綿帽子 第十話
先生がやって来た。
「◯◯さん、色々と培養したりして調べていますが、変わらず原因は不明です」
「ウイルス性の可能性は低くて、どうやら細菌性のようです。何かというのは断定できていません」
「そこが掴めると良いのですが、この抗生剤が効いているようですので継続して様子を見ます」
それだけ告げると先生は足早に去って行った。
希望が見えて来たのだろうか、まさに鍛冶場の馬鹿力とでもいうべきだろうか。
本当にもう神仏は信じないと決めてから、俺は少しだけ気合いが入っていた。
相変わらず希望の灯は遠くとも、生きるんだという強い意志が戻りつつあった。
口からは自分自身の死滅した細胞が発している臭いなのだろうか?魚の腐敗臭に似た香りがした。
強く実感する死の香り。
死臭としか表現のしようがない。
こういう時に鏡を見るべきではないと言われたりするのだが、如何せんスマートフォンという便利な物がある時代。
わざわざミラーアプリをダウンロードするまでもなく、見ようと思えばいつでも自分の顔を見られるのだ。
早速俺はiPhoneの写真アプリを開いてみる。
カメラの向きを反転させてから自分の顔を覗き見た。
「うわ、酷いな」
「青い、酷く青い」
「これが今の俺の顔か」
いやゆる青白いという表現からはほど遠く、青、もしくは青黒いというのがしっくりくる。
人生で一番顔色の悪い瞬間の登場である、この顔色の悪さが事態の深刻さを物語っているのだろうか。
血圧はなかなか上昇せず未だ100を越えない。
体温は下がりつつあるが、それでも38度台が平均となっている。
昨夜は血中の酸素濃度が86%というとんでもない数字を記録したらしい。
酸素マスク着用を勧められたのだが、睡眠時無呼吸症候群の中等症と診断されているので、その影響を懸念して断った。
日中は93~94%は維持しているので、マスクによる圧迫感を避けたかったのだ。
今思えばこれも冷静な判断ではなかった。
余分に後遺症を引きずる結果となったのは、この時の影響もあったのかもしれない(後に睡眠時無呼吸症候群も重等症と診断され、現在ではCPAP治療を余儀なくされている)
人間、病は気からというけれど土壇場での逆転劇がそうそうあるものではない。
こうやって文章を書けている時点で、俺は幸運の持ち主には違いないと思えるのだが、同時に感染症の恐ろしさというものを深く知ることになる。
入院中は回復の状態を見ながら、徐々に歩く距離を伸ばしていく。
「早く歩きたい」
体力がある人でも1週間も入院したら足腰が弱る、今の俺にはベッドから部屋のトイレまでの距離も遥か遠く彼方に思えるのだ。
回復しだしたらそこからまず第一歩が始まる。
今日までも排泄はしているはずなのだが、どうにも記憶にない。オムツをした記憶はないので、多分簡易トイレみたいなものでしていたのだと思う。
ところどころ記憶が欠落しているので、その辺が曖昧なのだ。
「もしくはしていないか?」
点滴しかしていないので排泄していないのかもしれない。
食事を出してもらえるようになれば、トイレに行くことから第一歩が始まる。
そう、明日への架け橋はトイレから始まるのだ。
お袋が、食べられるようになったらと備え付けの冷蔵庫にプリンとアイスクリームを入れておいてくれた。
「しかし、食べる気が起きない」
一応簡単なものなら食べても良いと言われているのだが、手付かずのままになっている。
人生で一度も食欲だけはなくなったことがないのに、今回だけはダメだ。
何も身体が欲しない。
ただ、グレープフルーツだけは別腹なのか無性に食べたくて仕方がない。
滅多に口にする機会もないのに、こんなに食べたくなるなんて不思議だ。
食欲が完全になくなったわけではなくて、グレープフルーツにのみ限定されているのだろうか。
これが何ともいえない不快感を余計に脳に与えてくれていた。
もの凄く前向きに捉えれば、人生で一度あるかないかの経験をしているとも言えるのだが、初体験は何事も気持ち良いに限る。
グレープフルーツも心臓が悪い人にとっては良くないはず、となると今の俺には多分ダメ。
結局プラスとマイナス思考のループが延々と続いている。
「このままエンドレスなループが続きゃなきゃいいけど」
そんなことを考えながら俺は理想の嫁さん像を思い出した。
それは出会いから始まる俺の究極な妄想。
『出会った瞬間に、この人と結婚すると思うのが運命の人』
と、ネットや雑誌でごく普通に見かけたりするのだが俺は違う。
『出会った瞬間に、HiphopMCの如くラップをかましたらラップで返事を返してくれる人が運命の人』
理想の嫁さんだと勝手に思っている。(そこでMCバトルにまで発展してしまう人は違っていたと言えるであろう)
も一つ言えば俺はB-BOY(Break Boyの略で、元々はブレイクダンスを行う若者を指していた)では勿論なく、B-OSSAN(ブレイクダンスを行うオッサン)にすらなれていないのだが、出会いはこれに限ると何年も前から頑固に思っている。
補足として俺はHipHopは大して好きじゃない。
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