び帝国に繁栄と栄光をもたらした。

レオポルト1世は長男ではなかったため、皇帝としてではなく、司教としての教育を受けて育った。だが、1654年に本来の帝位継承者である兄フェルディナント4世が若くして他界したため、帝位継承権が彼に回ってくることとなった。レオポルト1世は学問や音楽を好み、平和主義的な性格の皇帝だったが、国家防衛のため戦争に明け暮れる運命を辿った。

1683年には、かつてからの敵国オスマンにウィーンを包囲されるに至った。彼の治世に起こったウィーン包囲は二度目だったため、これを第二次ウィーン包囲と呼ぶ。レオポルト1世はウィーンから亡命し、バイエルンのパッサウへと逃れた。そして、彼は帝国領域内の諸侯へ救援要請を申し出、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク3世、バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルム、ロレーヌ公シャルル5世、ポーランド王ヤン3世などの軍事支援を受けることに成功した。結果、見事オスマンを押し返し、ウィーン陥落の危機を免れた。ヨーロッパ全体がキリスト教の下に一致団結し、オスマンを撃退した歴史的戦勝となった。

レオポルト1世は遠征の成功でかつてオスマンに奪われた地域の多くを取り返し、衰退しつつあった帝国の歯車にブレーキをかけた。また、彼は部下の将軍たちにも恵まれ、彼らを厚遇した。特にエルンスト・リュディガー・フォン・シュターレンベルク、ライモンド・モンテクッコリ、プリンツ・オイゲン、ロレーヌ公シャルル5世などが秀でた軍才を発揮し、レオポルド1世の下で活躍した。

バイエルン(現ドイツ南部)
ザクセン(現ドイツ中央部)
バーデン(現ドイツ南西部)
ロレーヌ(現フランス北東部)
クレムニツァ(現スロバキア中央部)
レオポルト1世
生没1640年6月9日〜1705年5月5日、在位1658年〜1705年。神聖ローマ帝国皇帝。音楽をこよなく愛し、自ら作曲にも挑戦していたことからバロック大帝とも呼ばれる文芸皇帝。

フェルディナント3世
生没1608年7月13日〜1657年4月2日、在位1637年〜1657年。神聖ローマ帝国皇帝。レオポルト1世の父。彼の治世に行われた三十年戦争で、神聖ローマ帝国は退廃した。音楽をこよなく愛する皇帝で当時の音楽家たちの最大のパトロンだった。父の影響を受け、レオポルト1世も音楽を学んだ。

フェリペ3世
生没1578年4月14日〜1621年3月31日、在位1598年〜1621年。ハプスブルク家の血を引くスペイン王。父はスペイン王国全盛期に君臨したフェリペ2世。

アンナ・マリア
生没1606年8月18日〜1646年5月13日。スペイン王フェリペ3世の王女にして、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の皇妃。政略婚でスペインからオーストリアに嫁いだ。

フェルディナント4世
生没1633年9月8日〜1654年7月9日。フェルディナント3世の長男で、帝位継承権第一位だったが二十歳の若さで他界した。よって、帝位は彼の弟レオポルト1世に継承された。

マクシミリアン2世エマヌエル
生没1662年6月11日〜1726年2月26日、在位1679年〜1726年。バイエルン選帝侯。1683年の第二次ウィーン包囲で解放軍に加わり、オスマンを迎撃することに貢献した名将の一人。

ヨハン・ゲオルク3世
生没1647年6月20日〜1691年9月12日、在位1680年〜1691年。ザクセン選帝侯。即位後すぐに常備軍の設立に取り掛かるなど、軍事強化政策を実施した。1683年には第二次ウィーン包囲戦に参戦し、ウィーン防衛とオスマン撃退に貢献した。

ルートヴィヒ・ヴィルヘルム
生没1655年4月8日〜1707年1月4日、在位1677年〜1707年。バーデン辺境伯。「帝国の盾」と呼ばれた名将。赤色の上着がいつも目立ち、オスマン軍からは「赤」と呼ばれて恐れられていた。

ヤン3世
生没1629年8月17日〜1696年6月17日、在位1674年〜1696年。ポーランド王。レオポルド1世の救援要請を受けて、第二次ウィーン包囲戦に参戦。自ら軍を率いて進軍し、武勲を上げたことからその名を博した。

シャルル5世
生没1643年4月3日〜1690年4月18日。ロレーヌ公。ウィーン生まれのオーストリア貴族。レオポルト1世に仕え、神聖ローマ帝国軍司令官を務めた。

 フィリップ3世
生没1396年7月31日〜1467年6月15日、在位1419年〜1467年。ブルゴーニュ公にして金羊毛騎士団の創設者。これにより、騎士道文化が花開いた。

エルンスト・リュディガー・フォン・シュターレンベルク

生没1638年1月12日〜1701年1月4日。グラーツ生まれのオーストリア貴族。レオポルト1世に仕え、第二次ウィーン包囲防衛軍司令官を務めた。

ライモンド・モンテクッコリ
生没1609年2月21日〜1680年10月16日。北イタリア生まれのオーストリア貴族。レオポルト1世に仕え、神聖ローマ帝国軍総司令官及び軍事参議院議長を務めた。

プリンツ・オイゲン
生没1663年10月16日〜1736年4月24日。サヴォイア家の血を引くフランス生まれのオーストリア貴族。レオポルト1世に仕え、軍事委員会総裁を務めた。
オーストリア大公
従来のオーストリア公(Herzog von Österreich)の公(Herzog)をまとめる公であり、日本では大公の訳が当てられている。この称号の使用は、ルドルフ4世の時代に開始された。元を辿ると、選帝侯の地位を認められなかったルドルフ4世が、その不遇から僭称し始めたことによる。だが、その後、神聖ローマ帝国のフリードリヒ3世によって公式の称号として採り入れられるに至った。ハプスブルク家のしきたりでは、前帝の死後は兄弟で領土を分割統治するか共同統治を行う方針が採られていた。それゆえ、皇帝の子どもは男性であれば大公の称号が自動的に付与された。その後、長子に全ての領地が継承される取り決めとなったが、大公という称号は継続して長子以外の男性にも与えられた。

ブルゴーニュ公爵
フランス東南部の山間地帯ブルゴーニュ地方を統治した大領主の称号。ブルゴーニュがハプスブルク家の支配下に入って以降は、この称号が神聖ローマ皇帝に継承された。

モラヴィア辺境伯
1182年に神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世によって設けられた称号。当時三つに分かれていたモラヴィア地方の公国を統一したボヘミア公コンラード2世に授けられたことに始まる。モラヴィアとは、オーストリアとイタリアにまたがるアルプス山脈東部の地域を指す。

チロル伯爵
1363年にオーストリア公のルドルフ4世がマルガレーテを強制退位させてチロル伯領を強奪した。結果、チロル地方はハプスブルク家の支配下に入り、この称号が後のハプスブルク家の君主たちに付与されるようになった。チロルとは、現オーストリアに位置した地域だった。

ちなみに、本貨はアメリカのコイン鑑定機関NGC社のスラブケースに入れられている。スラブケース入りのコインは真正品であることの証明になるため、多くの収集家に好まれる傾向にある。それゆえ、売買する上では非常に有用な保証となるが、固定用のラバーでエッジが四箇所ほど隠れてしまい、エッジの全体像が見えなくなってしまうデメリットもある。自分が気に入ったコインであれば、ルースでもスラブケース入りでも構わないが、エッジの他、コイン自体の本来の重量感を肌で感じることができなくなってしまうのも残念な部分のひとつである。また、70段階のグレード(等級)によって区別されるため、コインの持ち味というよりは、サーフェイス(表面)の状態によって一律に評価されてしまう。そうした評価法の点に寂しさを感じるものの、スラブケース入りのコインがコレクターに安堵と信用を与えることは間違いない。また、保証の観点以外にもスラブケース内はコインの保存に最適な環境となっており、保管や状態を維持する上でも優れている。そして、現状こうした専門機関による鑑定なしでは、コインはもはや成り立たない世界であることも事実である。

以上、今回も神聖ローマ帝国のコインを紹介した。人類史上最も破壊的な戦争とも呼ばれる三十年戦争による荒廃の上、追い討ちをかけるようにオスマンから第二次ウィーン包囲を受けた神聖ローマ帝国。そんな緊張感のある危機的な時代を乗り越えて発行された本貨は、単に造形が美しいだけでなく、歴史としての重みをふんだんに背負っている。そうした背景を知ると、このコインに対しての見方もだいぶ変わってくる。アンティークコインの底なしの面白さは、ここにある。コインについて知ろうとすればするほど、その歴史にのめり込んでいくことになる。アンティークコインは造形美を楽しむと同時に歴史を学ぶことができるので、自然と教養も身についていく。そうした教養はふとしたところで役立ち、自分に味方してくれる糧となるだろう。


Shelk 詩瑠久🦋



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