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アジカン精神分析的レビュー『ファンクラブ』/分裂する対象、解離するバンド

今年メジャーデビュー20周年を迎えるASIAN KUNG-FU GENERATION。その作品史を精神分析的視点から紐解いていく、勝手なアニバーサリー記事シリーズです。

3rdアルバム『ファンクラブ』(2006.3.15)

『ソルファ』の大ヒット後、1年半で届けられた3rdアルバム。これまでに比べて複雑化した楽曲が増え、リズムやギターワークを工夫し、アンサンブルを丁寧に積み上げて作られたことがよく分かる。オリコン3位、累計売上は25万枚、充分なヒット作と言えるが、内容としてはかなり暗い楽曲が多い。

上記の日記でも書かれている通り、2000年代の真ん中は後藤正文(Vo/Gt)が「誰かの日常を救えるのではないか」という思いを背負っていた時期であり、『ソルファ』前後でロックスターとして、アジカンという偶像を引き受けたことが窺える。しかしその結果として生じた葛藤や苦悩が、『ファンクラブ』をダークな質感に向かわせた。『ソルファ』を経てアジカンが『ファンクラブ』で迎えた1つの結末、そこに至る精神状態を紐解いていきたい。


塞ぐ、諦める、攻撃する

先行シングル「ワールドアパート」はアジカンらしい激しいギターロックだが《想像の世界で君も全部なくして分かったよ》と喪失感に溢れ、「桜草」では《一日中 毛布にくるまって世界から逃げる》という現実逃避が歌われる。心の中に閉じこもり、絶望を展開するのがこのアルバムの特徴だ。

解く鍵もないのに

君に伝うかな
君に伝うわけはないよな

ASIAN KUNG-FU GENERATION「暗号のワルツ」より


アルバムはこのように歌う「暗号のワルツ」から始まる。不穏なリズムと切迫したトーンで、"伝えること"にこだわってきたこれまでの作風を自ら突き離し、聴き手と思しき“”との断絶を嘆いている。難解とされてきた歌詞を"暗号"を自虐しているようなこの曲は理解されないことへの諦めと、それに由来する攻撃性、そして他者を拒む閉塞感を帯びているように思う。


俺ってひどい奴で、この頃の熱狂的な評価とか、一切信用してなかったんだよね。70万枚売れたかもしんないけど、「消費されてるんじゃないか?」「わかってくれてるのか?」みたいな気持ちが、ずっとあって。

書籍 ASIAN KUNG-FUNGENERATION THE MEMORIES 2003-2013、後藤正文インタビュー(P24)より

精神分析家メラニー・クラインの概念に「妄想-分裂ポジション」というものがある。これは悪い態度を取ってくる相手に対し自分も悪い態度を示してまう、といった具合に対象の捉え方で自分も変わってしまう幼児の精神構造を指す。先ほどまで良い態度を示していた"良い対象"だとしても、悪い態度を取られればすぐに"悪い対象"だとみなしてしまう。精神が健やかに育まれればその相手を良い面も悪い面もある同一の対象として理解できるようになるが、うまく育まれなかった場合は対象を良い/悪いが分裂した存在としてしか捉えられなくなり、自分も相手に対して強い不安定さを抱えることになる。

アジカンはメジャーデビュー後すぐに聴き手が急増し、激しい愛憎を同時に浴びた。今まで通りの理解者であり続ける良い聴き手も当然いたはずだが、疑心暗鬼が芽生えてしまい、理解しようとすらせず消費するだけの悪い聴き手の存在を想定するようになる。そうなれば、これまで理解者であることが前提だった聴き手が“悪い対象”に見え始め、アジカンにとって聴き手は良い/悪いが分裂した存在になってしまう。「暗号のワルツ」で“”に対しての混乱が描かれ、『ファンクラブ』が攻撃的で閉塞的な方向に進んだ要因の1つはアジカンが当時抱えていた「妄想-分裂ポジション」にあるのだろう。


解離するアジカン

「暗号のワルツ」や他作品では主に"聴き手"について示してきた""というフレーズだが、このアルバムにおいては”君“が指す対象は複層的だ。親愛なる存在へ向けた「ワールドアパート」、観念的な「ブラックアウト」もある。しかしアルバムが進むと“君”は自分自身の内側に潜むものへと変わる。

傷だけ塞いでも溢れる想いは
君が言う「リアル」とか
言葉では易いさ

ASIAN KUNG-FU GENERATION「ブルートレイン」

世界中を悲しみが覆って
君を手招きしたって
僕はずっと
想いをそっと此処で歌うから
君は消さないでいてよ

ASIAN KUNG-FU GENERATION「センスレス」


ここで言う"君"とは、心の奥底に縮こまった純粋性のようなものではないかと思う。これらの曲では表舞台で消耗し続ける偶像としてアジカンと、シンプルに音楽を楽しもうとするアジカン。その対話が描かれているのではないか。「ブルートレイン」では想いの相違が生じ、「センスレス」では表に立つアジカンが怯えている純粋性を守ろうとしているように聴こえるのだ。

ロックスターを引き受けるアジカンと、純粋なバンドマンとしてのアジカンに裂け目が生まれ、バランスを失ったこの時期のアジカン。これは言うなれば、バンドの精神が解離を起こしている状態にあったとも捉えられる。解離というのは、知られた言葉で言えば“多重人格”や“二重人格”を示す解離性同一性障害に代表されるような、心が連続性を失い、自分自身がしたはずの体験を自覚できなくなる状態を指す。それは強いストレスによって生じる。

傷つくことを防衛するためにヒロイックな交代人格が現われる機能が人の心にある。自他の欲望を満たすためにロックスターを引き受け、世界のルールに則ってセールスを考慮しようとする『ソルファ』〜『ファンクラブ』期のアジカンは、表現欲求と資本主義のストレスに挟まれて生まれた交代人格と言える。そして縮こまった主人格、これこそが“君”なのだと解釈できる。

半透明で不確かな膜が僕らの世界を包んでも
5メートルの現実感を
忘れないでいて
ずっと繋いでいって

ASIAN KUNG-FU GENERATION「バタフライ」

暗闇の先の霞むような光
負から正の走行性
荒んだ僕は蝶になれるかな

折れる

ASIAN KUNG-FU GENERATION「バタフライ」

本作でも屈指の暗さを持つ「バタフライ」には『君繋ファイブエム』にあった”5メートルの現実感”が再登場し、繋がることを切実に求めていた純粋性が呼び起こされる。しかし一方、まるで全て諦めるかのように《折れる》とサビを締めくくる。解離したアジカンがせめぎ合うかのような曲と言える。

着目すべきは「バタフライ」で《折れる》のは、ロックスターとしてのアジカンという点だ。心を防衛するために生まれた交代人格がストレスによって壊れて、主人格を守れなくなる様を捉えたのが『ファンクラブ』なのだ。

妄想-分裂ポジションによって、リスナーを分裂した存在とみなして疑心暗鬼を深め、解離によってアジカン自身が分裂した人格を抱えるようになる。この時期にアジカンは、自己も他者も分裂していく事態を経験しているのだ。


統合する結末

9曲目の「センスレス」は紛れもなくポジティブな方向へと走っていく曲であったが、『ファンクラブ』の終着点はそこではなかった。このアルバムはあくまで心の中が舞台である。「センスレス」で《闇に灯を》と願えどそれは『ファンクラブ』ではやはり願っただけ、という域に留まってしまう。

最後の時が訪れて
夢ならば覚めて欲しかったよ
迷子を探すような月が今日も光るだけ

ASIAN KUNG-FU GENERATION「月光」より

『ファンクラブ』の物語は悲しみに呼び寄せられる。夢の中にいるような質感すらあった『ソルファ』とは異なり「月光」ではこの現実に立脚してエンディングを迎えていく。自分を見失い、他者への信頼も失い、《冷たい世界の止まない痛み》を一心に受け、ただ立ち尽くすようなクライマックスだ。


ついに全てを失ったような心の更地に優しく降りてくる命綱のような美しいイントロから始まる終曲「タイトロープ」。この曲では終始まるで誰かに呼びかけるように詩が綴られる。そして終盤、《どうか投げ出さないで そっと心に繋いで ねぇ》というギリギリの祈りが誰かに向けて放たれていく。

「タイトロープ」は、ロックスターを背負い込んだ交代人格としてのアジカンをそっと天に送り出していくような曲だと思う。そして、ただまっさらで、何を求めるでもない根源的な主人格へと統合を果たしていく。表現者としての純粋性へと立ち戻っていくのが、『ファンクラブ』の結末なのだ。

手を伸ばして意味の在処を探して
見失った此処が始まりだよね
そうだね

ASIAN KUNG-FU GENERATION「タイトロープ」より


"内省の先に何もなかった"のは虚しい結末と読めるかもしれないが、《見失った此処が始まり》というフレーズからは偶像を諦めたことへの安堵感が滲む。アーティストとしての裏も表もない存在になることを選んだアジカンは心の中を飛び出し、改めて“この世界”と対峙していくことになる。


次回⇒『ワールド ワールド ワールド』6月末更新予定


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