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ACT.64『宗谷滞在〜名寄・美深・音威子府(小編〜』

悲運の本線と

 名寄の象徴と化した除雪用の蒸気機関車の戦隊のように見える特別なキマロキ編成を見送り、ここからは名寄の鉄道史の一部へと触れて行くことにしよう。この名寄は、かつて宗谷本線の他に長大な本線が伸びていた、鉄道史にとって。北国の鉄道にとって大事な鉄道の場所でもあったのだ。

 宗谷本線を眺める。
 丁度、H100形による営業の列車が走り去っていくところだ。現在は最北の幹線となった宗谷本線の車両たちも、名寄までは完全にアップデートされて運転されている。本当の終点、稚内まで範囲を拡大させるとキハ261系の観光用車両にまで範囲が届くので、そこに関しては非常に細かくなるのだが。
 キマロキ編成は、そうして宗谷本線で仕事に励む列車たちを見守る守り人のような存在になった。クロガネの身体で、がっしりと佇み今日もその行方と鉄路の安全に眼差しを送っている。
 キマロキ保存会の皆々によって大規模に整備されたクロガネの車体は、煌びやかに1日を照らす太陽によって光り輝いている。蒸気機関車の隊列は、この最北の鉄道に何を思うのだろうか。
 として、このキマロキ編成にも大きく関与してくるものがある。それは、国鉄の時代に存在したとある本線の話だ。全くこの場所にいた時には考えもしていなかったのだが、この本線を知る事によって国鉄の歴史や北の大地の鉄道を更に深める事ができる。その残照に歴史が辿ったものは、一体どのような存在だったのだろうか。

 キマロキ編成の展示の付近には、この『天塩弥生』駅の駅名標が存在している。
 もう既にこの令和の時代には存在しない駅であり、この場所に鉄路は伸びていない。それもそのはずだ。この駅名標は、平成の時代まで残存した『名寄本線』の駅名標なのである。そして、この名寄本線は北海道でも。そして鉄道史の中でも悲運の歴史を背負ってしまった本線なのであった。
 名寄本線は、この名寄から石北本線(後にこの行程でも乗車予定)の遠軽まで伸びていた国鉄の本線である。しかし、名寄本線の開業時である大正21年。石北本線は開通していなかった。この名寄本線が道北へのメインルートを担ったのである。かつて、道東を目指して北海道を渡り歩く…移動するのであれば、旭川から一旦名寄まで遠回りをした上で、そこから名寄本線でオホーツク海に沿って遠軽まで抜ける…という道を経ていたのだ。
 名寄本線は大正8年に名寄側が開通し、その後に遠軽までの延伸が大正10年に完成して最終形態となった。名寄本線は現在の石北本線開通の11年早く開通した道北〜道東の鉄道であり、北海道の道東・道北までの鉄道としては先見の明だろうか。先陣を切っての開通となった。
 この先陣的な形でのオホーツク海側への鉄道開通。そして昭和初期になるまでの石北本線開通までの中で早く開業し、アクセスの全てを背負った事で名寄『本線』と称される事になったのである。石北本線は、昭和7年に開通しているので本当に早い時期での線路敷設だったといえる。
 そして、名寄本線の特徴として天北峠を突破し、北見山地を貫く興部までのルートをトンネル開削なしで走っていた事に挙げられるだろう。常紋峠も近く、北海道では山深い場所に線路を通したが名寄本線は巧みな技で線路を開拓していったのである。
 そして、中湧別で分岐していく湧別視線を込みにして、名寄本線は成立していったのであった。

※鉄道の維持は一筋縄には進まないものだ。名寄本線も観光客の繋ぎはあったものの、乗客減による追い打ちは徐々に締め付けにかかっているという背水の陣。

 だが、名寄本線はそこまで恵まれた環境ではなかった。
 先ほど記したように、やはり札幌・岩見沢といった大都市からでは
『一時的に名寄まで行って、そこから海沿いに走行していく』
という遠回りな設計。少し回りくどくなった本線の設計がハンデにでたのだ。
 そして、石北本線に道路整備で国道が誕生すると、名寄本線は本線の屋号を下さなくてはならない寸前まで追い込まれていった。乗客も減少し、観光客利用以外では朝夕の高校生が通学の利用で乗車するのみになっていく。
 一方。名寄本線の沿線・オホーツク海の海の恵を利用した観光産業は発展し、名寄本線の生活を支えていた。一概に完全な衰退を辿った訳ではない。しかし、昭和7年の石北本線・網走までの開通以降は厳しい運営を強いられていく。
 大正14年以降、本線の名に相応しく時刻表を見つめると優等列車の数も少なからず敷かれている。昼の時間に函館を発ち、翌日朝7時に名寄。そして最後は北見方面に抜けていく夜行列車の存在が確認された。
 昭和も30年代に突入していくと、名寄本線にも優等列車。急行『紋別』が設定されていく。札幌を出て、名寄経由に走っていく優等列車であった。もう1つ。網走から急行『天都』が運転されていた。しかし、名寄本線の勢いは徐々に廃止の方向に向かおうとしている。

※名寄本線の表示がある?かもしれない、遠軽駅の列車表示行灯。この表示を目当てにして、遠軽を訪問するのも充分楽しいだろう。(予告がてらに)

 優等列車が走行する…という形で名寄本線は、辛うじて『本線』の称号を危うく手中にしている状態だった。名寄本線の凋落は、通学路線に成り下がって以降、乗客減を止められない。
 そして、最終的には国鉄の指定する
『特定地方交通線』
 という指定を受けてしまう。国鉄時代でも、本線指定された路線がこのようなリストに振られてしまうのは異例の事態であった。
 この『特定地方交通線』というのは、国鉄の再建法として立ち上げられた『日本国有鉄道経営再建特別促進特別措置法』に規定する国鉄路線として列挙された地方交通線のうち、旅客輸送密度が4,000人未満のバス転換妥当路線である。
 この名寄本線も、不名誉ながらその称号を背負ってしまったのだ。そして、国鉄はそうした国鉄再建法で第一次から第三次までの条件を作成していく。
 そのうちの第二次対象廃止路線に入ってしまったのが、名寄本線だった。輸送密度の低下している状況。そして営業キロも50キロ未満という中々に入らない現状の中、名寄本線は廃止が決定する。国鉄再建に関する赤字路線…に関してはここでは一旦割愛する。(今回の話は第二次だけなので)
 昭和60年の事だった。名寄本線は廃止の宣告を告げられる。そして、平成元年に惜別運転として廃線の列車が運転され、国鉄の分割民営化によるJR北海道への転換を目前にして、名寄本線は消えてしまったのである。

 しかし、名寄本線の残照は『オホーツク海に面する観光地』としての保存。そして廃線跡需要…への継続的な宣伝が実施されており、上興部などでの保存が続いている。
 今回訪問のキマロキ編成もその場所だが、名寄本線の保存跡の多さは北海道でも多い方…ではないだろうか。また再び、訪問機会があれば行ってみたい場所である。

北上する旅路

 名寄の観光名所、キマロキ編成の観察に撮影を終了して、名寄駅に戻る。先ほどまで説明した名寄本線もこの名寄駅を起点に発つ路線であり、名寄の地区に貢献した歴史は非常に大きいものだ。路線が平成の時代を見届けず今も存在していれば、名寄のた旅路に鉄路が魅せる光景は変わっていたのだろうか。そうした気持ちにも思いを寄せつつ、キマロキ編成の迫力に手を振って来た道を戻った。暑さの中に駅舎を見た安心感を感じた時、何か力抜けるというかホッとした気持ちにさせられた。改めて、列車に乗車していこう。

 駅に戻ってみると、もう既に改札は終了して無人の状態になっていた。防風・防雪の対策に仕切られている扉を開けて駅に入る。宗谷本線の列車を撮影するためだ。
 前照灯を全て光らせ、宗谷本線を走るH100形が入線して来た。ホーム端からズームを飛ばして撮影するが、前照灯の迫力には驚かされしものがある。北海道という野生動物。そして豪雪の大地を走るにはここまでの覚悟が必要なのだという気持ちに改めてさせられた。
 ちなみに。このH100形。昨今の軽量化する新型車両の時代の中に於いて数少ない、重量が増した新型車両なのである。キハ40形(JR北海道気動車最古参の車両と)と比較しても、その差はしっかりと反映されている。
 それにしても駅員が去り、路線自体も夕暮れの時間に入るという事で、不気味な状況での撮影になった。何かこうして静かな環境が、逆に違和感のようなモノを引き出しているような気がする。まだ暑さは引いていかない。

 かつては2つの本線を出迎えていた本線らしく、がっしりとした跨線橋に駅舎の姿を現代に残す名寄駅。既に駅の開設からは120年が経過しているが、車両は最新式のハイブリッドな気動車に進化を遂げている。
 しかし違和感を感じないのは、H100形の登場からしばらく経過した年月。そして旭川という拠点に、H100形がしっかりと根を張った事が大きいだろうか。車両としての馴染み方も素晴らしく、見ていて非常に心地の良い、撮影するのも今の時代らしく北海道に馴染む車両である。
 2両のH100形が、旭川方面から乗せた乗客を降ろして折返しの準備に入った。ここから最北の都市圏、旭川に戻る為折返しの時を待つ。
 乗客を降車させた後は、粛々と旭川行きの表示に変更し、都市部へと向かう為に再びゆっくりとその時まで足を休めていた。

 宗谷本線を更に北上する為、駅舎に戻っていく最中。面白いバスを発見したのでつい撮影していた。
 絶対に系列会社でもないし、そうした意図は全くないのを分かっているのだが何か車両の塗装が帝産湖南交通のように見えてくる。
 車体の形状も更にそうした雰囲気を漂わせているのだろうか。全く違う会社だと分かっていても、何か心の中に宿したモノが反応する。
 そして、このバスを帝産湖南交通のバスみたいだな…と思ったその時。心の中は
「どれだけの時間を関西に置いてきたんだろう…」
と少し耽ってしまった。
 しかしながら、京都と比較して北海道も暑いとは感じるものの、何処か晴天と熱する日差しの中にはカラッとした爽やかさも感じる。
 沈みゆく夕日を見つめ、自分はしばらくこの場所を過ごしていくのだという決意のようなものを固めた。日々は遠慮なく過ぎていく。

 再び、名寄駅。
 この時期にこんな気温の光る気象予報なんて、どれだけ記事を放置していたか…という自分の怠慢が完全に目に見える形となってしまったが、この時期の北海道。夏真っ盛りの北国は本当に暑かった思い出がある。
 関西に帰郷し、
「北海道やから夏でも涼しいんやろ?」
と何人かの方々に言葉を頂いたが、実際はそうした事など全くない。むしろ暑さだってあまり関西や関東と都市圏にも劣らないのではないだろうか。
 名寄駅の待合室で、時間を過ごす。
 列車間隔が広過ぎて、一回列車を旭川方面に稚内方面に見送ってからだと、まだまだ時間が空いてくるのだ。
 しかも稚内方面に関しては3時間も間隔が空いており、その時間を名寄駅待合室にて、テレビを眺めて過ごしていた。
 映るのは全国ニュースが終了すると、札幌を中心にした北海道のニュースばかりだった。北海道を旅している事を、メディア越しに見てようやく体感する。北海道に滞在はしていたものの、テレビを見るのは小樽の旅宿以来実に2〜3日の期間が経過していた。2〜3日も過ぎると北海道の情勢も変化するものだ。
「札幌のスタジオから…」
と流れるニュースに、目をずっと流していた。
 その中で、函館本線の転換と第三セクターに関するニュースが報じられているのが目に留まった。
「おぉ、行った場所じゃないか」
と。そして、倶知安付近で会った様々な人々の事を思った。
 ニュースの中では(確か)一時的な協議が全て終了し、第三者委員会に託していく…というような議題だったような記憶が残る。
 既に函館本線の新幹線転換は大詰めを迎えており、長い長い討論が進行している最中だ。
 新幹線を在来線に対して並行開業させた時、焦点になるのは『並行している在来線をどう維持していくか』という問題になる。JR各社では、長野新幹線開業後にJR東日本が信越本線を第三セクター・しなの鉄道に転換。そして、更に先。長野から金沢が延伸された折には既に存在した第三セクター会社・しなの鉄道を延伸させる形で『北しなの線』を開通させ、更に第三セクター会社・えちごトキめき鉄道。あいの風とやま鉄道・IRいしかわ鉄道を開通させて(開通させる形)で並行在来線とJRが決別した。
 しかし、これら在来線の簡単な第三セクター転換を実施しても、問題は簡単に解決しないところがある。(今後の北海道もそう)
 並行在来線を転換してしまうと、万が一の交通手段が途絶えた場合に『JRとして』振替の手段が立てられないのである。
 JR東海の場合は、東海道新幹線と東海道線が熱海方面から米原まで並行しており、そのままJRで直結している。第三セクターを介する事もないし、そのままで直通が可能だ。サンライズエクスプレスが立ち往生し、そのまま日の出を迎えても始発の新幹線に乗せて救済輸送…というのは、並行在来線を自らの手で管理しているからこそ成せる技でもある。
 しかし、これが第三セクターに転換されると、会社間同士でも連携の手が途切れ。そして疎通が上手く発生しないという弱点がある。JR同士で可能だった流れを断ち切ってしまう結果になるのだ。
 今回のJR北海道の場合も、同じく新幹線と並行開業した区間として並行在来線を『道南いさりび鉄道』に転換し、貨物輸送に旅客輸送に。様々な事業を実施している。
 そして、新幹線が再び延伸され新函館北斗を突破して札幌まで行った際。
 函館本線と決別し、函館本線を廃線にするのか。しかし一方で、貨物鉄道としてそのまま物流の道を開けるのか。その面を協議中なのだとか。
 そうしたニュースが報じられていた。

 長くなってしまった。あまりにもニュースで情熱的になり過ぎた。
 北海道の広さを、札幌のスタジオが映され。そしてお天気コーナーでの中継で札幌の街が画面に入った時。自分の居る場所は一体どれだけ遠くなっているのだろうかと感じた。
 そして、名寄駅。
 母とLINEを介しての会話で時間を潰す。北海道の天気予報(お天気コーナー)の様子を画面撮影でそのまま伝えると、
「明日、京都は38℃になる」
という内容になり驚愕した。住んでいて、京都をこんなに暑いと思った事がなかった。やはり旅で様々な場所を見るのは大事だと感じた。その後は目的地。音威子府に向かうまで全くの連絡は入れていない。
 名寄駅の方は今年で120周年だ。
 本命のイベントは9月に実施…だが、駅は装飾も含めて簡単な祝祭状態になっていた。
 写真のように、少しだけ車両から120周年記念のボードも確認できる…が、他には駅のギャラリースペースで写真展も実施されていた。写真展に関しては、宗谷方面の鉄道。名寄の鉄道の100年近い歴史を写真で語る…というような内容で、北海道の様々な名車が登場していた。(写真を撮影するのは個人的に控えたので残念ながらない)
 名寄駅には、待合室が2つある。
 1つは、テレビを設置しているロビーのように広い待合室だ。何かバスターミナルのような。それでいて、主要駅らしい佇まいのような。整然に椅子が並んだ待合室である。
 そして写真展が開催されているもう1つの待合室は作業スペースのような。学習スペースのような設計になっており、そして1段の段差が広がっている。
 段差を見た時、
「靴は脱がないかんのか…?」
という勘違いで靴を脱いでしまったが、実際はそうでは全くなく段差があるだけで他は何もないのであった。
 通学・下校の最中に使用できそうな簡易的な勉強デスク的なものが整然に置かれており、その椅子に座ってじっくりと写真を鑑賞したり飲食をしたりする事が可能な場所であった。
 実際、少しだけ腰かけたのだが何か閉塞的な感じが落ち着かず、すぐにテレビのある方に戻ったような思い出がある。しかも時間制で営業されており、やはり自習室としての需要が少しはあるのだろうかと感じた。
 ちなみに、名寄駅の情報発信的なテレビスペースに関しても、
『テレビ放送の時間は◯時まで(確か7時だったような)』
と決められている状態だった。
 しかし、待合室のこれらの機能が停止すると名寄駅は列車だけが賑わいの象徴になる、物静かな駅になってしまうのだろうか…?という気持ちにもなる。宗谷本線の列車も強いて言ってない状況なので、情報の発信や駅の憩いの場としての機能には営業時間を設けた方が良いのだろうか。

北上する旅路(本格化・本命登場)

 ようやく稚内方面に向かえる列車が入線してきた。車両はキハ54形。JR北海道のローカル線用気動車としての活躍…の他に、一時的ではあるが急行列車の運用にも就業。そして令和2年には代々走の運用にて特急列車も担当した、なんでも仕事をこなせる名役者である。
 JR北海道の中でも、この宗谷本線名寄以北に関しては車齢。そして運用の事情から車両をキハ54形に残し、H100形についてはこの名寄までとなっている。既に令和の主役として、北海道で気を吐く存在のハイブリッド気動車ではあるが、完全に国鉄車両のトドメを指す状況下というとそうでもない。
 と、ここまで列車を待機して2時間半〜3時間弱。ようやく列車に乗車できる目処が入った。空は既に夕日を沈ませ、曇りがかった夕暮れとなっている。
 H100形では感じられない、電球状の前照灯が目に飛び込んできた。こうした体験が出来るのも、北海道では長くないのだろうか。

 H100形のエンジンとは裏腹に、キハ54形のエンジンは乾いたサウンドだった。無機質というか、冷淡というか。
 稚内方面からの長い道を終了し、この名寄で再び次の旅路に挑む。折返しの普通列車・音威子府行き。この列車が、音威子府…稚内方面に向かう最後手前の普通列車でもある。宗谷本線に関しては列車本数が少な過ぎるというか、針の穴を通す勢いの数で列車が間隔を開けて走っている印象だった。とにかく何も気配がない。
 写真のキハ54形。改めて流しての撮影で編成写真とした…が、かつてタイフォンが埋まっていたであろう痕跡が鉄板で埋まっている。よく目を凝らせば見えるのだが。それ以外は重厚というか『ゴツい』足回りであり、ここまで旅路を支えてくれたH100形とは全く異なるキャラクターの車両だと思った次第だ。


 車両は前面にのみ方向幕を装着しているが、側面に方向幕の設置はされておらず、側面の行き先表示はサボ形状になっている。
 簡単に
『宗谷線』
と記され、列車の進行方向すら表記されていないのはこの列車の乗降客数の少なさ、そして沿線の過疎した状況への簡略的な判断だろうか。
 サボには宗谷本線の車窓。そして北海道を飾る産業である酪農の様子が描かれている。牧場で寛ぐ羊の姿だった。
(しかし自分は北海道で農場は見たものの、ここまで雄大な酪農の姿は見ていないのだが…)
 H100形だけでしかなかった無機質な情景が、少し国鉄時代に戻った。サボとの出会いが、ノスタルジックな道への誘いだろうか。国鉄時代から続く列車の方向・行先表示が再び刺さる。
 そして、宗谷本線の北上へ向けて更なる気持ちの増幅が、自分の中に湧き起こっていた。

 名寄駅の跨線橋と、キハ54形。稚内方面から乗車してきた客は少なく、早くも名寄から先に向かうという事への覚悟を思わせる。
「1本でも狂わせて逃したら終わるな…こりゃ…」
決心のように構えて、列車を撮影して回る。キハ54形の普通列車は、折返し準備…と言ってもカラカラと乾いたエンジンのサウンドを掻き鳴らし、のんびりと過ごしていた。何となく、端に来たような…旅に出ているのだという感触が体の内部を伝う。
 自分が最北に向かうその1歩を、車両を見ながらぼんやり思ったものだ。

 旅の本や図鑑でも見た宗谷本線の景色が、今は目の前に広がっているのを感じた。
 乾いたディーゼルのサウンドが、名寄の駅に響いていく。無機質なステンレスの質感を、太陽の沈んでいこうとする僅かな光に照らして、様々な記録に向かった。
 写真は、フィルターをかけてフィルム調にしたもの。なんとなく、時代が遡ったような気持ちにさせられる。そして、H100形では感じられなかった電球の温もりのようなものを感じるのであった。
 まだまだ北海道でも、国鉄時代からの風情が残っている区間。そして、衰退しつつも車両の味に旅の雰囲気は満ちている区間。
「普通列車、音威子府ゆきです…」
と扉が開き、自動放送で繰り返す。
「いよいよ、今日の旅路も終了か…」
という感触。そして自分にとっての旅人としての階段を駆け上がるような早鐘が打ち鳴らされる。
 まだまだ時間は残っているので、写真を撮影して待機しよう。3時間待っているとはいえ、列車の出る時刻には早すぎる。

無機質な案内人〜キハ54形とは〜

 宗谷本線の案内人として。そして留萌本線のさよなら列車(留萌〜石狩沼田)での最後を務めた車両として、キハ54形は道北。道東での活躍の足跡を残している。
 気がついたら、列車の進行方向が音威子府への方向。稚内までの鉄路を照らすように前照灯が光っていた。
 もう既に落陽し、あとは列車に集落の照らす電灯だけが頼りになる状況だ。しかし、先日の旭川市・千代ヶ丘のように何もなかった場合はそれこそ本当に精神的な不安感情を煽られるくらいには真っ暗だ。
 こうして形式の写真が撮影できた…ところで、ここから先の普通列車として世話になる、キハ54形について解説・触れていこうと思う。
 キハ54形を見た時、何人かの方は妙な既視感すら感じたはずだ。この車両は北海道以外にも投入され、活躍しているのだから。

 キハ54形という車両を見ていこう。
 キハ54形は、国鉄の分割民営化を目前にして投じられたステンレス製の気動車だ。
 分割民営化を迎える事になってしまえば、JR北海道。JR四国。JR九州では脆弱なその経営が会社を締め付けてしまうかもしれない…経営基盤も、決して良いものではない…と懸念され、危惧された上で登場したのがキハ54形であった。日本の中でも島として独立した3つの会社への負担軽減が、この車両に課せられし主な役割だったのだ。
 そして、国鉄時代では大量に製造した昭和年代の気動車が多く余っている。分割民営化を経て、こうした昭和年代から共に歩んできた車両との共存は長く持たないであろう…として、キハ54形の開発が進行したのであった。

 まずは(少し順があるだろうけど)。北海道に滞在中。そして北海道の車両に関しての話…なのでこちらを先に紹介するが、北海道。寒冷地向けに製造されたキハ54形の500番台であった。
 20メートル級。片側2枚扉の車体設計。ステンレス車体を採用したのは、腐食に強くなるべくの長期間使用を想定した結果であった。
 当時、国鉄はJRへの分割民営化に向けて特急車両・キハ185系を設計していたのだが、キハ54形もそこに倣って同じエンジンの採用。同系統の機械類の採用が採られたのであった。
 DMF13HSを車体に2基搭載したそのスペックは、当時の電車たちの加速や仕様に負けない性能であった…のだが、最高時速は使用する北海道・四国といった地盤への対応として95キロという現状維持な状態に改められたのであった。そして、キハ185系同様にして、トルクコンバータなどの制御部品は国鉄時代に駆け抜けてきた車両の中古発生品が使用されており、現代から見れば究極のリサイクル…SDGsにも貢献した車両なのである。
 北海道向けに使用されているキハ54形…500番台では、雪国でも安定した走行が出来るように。そして極寒の中でも捉えた走行が出来るように。とエンジンを2基搭載しているのが特徴なのであった。そして、キハ54形はそのヒットを快哉として発揮し、北海道の500番代は急行にも起用されたのであった。
 そして、急行列車としての使用が目指された結果、車内には0系新幹線の中古座席が使用されたのであった。こうした経緯からも、キハ54形の汎用性。新世代へ向けたベースとしての気風を感じる。
(0系新幹線の廃車発生品を使用したキハ54形は520〜以上の桁を有する一部の車両のみ。500番台には基本的にキハ38形の廃車発生品を使用していた)

※JR四国にも、実は兄弟…のようにしてキハ54形が所属しているのだ。昭和62年からの製造、車両にはバス用部品の使用にスカートを無くす…など徹底したコストカットの車両であったが、民営化継承されていくとそうした部分も改善され現状では発達した車両になっている。しかし、類似しているのは顔だけというのも面白いというか。

 北海道へのキハ54形への解説…は少し後に回すとして、少しだけ四国に投じられた0番台の話に触れておこう。キハ54形という車両を取り上げるにあたって、忘れてはならない兄弟的な存在の車両である。
 キハ54形…0番台は四国の山間部で走行する為にエンジンを2基搭載した仕様として登場したのであった。
 窓割りも実は異なっており、ズラッと続く『日』の字のような連続窓が特徴的である。
 通勤・通学需要も加味して車内はロングシートの仕様にされている。この車両…0番台の異なるヶ所を挙げるとすれば、冷房装置の搭載という点だろう。四国の気候に併せて。そして地域性を考慮した配慮であった。
 また、ドア部分にもバスの廃車発生品折り戸を使用するなど車両としてのコストダウンにもしっかり貢献した形になった。そして、写真でも判別できるようにして。スカートの設置がこの車両では見送られている。こうした部分にも、四国側のコストダウン思想が見えるというか。
 30年以上前に12両が製造された四国のキハ54形0番台…、ではあるが、30年近く前に製造されたキハ54形は全車両がキッチリ現役の第一線を走っている。
 昭和62年に誕生した車両は、これからも走り続けるのであった。

気分は急行??

 キハ54形に乗車…して音威子府に行く前に、連絡であろう快速の『なよろ号』が入線してきた。快速なよろ号はこの後にも走行しているが、20時近くに旭川を発車して名寄に向かう。
 特急列車の本数すらままならない中、快速なよろ号はしっかりとした支柱を務め、道北の交通手段としての役割…責務をしっかりと発揮しているところだ。
 もう既に陽は完全に落陽した状態になったが、H100形の前照灯が全て光り、名寄の駅周辺を明るく照らした。


 新旧共演…のようにして、先の乗継を託すH100形。改めてになるが、H100形は北海道内で勢力を拡大しているとはいえ、旭川近郊の運用の最北はこの名寄までとなる。
 ここから先は、特急列車のキハ261系。そして普通列車がキハ54形と車両も変化する。連絡の列車も入線し、いよいよ道が1つになった感じを覚えるのであった。
 写真を見ての感想…にしかならないが、ゆっくりと待合室でテレビを見ている暇があるのなら列車に乗車して、快速なよろ号の夕方の便で接続する暇つぶしをすれば良かった。時間としての活用法が非常に勿体なかったような…。
 既に完全に周辺の光は、列車だけになっている。車内を幻想的に照らす灯りが、名寄のターミナルに刺さる。銀色の車体がキラキラと光彩を見せ、先の道に向けた期待を誘う。

 何度も映り込んだ跨線橋に、列車乗り換えがてら向かう事にした。
 もう少しだけ、太陽の気配が見えそう…というか、夜と呼ぶにはまだ早い気分のする空の状態だ。
 かつては名寄本線も受け入れ、旭川だけでなく遠軽へのターミナルでもあった名寄の駅。
 こうして上方から眺めてみると、車両の双方が並ぶ新旧の比較…以外にもターミナル駅として名寄が誇った威厳に物を思う事があるというか。かつての隆盛を考えざるを得なかった。
 そして車両を上部から眺めていると、かなり前に知り合ったとある人の、
『列車を再現する時は屋根が重要なんだ』
というモデラーの魂が入った言葉を思い出す。
 なんというか、少し目線を変えて見てみると列車の雰囲気。車両の持つ個性が、屋根からだとまた異なった風情として伝わる。
 夜への扉が開かれそうな町に、2つの気動車の佇むアイドリングサウンドが鳴り響く。
 自分は跨線橋を降りて、冬季対策の扉を開ける。そして、キハ54形に乗車して音威子府に向かう準備を始めた。

 先ほどの話に少し戻って。
 キハ54形の北海道車に乗車する事になって、個人的には車内を気にしていたというか、1つの楽しみにしていた。
 乗車してステップを踏み、車内に入るとデッキがまず見える。デッキは真っ暗で、車内の灯りが漏れるだけだ。
 そしてデッキから車内に通じるドアを開けると、車内に広がる情景は急行形そのものの様相であった。
「な、なんだこれは…」
 四国のキハ54形にはそれこそ何度も乗車の経験があったので、車内に関してはまだロングシートの整然と並ぶ無機質な長いソファーのような情景に慣れていた。しかし、北海道のキハ54形はここまで違っているのか。
「うわ、これは違うわすげぇ…!」
と思わず感情が漏れそうになったが、感情を吐き出しても車内には自分しか乗客がいないのでせいぜい大丈夫だろう。
 19時30分。その後、わずかな乗客を更に拾った状態で列車は走り出した。旅のシーズンでもあったので、乗客に関しては生活民というより長旅に出る乗客の方が多い感じを受ける。
 フカッとした椅子に腰掛けて、自分は急行形列車のような車両で時間を過ごしていくのであった。

 キハ54形はゆっくりと加速し、闇夜の北の大地をゆっくり走っていく。そして速度を乗せて、軽快な音を響かせて走っていった。
 宗谷本線に限定せず…だが、この時間も含めて(この時間帯が特に多いのか)。鹿を中心とした野生動物の侵入。そして野生動物に引っかかって列車が運行不能。そして列車の遅延に繋がる事がある。軽快ながらも、走り慣れた数少ない主戦場をキハ54形は走っていった。
 音威子府に向かい、名寄を出て日進、智恵文、智北と列車は暗がりの道を無人駅にして進んいくのであった。
 乗客は大半乗車していないので、車内も撮影し放題だ。列車の振動に走行状況に気をつけての撮影にはなってしまうのだが。
 キハ54形・北海道向け500番台の特徴がこのいかにも急行形として。今にも優等列車としての風格が漂う車内だ。車内はロングシートがクロスシートの区画を挟む状態になり、ボックスシートのような状況になっている。
 そして自分は乗車中に使用してはいないものの。この座席(写真)はリクライニングの簡易機能を搭載しており、座席を倒す事が可能なのである。どれだけ至れり尽くせりなのだろう。
 昭和61年に製造され、500番台は29両が生産された。そして、このキハ54形500番台に関してだが、何故にデッキを装着しているのか。その背景には、氷点下20度付近まで下がってくる北海道の気候に準じた仕様。そして客室の温度保温を目的にしたという背景があるのだ。
 車内保温を背景に、デッキを設けて客室と運転台を分離した事もきっかけだったのか、車両の乗降定員は100人程度の人数に制限されている。
 そして、シートにはバゲット掛けて車両に特別感を演出。また、ヘッドレストも搭載されるなど車両のグレードアップに。北海道の旅路を楽しませる演出がなされていた。
 コストカットをしつつも、車両には一定のアトラクション性を設ける事によって、旅路の演出にもしっかりと貢献した。

鉄道員ってこんなんだっけ〜自虐の先祖と対面す〜

 音威子府に向かう普通列車は、智北を出て道北。宗谷方面の主要な駅に到着した。
 美深である。現在は営業時間を経過して静かな状態になっているが、この駅には美幸線資料館が設けられ、かつての北の栄華を華々しく語っている。
 しかし、美幸線資料館の開館と駅員の居る時間に行けば良かったかなぁ…と今では後悔の責を追うばかりである。
 美深。この駅で、10分近い停車時間となる。列車から下車して、様々な写真を名寄同様に撮影していった。
 写真としてまず撮影したのが、コレ。
 キハ54形500番台の特徴である、四角い窓だ。極寒の大地を駆け抜けていくという責務を背負っての登場の為、この窓には断熱。防熱の仕様が施されている。キハ54形500番台の特徴だ。
 そして、車両の客用扉も立派な引き戸への仕様がなされている。北海道での寒冷地としての活躍には、いくらコストカットした車両としての呼び声はあっても断熱。そして保温への対策は抜かりないのだ。

 10分間の停車は大きな撮影への時間投資に十分すぎるものだった。
「おぉぉぉ!1なんて幻想的な…」
不意に撮影したこの写真に、自分の脳細胞。身体中の神経が熱を帯びた。
「浅田次郎の鉄道員って、こんな雰囲気なんやろかな…」
そう思って、撮影した写真を眺めゆく。小説冒頭の、キハ22形ディーゼルカーが静かな駅に滞在する様子が、頭の中に残像として浮かび上がったのであった。車両はキハ54形として、ステンレスで完全に違うのだが。
 鉄道員、という浅田次郎氏の短編小説では、終列車付近の駅の情景にキハ22形がポツり…というモノがあったので、頭の中に浮かんだ光景は無意識にもそんな感じだった。
 しかし、駅の設定として違うのは特急列車の停車する駅という事だけだろうか。鉄道員の作中に登場する駅は、特急列車の通過する小ぢんまりとした駅なのである。
 だが、キハ54形であったとしても。車両が主張す国鉄の風情は変わらない。10分の停車時間は我関せず、時計を気にしつつの撮影の時間に充てていた。

 美深の駅は辛うじて明るい状態を維持している。木目の駅看板に、旧字体のフォントが落ち着きを与えてくる駅だ。宗谷本線の稚内方面。そして旭川方面の特急列車は全て停車し、列車の道のりでは主要な都市に当たる場所だ。
 現在は宗谷本線のターミナルとして機能しているこの美深の駅だが、かつてこの駅からはもう1つの路線が延びていた。
 駅を少し覗いてみると、改札の先に(もう時間的にも機能は完全にしていないのだが)、
『美幸線資料館』
なりしモノを発見した。
 美幸線。
 この路線こそが、宗谷本線を出迎えた主要都市のもう1つの役目を背負った使命であり、美深発展。そして美深駅のターミナルとしての機能の所以であった。
 駅の改札扉を開けて覗き見した時は、既に美幸線資料館は閉館していたのだが、美幸線と美深は切っても切れない関係に値する。

 美幸線について、少し調べた範囲を記しておこう。(何か次回の宗谷方面訪問に使えると思ったので)
 美幸線の美、は『美深』の美である。
 そしてもう1つ、枝という漢字は『枝幸』から来ている。美深と枝幸を目指して建設された、昭和期の歴史を背負った北国の鉄道だったのだ。
 美幸線の建設に関しては、既に鉄道の道があった浜頓別・天北の方面に対して大きく寄与する事が期待された。昭和の10年頃。枝幸付近は完全な…とは言い難いが、広大な原野を有する未開の大地であった。既に、簡易な軌道ではあったが枝幸〜歌登には鉄道も通っている。そして、鉄道は浜頓別のみが残された。
 当時の美幸線沿線は、資源開発。食糧生産。そして林業に農業への期待が大きく持たれていた。開発によって北海道の道北地区開発と拡大を狙い、そして沿線の交通を改善しようと目論んだのである。冬季はバスが長期間の運休を余儀なくされ、道路条件も決して良い場所ではない。更には馬ソリが地元貨物輸送の中心…という、鉄道の導入が急務とされた区間だったのである。
 沿線の開拓で資源生産。そして馬に頼っているような交通の改善に…と美幸線への期待。そして年中乗車し、移動手段となり貨物の発展にも繋がる美幸線の発展は大きなモノだった。
 昭和39年、美幸線は美深から仁宇布までが開通する。戦時中に着工した事が災いし、工事の方には一旦『測量中断』も経てしまったのだが、無事に道北に新たなる鉄路の希望が託された。
 しかし、鉄道の目論見は成功しない。肝心の仁宇布付近での開拓・農業需要が思ったよりも見込めず、開業直後から離農や撤退が次いでいったのである。完全に思惑を外した形となってしまった。

※美幸線はいつまで経過しても発展しない路線だった。鉄道近代化。そして日本が高度経済成長に歩んでいく中でも、置いて行かれたように美幸線は発展しない。(想像図)

 美幸線の凋落を止める事は結局、出来なかった。開業から4年して、昭和43年。赤字を計上してしまう。そして皮肉な事に、国鉄の定めた『赤字83線』のラインに到達してしまったのだ。沿線は既に過疎。鉄道の気配は完全に空気同然になっている状況だ。
 昭和49年。美幸線の営業係数は3,859円…を計上した。100円の収入を得る為には3,859円の経費をかける、即ちリスクを負うという事なのである。この3,859円は国鉄赤字史上の当時最高金額であり、
『日本一の赤字路線』
の呼び声が染み込んでしまった。
 しかし、美幸線沿線には勇敢な男がいたのである。その男の名が、美幸線沿線の拠点。美深の町長を当時務めた長谷部氏だったのである。長谷部氏は、美幸線にこうコメントを残している。
『まだ全体の3割しか路線が出来ていない美幸線に対して、赤字の宣告をするのはいかがなものか』
『赤字で比較するのであれば、東海道線の方が大きいじゃないか』
こうコメントした、当時の美深町長。しかし、この後。美幸線の代表として、この男が手腕を握り奔走するのであった。
 当時、美幸線沿線には温泉の観光地があった。この観光地を、町長は生かす事にしたのだ。この時、町長は美幸線に対して
『日本一の赤字路線に乗って、道北のびふか松山温泉へ』
という名のフレーズを作成する。そして、時は国鉄の『ディスカバー・ジャパン』。そうした現状であった為、このキャッチフレーズを記したポスターを作成して全国の国鉄主要駅に売り込んだのであった。
 そして、この作戦は見事に成功する。
『日本一の赤字路線』
 の皮肉が成功し、多くの観光客が美幸線に乗車したのであった。そして、列車の一部は満員を記録するものもあったという。完全に自虐商売の成功だ。
 そして夏。美幸線沿線で『夏の湿原まつり』を開催した。この時も多くの観光客が訪問し、予想を大きく裏切る観光スポットに進化したのであった。
 しかし、この作戦にはまだ弱点がある。それは…
『切符の収益』
であった。この金銭的な部分の解決がまだ済んでいないのである。

※今回使用している、フリーきっぷ。実際に乗り放題になる、指定券が発券できる、帰りの運賃分も負担…とオマケは大きいのだが、その反面は路線に投じられない収益である。

 何故、切符が弱点なのか。それは売上の形態によるものだからである。
 観光客は大勢、美幸線に乗車してくるがその大半は『フリーきっぷ』を使用しているか、『東京・大阪といった遠距離で切符を購入している』という現状がある。このままだと、
・フリーきっぷなら国鉄への収益に
・東京や大阪で購入した続きの乗車券なら、東京に大阪といった都市圏の収益になってしまう
との背景があった。そして、美幸線の起点駅である『美深』駅は宗谷本線として計上。こうしたモノでは、、運賃の収益はどうにもならない。
 そこで、当時の町長(再び、長谷部氏)は考えに行き着く。
『仁宇布駅の切符を。仁宇布からの切符を、何処かで売れないものか』
集落があっても。住民が住んでいても。仁宇布付近は60戸程度しか全盛期は人の気配がなかった。こんな現状では、住民などアテにできない。
『そうだ、じゃあ日本一繋がりにして、日本一人の多い街で切符を売ってみよう、そうすれば、美幸線は潤うんじゃないか?』
こうして、現代のローカル線・地域密着鉄道の自虐商売の元祖のような発想が爆誕したのである。長谷部町長は動き出した。美幸線を救う為に。

※美幸線の涙ぐましい努力は、県境を越える!東京での切符販売を実施したのだ。(写真は渋谷だが、実際には銀座で行われた。帰宅中のサラリーマン達の好評を得たという。

 人の多い街は、いつだって変わらない。美幸線の沿線町長として尽力した長谷部氏が向かったのは、
『東京』
であった。
 東京の、日本一人が往来する場所で仁宇布駅の切符を販売する、という商売を開始した。その数は、およそ3,000枚。
 昭和58年の夏。長谷部町長は東京・銀座に出向いて自らの手で仁宇布駅の切符を販売した。そして、銀座での切符商売は大成功した。無事に街ゆく人に美幸線の名は知れ渡り、そして3,000枚の発注した切符は全て完売したのである。
 そして、昭和59年の冬には現在の北海道の看板的な祭り、『さっぽろ雪まつり』での切符販売も実施され、1,500枚の販売を記録したのである。北海道土産としての地位も築き、美幸線は大ヒット。
 そして、美幸線に掲げた日本一は逆手に取られ、
『日本一の美女を乗せよう』
として(そんなのは一体誰がどこで決めるんだ)、女優の司葉子氏のを呼び込んだ。この時も、多くの観光客に見物人が美幸線を訪問したという。
 現在の銚子電鉄や島原鉄道などに先駆ける、自虐や収入がない事実への逆転商売は大成功に進んだのであった。
 この他にも、美幸線では様々なイベントを開催。そして、ヒットという名の快哉を飛ばしていくのであった。

※美幸線への細やかな祝賀?として、仁宇布駅の切符は再び海を渡った。大阪での販売も大盛況に終了したという。

 そして、美幸線に感動の時が訪れる。長谷部町長の涙ぐましい努力が遂に身を結んだのである。
『日本一の赤字路線』
という名のトンネルを脱したのだ。長く、暗くもあり。そして穴を探す暗黒の道であった。
 この大偉業?を祝して、美幸線の切符は再び北海道を飛び出した。『日本一赤字脱出記念』として、東京と大阪で再び、仁宇布駅の切符を販売して歩いたのである。こちらも大成功に終了した。
 しかし、美幸線は『ワースト1』から脱出しただけ…なので、美幸線への危機は変わらない。この偉業で、黒字決済になったわけでもないのだ。業績は下から数えた方が早い現状も変わりない。
 しかし、美幸線沿線の状況は悪化していく。環境には勝てないのだ。美深は豪雪地帯である。雪での道が塞がれる事象は多く確認され、自動車すら通れない事態になる。そんな状況で、安易なばすてんかんも出来るわけがない。
 仁宇布から歌登までの環境は酷道であり、まだまだ未舗装だった。しかも、この部分には美幸線の建設が進んでいないという状況。鉄建公団が必死に頑張った。
 仁宇布から歌登までは、難工事だったのだ。簡易線との線路重複があり、まずはそこをどうにかしなければならない。歌登町に、まずは
『美幸線の未建設区間を必ず開業させる』
と約束し、歌登町が既に敷いた簡易軌道を撤去させた。これがしかし、後に大きな負債になってくるのである。
 未成線区間は、既にトンネル・レールなどの設備を既に搬入している。もうあと少し…まで行ったが、既存区間の状況は異なっていた。
 国鉄再建法、が美幸線に襲いかかる。この時に美幸線は興浜南線との合併で第三セクター鉄道にする計画が浮上した。しかし、1億5,000万円の赤字発生(年間)が毎回起きる事が判明。断念せざるを得なくなった。

※豪雪の美深だったが、鉄道の命に関しては呆気ない。昭和60年の廃止をもって、代替バスに転換。第三セクターへの転身を迎えた国鉄既存路線の裏で儚く散ったのである。

 国鉄再建法がのしかかる中でも、鉄建公団は美幸線未成線区間に4億円の大金を注いだ。元々、国鉄に代替する形で採算無視した路線の建設に奔走する鉄建公団。しかし、その努力は結実しなかった。
 美幸線は、興浜南線・興浜北線と同時に特定地方交通線として廃線対象になってしまった。昭和60年、美幸線はその命を終え…バスへの転換を実施。自虐商売の先駆けとして奔走し、道内ならず道外として全国規模の注目を浴びた美幸線…だったが、遂に落城の時を迎えたので…はなかった。まだまだ先があるのだ。

※鉄建公団は国鉄に代替して高規格な路線。または赤字で経営できないと判断された路線の建設に尽力する団体であった。(写真の例・伊勢線…現在は伊勢鉄道も鉄建公団が主となって建設し、最終的には第3セクターの鉄道として大活躍している)

強引かつ…(すいません長くなりました)

 美幸線のストーリーは終了した訳ではない。未成線に関して。歌登貫いて、枝幸までの路線が開通していないのだ。地元・歌登の住民の反対を押し切って交通手段まで剥がした上での完全な開通の約束。コレは既存線の廃止で完全に破棄された事になる。
 …と、鉄建公団の人々はこのような事を思いついた。
『ちょうど、津軽から海峡を貫いて…連絡船の代替になる津軽海峡線として、青函トンネルを掘るんだよなぁ。新しくレールを作るのは面倒だし、そのまま放棄するのも勿体無いから未成線からレールを剥がして使うか!!』
 豪胆というか、強引というのか。図々しいも似合うだろう。
 なんと、鉄建公団の人々は新たに開通させる為の線路を。使われていない『無用の長物』と化した場所から運び出して流用しようとしたのだ。
 そして、鉄建公団は鼻光線の線路を剥がそうとする計画を遂に実行に移そう…としたのであったが、この判断に関して。そして実行には何の通達も一切なされなかった中であったので、実質の強制執行状態。未成線として枝幸までの線路を剥がされると知った歌登町は、なんとこちらも絶対に引くものかとバリケードに除雪用車を駆り出して鉄建公団をブロック。徹底的な戦争状態に突入していったのであった。
 歌登の街にしてみれば、美幸線の未成線完成の約束が既存部分の大赤字で時代と共に廃線。そして町内の交通を支えていた簡易軌道が未成線に重複するからとして線路を勝手に剥がされ、そして鉄建公団の手によって『鉄道開業』の言葉を大義にして農地・線路の寸断を敢行されたのである。
 そして、最終的には美幸線の未成線を鉄建公団に高額な値段で押し付けられ、歌登町という最も大きな被害者を生み出してこの美幸線の歴史は終了に向かっていく。
 美幸線の未成線設備に関しては、道路区間に整備されレールが遂に消えた。希望も何も失われ、美幸線の歴史は遂に終わったのであった。

歴史を眺めた後には

 再び、宗谷本線。
 美深駅には、キハ54形気動車のエンジンサウンドが響き渡っている。10分近い停車時間は、鉄道好きな自分の心を揺さぶるには十分すぎる時間であった。
 先の鉄路を眺め、キハ54形は静かに息をする。カラカラカラカラ…と軽快なサウンドを響かせ、停車時間を過ごしているのであった。
 車内の乗客は、名寄から全く変化がない。全員、終着の音威子府まで乗車するのだろう。まるで静かなツアー列車のようだ。
 美幸線資料館に関しては望めず…そして、駅の売りである『北の大地の入場券』も購入出来ずであったが、結局このまま美深を出ていく事になった。
 美幸線の歴史…に関しては先ほど記したように、でもあるのだがしかし。もっと詳しく知る為に。そして体験しての学習には、『美深トロッコ王国』という場所がこの先にバスで向かった先にある。
 この美深トロッコ王国では、仁宇布付近の線路がそのまま残っており、美幸線の生きた証を小型のトロッコで走行して楽しめる。また、保存車両も残っており。しっかりと鉄道ファンに楽しめる場所として現在も人気だ。
 今回は全く考えもしていなかったのだが。
 いつか、美深駅資料館と共に向かいたい場所である。
 列車は加速し、闇を蹴り立てて走っていく。夏の宗谷本線を軽快に進行し、更に北の駅。音威子府を目指して走っていく。
 初野、咲来、天塩川温泉…徐々に小さな駅を掠めていく。夜の車窓は何も見えない。そしてこの区間に廃駅があるのだが、完全に見逃してしまった・というか気が付かなかった。
 そして遂に、音威子府に到着するのである。名寄から数えて、ようやくの休息の場所だ。しかぁし名寄の待ち時間から思っても、この場所の遠さは案外効くのである。本当に長かった。
 何というか、旅をしている実感が体の全身にまで響いてきた。

 列車は到着し、しばらく経過してから入換を行う。自分が下車し、駅前宿に向かうまでは同じホームに停車するままであったが、その後は方向を転換してそのまま入換の態勢に入って稚内方面に向かう。
 そしてホームを翻し、最終的には名寄方面に向かって消え去ってしまった。(この時点・作業は宿から確認するのであった)
『ガァァァァッ、ギュワワッッ、ッゴァァァァ…』
闇に消えていくキハ54形のエンジン音。いよいよ、自分と何人かの旅人はそのまま駅に降ろされてしまった。
 今日はこの駅周辺に宿泊する。音威子府の名物、『音威子府そば』も食せる有名な宿だ。
 駅前の周辺には、完全に何もない。前回の千代ヶ丘ほどではないのだが、駅の周辺に活気がなかった。日が暮れたら、その先は何にもなし…に近いが、それは音威子府の駅が築いたターミナルの威厳によって守られている。
 木造のしっかりした作り駅舎を出て、音威子府の駅宿に向かう。
 入換へと向かう、キハ54形のディーゼルサウンドもしっかりと耳に入る鉄道との距離が近い宿であった。

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