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ACT.50『若人の国鉄』

聖地追分

 まず。この記事を記す前に。
 大長編北海道の最中になりましたが、なんとか50話目まで記す事が出来ました。これも皆さんのスキ、そして閲覧や支援のおかげでございます。これからも様々な旅路を記して参りますので何卒。
 というわけで…この追分は、日本鉄道史と国鉄を愛する自分にとって『聖地』としての要素が非常に強い。
 何より、その中には国鉄の中で動力近代化計画の最中で最後まで蒸気機関車が残存し活躍した事も挙げられるが、この大地は追分の鉄道発展と石炭輸送と共に、機関区晩年まで国鉄の血を貫き通した場所だったのだ。
 自分にとっては、この北海道安平町追分…は普通の鉄道の街ではなく、『聖地』と表現しても充分に相応しいものであった。それは鉄の早馬を操り。そして油と石炭と共に。そして動乱の昭和を生きた男たちの姿の勇ましさ…そうしたものへの憧れからくるものであった。

※本来ならばこの列車に乗車していなければならなかった。

反省から始まる先人対話

 まず、自分が列車の接続を間違えて(乗り遅れて)追分での待合せに遅れた事を伝えた。
 しかし、そんな中でも車を笑顔で運転してくださり。そして
「大丈夫ですよ。」
とまでフォローしてくれた支配人さんの優しさには頭が上がらない。
 まずは、追分付近にあるセイコーマートに向かった。
「まずセイコーマート行きましょうか。ここは早いんですよ〜。21時には閉まっちゃいますからね。」
「えぇぇ!?」
いかに自分が暮らしている京都が街中か、再認識させられてしまう。そして、この北海道を旅していて思ったのはコンビニ(特にセイコーマート)に営業時間が最初から設定されている事だった。24時間営業は本州チェーンのセブンイレブンやファミリーマートなどであり、セイコーマートは22時から遅くても深夜1時には閉店してしまう。そうした環境が自分の中では新鮮だったが、まさか21時とは。焦ってしまった。
 入店して、焼きそば弁当と適当な食品を購入する。そして、退店。支配人さんの運転するバンワゴンに乗車し、温泉ツアーに向かう事になった。

※現在は現役を続けている機関車もいるが、人間で言えば
『中年』レベルの機関車になったEF65。保存機も多く、今でも。そして国鉄の時代からファンが多いベテランの機関車だ。

 支配人さんのワゴン車に乗車してからは、ずっと国鉄関係の話で盛り上がっていた。自分がこの宿に宿泊を決意したのも最終的な決め手はそうした鉄道要素で、この鉄道関係がなければ選んでいなかった…かもしれない。
 と、支配人さんの出身は奈良県だった。奈良県にはかつて竜華機関区が存在し、EF60やEF65、そしてまた茶色い機関車EF15なども居たと話をしてくれた。
 自分にとって憧れた時代。そして、今は写真でしかその記録が残されていないそんな国鉄の話を、ずっと車中では繰り返した。こうした先人の話を聞いている時間が、自分にとっては1番ときめいている時間かもしれない。
 中には、職員とのエピソードも混じり撮影する趣味者と現場との距離の近さに関して、改めてその往時を偲ばせられるばかりであった。
「そんでね、部品販売とかも今じゃ高いけど昔だったらこれくらいのサボとか安かったモンなんですよ。お小遣いくらいで買えちゃったから結構家にありまして…」
こんな話をキラキラしながら聞いて、北海道の知らない夜道を走る時間。この時間が終わってほしくない。そして、もっと国鉄に関する先人の体験として様々な事を聞いてみたいと思ったものだった。

※現在はJR西日本の上郡・播州赤穂まで入線する221系。『床上は全てお客様の空間』をコンセプトにして開発された、JR西日本気合いと期待の電車だった。

 しかし、現在は鉄道の趣味の前線を走っていないのだという。
 北海道には在住し宿を開業して数年近くは経過したと仰っていたが、その理由の1つとして
「221系が誕生し運用を開始したから」
というものがあった。
「なるほど。そうだったんですね…」
と自分も頷いたのだが、本当に何かその気持ちが分かるというか、221系の誕生は国鉄からJR西日本への変化と進化を明言するものであったと思う。
 支配人さんが北海道で鉄道に関する趣味…として動いたのが
「711系の引退の時は時間とかまで調べて行ったんだけどね…アレは良かったよ…」
と言っていた。ので、ほとんど鉄道に関する事は今していないのだろうか。と思った。
 ただ、話をしていると北海道の現役車両や現在も走っている車両に関しては『形式や路線に関しての知識』だけの感じだった。本当にあの頃というのは計り知れない勢いだったのだろう。

※日本最大の蒸気機関車として活躍し、現在も蒸気機関車世代から若年層を問わず、永遠の人気を誇るC62-2。この機関車の特徴はなんと言っても煙よけの燕マークだ。宮原・小樽築港では念入りにこの部分を磨くように指導されていたという。

秘湯にて

 何も電灯のない夜道を、ワゴン車は走っていった。
「これが北海道なんかぁ…」
そう思いつつ、後部座席から景色をずっと眺めていた。
 そして、長い長い道を走行中に『千歳市』の看板を通過したのを暗がりの中であったが発見した。安平町から再び千歳に戻ったのだろうか。
「着きましたよ。温泉です。タオルとか持って降りてください。」
その案内で下車したのは、真っ暗な中の小屋だった。温泉…というか、自分が感じたのは何か秘湯のようなものだった。また、敷地の近くには薪が多く積まれていた。やはり薪で焚べる…のが温泉流なのだろうか。とこの時は思ったが、どうやらこの場所は元々の泉温が低いらしく徐々に薪で温度を暖めていくのが習慣らしい。なるほどそうだったか…。
 そして、この温泉のチャームポイントにボーリングのピンが立てられ更にはタイヤが積まれていたりと中々に秘境というか田舎の隠れた施設らしさを出しているのが良かった。
 が、施設到着時間で写真が撮影できなかったり。また、自分自身が緊張マックスだったりとこの瞬間というか温泉に滞在している時間の写真は全くない。そこで。この温泉滞在時間には、支配人さんと浸かっている最中にどんな話をしたのか。そんな話題に関する画像を上げて、この時間をつないでいきたい。
 と、ガラス戸を開けて入店。普通の銭湯のような雰囲気だった。テレビも点いており、普通の大衆風呂屋とあまり雰囲気が変わらない。料金を支払いこじんまりしたロッカーに荷物を仕舞い、鍵を腕に巻いた。
 支配人さんと温泉の方は、世間話や軽い話題で盛り上がっている。日々、この宿の温泉ツアーとしてこの場所は常連のようだ。
 そして、脱衣所に支配人さんと続いて向かう。ロッカーからは最低限の荷物を出して向かった。
 と、温泉に脱衣して入湯。
 ここでは既にメガネを外しており、視界は見えないものの温泉の湯は蕩けているまったりした感覚があった。
 ナトリウム系の温泉のようで、そしてこの温泉には皮膚への効果があるという。火傷や切り傷、皮膚病に保湿にも効果を発揮するとの事だった。
 と、裸になって濃い茶系黒の温泉に入湯しても自分と支配人さんの話は国鉄ばかりだった。
「自分は京都出身で育ちだから、梅小路のC62-2によく憧れて…それで北海道に行きたかったんですよ。ずっと。で、小樽の方に行ったんですけど小樽の方のED76は解体間近だったから見れなくて…ニセコの牽引機だったのに残念ですけどね。」
「北海道の国鉄、そして分割民営化のJRになる手前がお好きなんですか?」
「はい。何かあの頃というのは自分の中で特別なものがあって。京都の方ではしょっちゅう昭和の国鉄写真集なんか読んでました。」
「若いのに珍しいですね〜。皆さんお若いと新しい方が好きなのかと。」
「ははは。言われますよ。」

※追分機関区に所属し、貨物列車や石炭列車の牽引に従事した9600形 79615。倶知安機関区で胆振線向けにカニ目前照灯に改良され(ファン目線愛称)、2灯の前照灯を光らせ活躍する事になるのであった。

 中には、こんな話もあった。
 北海道、安平町は追分…この場所には、かつて貨物の操車場と蒸気機関車の機関区を備えた『追分機関区』が存在していた。蒸気機関車の面倒を国鉄の晩年まで見守り。そして、国鉄最後の蒸気機関車の聖地として、SLブームでは大いに盛り上がった大地だった。
 しかし、その追分機関区はもうない。
 追分機関区は、火災で全焼してしまったのだ。蒸気機関車。そして、ディーゼル機関車を格納していた機関区は一夜にして火の海に巻き込まれ、鉄の勇者たちは。動力近代化とこれからの鉄道を背負った戦士たちは非業の死を遂げた。
 と、そんな追分機関区の話を温泉でしてくださった。
「追分には昔、機関区があったんです。でも、火災で消失しちゃったんですよね。」
「京都でもその話を幾つか聞いた事があります。この北海道に移住して、その火災の話の何かを聞いた事はありますか?」
「ありますよ。機関区の近くに住んでいた人が、燃え盛る機関区の中から蒸気機関車の悲鳴みたいな声を聞いたって言ってました。ホォォォォォォって。蒸気機関車にはボイラーの管があるじゃないですか。あそこが燃える音なんですよね、きっと」
「うわぁ、それは移住して証言を聞かないと分からないですよね。凄いお話だ…」
「あとは追分の機関区に関しても機関士さんとか、職員さんの様々な思い出を聞きましたよ。列車が来るまでの待ち時間に酒盛りをしたとか。」
「昔の時代ならでは、ですね。笑。大らかというか。国鉄の緩やかさが伝わります。」
 この町が鉄道の場所として、追分の場所が鉄の勇者たちによって育てられて来た事が。そして共にその中で、人々が鉄道と共に蒸気機関車とこの街を育てていった事が分かる一説だった。
 本当にこうして、自分は改めてだが国鉄の時代が好きというかこうした時代に憧れを持っているんだなと再認識した。
 この瞬間だけは。憧れを解き放って緊張の時間を緩和させられる。旅先の中に、一瞬の安らぎさえも自分は感じていたのだった。

※追分機関区火災から奇跡的に生還したD51-603。現在は嵯峨野観光鉄道の19世紀ホールにて前頭部をカットして保存されている。ボイラーの構造も解るようになっており、メカの伝承者として。鉄道の災害の語り部として健在だ。

 と、まろやかな温泉を浴びてサッパリと千歳の祝梅温泉を出発。
 自分が準備に手こずっている間も、支配人さんは祝梅温泉の方々と親しく会話をしていた。本当に仲が…というか、固い絆があるのだなぁと思いつつ、再びワゴン車に戻る。
 戻ってからの道中も、暗がりの中再び国鉄や懐かしい鉄道の話が展開され続けていた。しかしながら自分でも思う。よほど飽きなかったのだなぁと。そしてこうした話を共有できる間柄の人間というのが少なすぎるのだなとすら感じた。
「自分はこの前、青森に行ったんですけど津軽の旧型客車が良くって。アレは最高だったなぁ…」
「もう旧型客車、中々乗れないですもんね。」
「そうそう。だから津軽の旧型客車なんか感動しちゃって。奥さんと一緒だったんだけどさ。奥さん置いて自分だけ何か別世界だったよ。」
「羨ましいです。津軽鉄道の旧型客車って言ったら、ストーブにスルメとお酒で有名なヤツでしたっけ?」
「そうそう。頷。僕はしないけどね。」
「旧型客車羨ましいですね〜。僕自身も旧型客車って大井川鐵道くらいしか乗車経験がないもので、本当にあの時は新鮮でした。西武の電気機関車が牽くイベントの時行きたかったんですけど。」
「あぁ大井川もそうか。京都だったらそこまで行かなきゃダメなのかぁ…」
「でも何か、新鮮に映ったのを覚えていて。」
「僕が若い時は旧型客車も多い事走っていたんだよね。それこそ山陰の方とかさ。」
「山陰の方ですか。山陰系に関しては、本当に最後の最後…というか晩年まで旧型客車や客車列車を貫いてましたよね。」

※旧型客車の旅、とは大らかでなんでもアリだった。国鉄時代は列島を南北に走り、電化までの鉄道を支えた存在なのであった。

「そうそう。昔はあの辺りっていうのかな。福知山とか鳥取の辺り?旧型客車とかばっかだったんだよね。」
「動画とかでしか見た事ないんですけど、自分も旧型客車が晩年まで走行した姿は見かけました。本当に山陰関係は遅くまで働きましたよね。」
「そんでもって、あとは廃車が来るんですけど幽霊列車って言って役目を終えた旧型客車が連なって廃車される為に回送されて行くんです。アレは悲しかった。」
「写真や動画の世界でしたけど、自分もアレに関しては悲しかったですね。時代が終わるというか、早朝の時代に何か隔世の不気味な世界がひろがっている感覚というか…」
 車中では旧型客車の話がこうして盛り上がっていた。旧型客車に関する話でここまでこんなに盛り上がった人がいただろうか。自分では本当に人生で最も感動した瞬間…というか、何か華々しい空気に乗っかっている感じが凄かった。
 例えるなら(複雑かもしれないが)映画、モテキの森山未來がカップ麺の汁を捨てて踊り出すあの感じ。アドレナリン大爆発で自分の国鉄関係の思いが湧いていた。

何歳

 車の中は暗くても、自分のテンション、脳の中は薔薇色だ。そして、スッカリ宿の支配人さんとの気持ちは解けていたと言っても良い。
 車中で、こんな話題が登場した。
「…そういえば山陰本線?で急行って言ったら大山があったと思うんですが」
「ん?アレはエーデル…」
「エーデル?」
「なんか展望のやつです。展望の?パノラマスーパーみたいな顔のやつというか。こう…階段式の展望の」
「あぁアレ!!ビックリした!覚えてるよ。大阪駅で友達と呑んでて別れる時に、『だいせん』が来るから観に行こうって観に行ったら2両のなんか派手なやつが来たんだ。そうそう…まさかあんな姿になってたとは思わなかったなぁ…」
「いやでも。観れてるだけ良いと思うんです…。ぼくは間に合わなかったので…」
「いやいや。でも、急行だいせんって言ったら旧型客車とか気動車の素晴らしい急行だったんだよ?それこそね?」
…きっと今の人には伝わらないだろうし、この話は一体なんなのだろうと思われそうだ。
 しかし、自分も北海道の山道で『エーデル』という車両の話になるとは思わなかった。
 詳しくはインターネットや書籍にて、『エーデル北近畿・エーデル鳥取』・または『エーデル キハ65』と検索を。(回しモンか
 北海道の暗い山道を、こうして昔懐かしい話を爆発させて車は走る。
「さて、着きましたよ。」
しばらく走り、そして開けた山道から逸れた小さな小径に入った場所に、その宿はあった。
『旅人さん、おかえりなさい!』
その文字に心を奪われてしまった。泣くかと思った。本当に疲れているのかもしれない。
 そして入る時に、耐雪構造の二重玄関。もうこの構造にもバリバリに慣れてしまったのだが、京都でこの記事を書いている今となってはその設備そのものが恋しい。

 入って荷物を自室に置き、そして宿代の精算の時間となる。この宿。実は非常に面白いシステムがあって支払い時に笑ったのだがそれは見てのお楽しみ。
 自分はU-29の割引適用を受けたので、少し安く宿泊できた。そして、宿に泊まっても結局この男は国鉄の話が中心になってくるのだ。
 そしてこの宿には、『居酒屋』のようなスペースがある。旅人と共に交流して過ごす事に重点を置いている宿であり、自分が宿泊した時には奇しくも自分1人だけだったので全開で世界が自分だけの世界に染まっていた。今思うと、何か申し訳ない気持ちにすらなってしまいそうだ。
「何か申し訳ない気持ちになるんですよね。」
「いやいや。昨日は6人泊まってたんだけど、そっちの方が中々自分の事話せないと思うよ?」
「それもそうですかね。笑」
と、夜の先人さんに教えてもらう時間が始まった。
 写真に掲載しているのは、宿内のコレクションの1つだ。
 居酒屋スペース…(談話室)には様々な鉄道の品々が置かれ、この設備を目当てに宿泊に向かわれる方も多いのだという。
 と、ここに掲載しているのは103系電車の方向幕だ。フォントは国鉄フォントなので、相当昔のものだろう。自分が103系の中に『新快速』が挿入されているのを知ったのは、高校生になってから。天王寺入線前に、美章園で幕回しを見てその幕を見た衝撃にて知った。最初はネタかと思ったのだが、後に実際の設定を知った。
「この新快速って…実際はどうでしたっけ。」
「阪和線だよね?確か天王寺を出たら、鳳まで止まらなかったんだよ。」
「あぁそうでしたっけ…もう堺市も止まらなかったと…」
「そうそう。阪和線で当時特急以外で1番早かった。」
「103系に装備しているのって代走用でしたっけ?」
「どうだろう?この時は113系が主にやってたんじゃなかったかな…」
「ですよね。阪和線新快速って調べたら113系の記録がありますし。でもこの時の新快速って、東海道はどっちでした?153系ブルーライナーか117系か。」
「どうだっけ?117じゃない?」
「こうしてマジマジ見るのはじめてなんですが、117系に近そうですね。」
「そう?あんまりそこまで見ないし…でも117系の新快速と似てるかもしれない。」
というか、ブルーライナーについて知っている24歳もまともにいるのだろうか。(当時は23歳)そして、ブルーライナーに関しては『新快速』の種別板を返すと『≡線』表示が現れ、間合いで快速運用を務めた話にもなった。何歳の話なんだろう。

教えてください、先生!!

 さて、最初に宿の話になったところで。
 この宿の談話室の中での過ごした時間を振り返ろう。自分の失態がなければ、もっと多くの時間を共有できていたはずなのだが。
「今日はお疲れさまでした。乾杯!」
その音頭で、自分も乾杯へ。医師の都合で飲酒禁止な自分なので、ジュース類を飲んで参加した。
 写真は、談話室内の写真である。国鉄時代にコレクションした様々な品物が展示されており、圧巻の光景を作り出していた。話をしながらであったが、自分の中では
「鉄道の聖地である北海道・追分に相応しい街の宿だ」
と思いながら眺めていた。
「この追分を鉄道の街として慕ってこの宿に泊まりに来る人もいますか?」
「居ますよ、何人もいました。」
「本当にこの場所が蒸気機関車最後の場所として、鉄道の場所として語り継がれているんですね…」
と、北海道の事。そして。
「京都で太秦方面って事は嵯峨野線?」
「あ。はい。嵯峨野線…に今はアダ名がついちゃってますけど、山陰本線がJRでは1番近いんです。」
「山陰本線かぁ、昔よく乗ったなぁ…それこそまだ非電化でね?」
「あの今はトロッコの場所ですか?」
「そうそう!今はトロッコになってて、観光の場所になってるとこ。あそこ昔は普通に列車が走ってたんだよね。」

※現在は京都観光の定番コースとなった、嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車もかつては山陰本線の京都口として実際に乗客や貨物を輸送していた。観光路線に転換してからは乗客に伸び悩むが、植樹や様々な観光運動で地道に成績を伸ばしいている。

「あの場所の写真、何回か見た事あるんですよ。気動車とか50系客車とDD51なんかの時代で…」
「そんでね、昔の始発列車は山陰本線の。浜田行きだったの。」
「え?」
「ホントホント。笑」
「えぇぇ!!」
「時刻表見てみる?あるよ?」
と、コレクションの量が豊富すぎてどうにも言えなかった。というか、鉄道居酒屋として売った方が良くないだろうか…。
 で、結果は本当に浜田行き。何年の時刻表だったかの記憶は忘れたのだが、この時期。山陰本線の旧線が京都口の旅客メイン街道だった頃は、園部・福知山を越えて移動している印象が強かった。きっと今とは違い、機関車と軽油の力強い鼓動がこだましていたのだろう。時刻表の語る『リアル』に目を奪われた。
 他には時刻表を見てみると、『荷物列車』の欄が存在している。人々が寝静まった時間にひっそりと走っていたのか、それとも別記で記されたのか不明だったがその記述にも目を奪われた。
「時刻表は昔の読んでみると面白いよ?」
「はい…こんなのだったとは知りませんでした…」
 ちなみに当時の太秦駅はというと、山陰本線京都口の駅の順番として。
・亀岡
・馬堀
・保津峡
・嵯峨(後に現在の嵯峨嵐山に改称される)
・花園
・円町
・二条
・丹波口
・京都
となっており、太秦は存在していなかった。太秦駅の開業年は平成元年であり、もっともっっと先。JRになってから、仲間入りをするのであった。国鉄の話に参加できないのは非常に残念である。(毎回思っているのだが)

※KATOから販売された荷物列車のNゲージ。この当時(令和3年)くらいにはワサフ8000が単品生産で人気を呼んでいたが、自分としてはもう少し車両を満遍なく買い揃えたかった。国鉄の中でも、鉄道ファンに愛された影の列車だった。

 他に上がるのは、荷物列車の話であった。
 この話に関しても、旧型客車と共に支配人さんが世代とあって様々な話を教えていただいた。
「あれ。時刻表に様々な荷物列車が載ってますね。」
「そうでしょ。荷物列車って、当時は色んな場所に行ってたんですよ。」
「へぇぇ…」
「まず、東京から夜行急行に併結されてそのまま青森に行くでしょ?で、そこから青函連絡船で貨車航送。そして、急行狩勝(ここは崩れ列車だと言っていたかも)でそのまま北海道まで入ってきたんですよ。」
「僕も当時の荷物列車が青函連絡船の貨車航送で海を渡った話を読みましたが、実際にはあるんですね…」
荷物列車は国鉄の時代、郵便も含めて小荷物などを全国に輸送する為の手段として鉄道で大活躍した。主だったのは旧型客車や客車に準じた機関車のリードする荷物列車で、中には現金を輸送する秘匿客車『マニ30』という特殊車両なんてのもあったくらいだ。
 中には、『クモユニ』・『キハユニ』と電車・気動車の荷物列車も存在していた。そうした昔の文化を共有できた事が、何か自分の中では美しい思い出というか。同級生と再会したような気持ちになっていた。
「いやいや。そうなんですよね〜」
「よく知ってるね!!20代?本当に?」
こうしたネタの連続で過ぎていくばかりである。

※地域独自の車両塗装の一例。エメラルド系のブルーを配色した加古川線色。今は消滅するも、西脇市の鍛冶屋線記念公園でひっそりその姿を語り継ぐ。

 少し酒に酔った段階だったろうか。こんな話もした。
「若い人は色んな事を聞いてくるんだけど、やっぱり多いのは気動車の色なんだよねぇ。気動車!!アレは確か、相模線だと思うんだよなぁ。」
頬を赤らめて少し上機嫌そうに思い出を浮かべ、そんな話をしていた。
「気動車ですか…」
「あの頃ってのは地域色が少しずつ増えていって、独自性が…(この辺りが曖昧)」
と、懐かしいというか気動車に関する話を交わした。
 個人的には書籍内や保存車でしかない話である。
 自分の中で、やはりこうした保存車たちの存在が国鉄や分割民営化初期の世界への興味へ駆り立てた道であり、欠かせないピースである。何かそんな事を思いつつ、目の前に用意されたお菓子を摘んでいた。

 お食事、焼きそば弁当。
 北海道ではコレかなぁ…となるインスタント系の食材のうちの1つかもしれない。この弁当とポテトサラダを買って今日の晩御飯にした。
「焼きそば弁当だったらお湯ココにありますよ。」
「は、はい…」
ポットが本棚の上にあった。本棚にはギッシリのマンガ。何かこのマンガの量も大衆食堂か理髪店くらいの勢いで、自分としては驚きが果てしなかったのが帰ってからの感想だ。
 と、この焼きそば弁当には『オマケ』がある。
「焼きそば弁当だったらスープあるよね…?器取ってくるから待ってて。」
「行きます。なんか申し訳ないし…」
つい、ゲストハウスの癖で動いてしまう癖。そう、コンソメ粉末が入っており、湯切ったお湯でスープができるのだ。そして、その器をキッチンに取りに行ってくれているが。お客さんは入れないらしい。
「ウチは民宿みたいなものなので。お客さまはそのままで結構なんですよ。」
「あ、それじゃ甘えます…笑」
「おおおい!お湯それ少なくないか?」
硬めが好きな事を打ち明けないと、こうなってしまう。しかし、美味しかったので構わない。

添削

 寝る時間になってしまった。楽しい時間というのは早く過ぎ去ってしまう。
 と、この間に少し実は翌日の行程についての話をしてくださり、談話室の使用時間ギリギリ(少しオーバーしたか)まで、粘ってくれた。本当に感謝しかない。
「明日どうされるんですか?」
「こんな感じで…」
ここで、行程を記したホチキス止めメモを見せる。しかし、衝撃の返事が返ってきた。
「え、これ明日列車で行くんですよね?」
「あ、はい汗」
「これ無理だと思うなぁ…車だったらこれいけると思うんだけど…」
その順番がこちら。

・岩見沢の公園でC57・D51両機

・栗山公園にて夕張21号機

・安平町D51ステーション

次の場所、旭川市

「んで次旭川に向かうんでしょ?」
「はい…」
「これ無理だと思うんだよね」
「おおおおお…」
「んでね」
壁にかけてあった地図を見せていただく。その地図を含めて解説をしていただいた。
「岩見沢の公園ってコレかな、コレ駅から30分くらいあるから列車待ちに向かうの絶対ムリだぜ?」
「そんなかかるんですかそこ…!」
「だったら栗山と岩見沢はバスだな、こういう時にバスって役立つんだ。」
と、ここで時刻表を駆使してのバス検索が開始された。非常に嬉しく、いつか北海道に旅した際には再びこの宿に宿泊して礼を申し上げなければならない次第…
「古いデータだからわからないけど、市立病院前…かなぁ、ここが近そう、多分ここ。で、こっから行ったら近い。で、栗山はここね。」
「あぁぁ!マジですかありがとうございます…!」
「んで安平のD51はさ、こんだけ最終日空いてるでしょ?だったら最終日に回したら?」
「なるほど、道内フリーだったらいけますね。」
「でしょ。笑、追分から意外にD51遠くないし。」
学校の予習、小テストの復習。塾で期末テストの返却があった日の添削のように、旅の立ち回りを就寝前にここでは多く教えて頂いた。本当に感謝しかなかった。
「てゆーか栗山の21行ったら由仁の夕張の機関車は?」
「え゛っ゛?」
「つか夕張の機関車見たいって言ってもただのキューロクだけどねぇ笑」
「あはは…小さい頃かな、中学の映像で憧れてたんです。」
「確か、由仁のヤツは札幌から高速バスが出ていてそれでも行けたはず。」
「なるほど。また今度行きます!」

 この宿の壁には、支配人さん自作の地図が貼られていた。その地図には、テプラ書きで様々な場所が記されている。自分も、この地図で様々な場所を教えていただいた。
「ヤリキレナイ川…こんなのがあるんですか?」
「あるよ、由仁の方にね。」
「明日は室蘭なんですけど見れますかね?」
「どうだろ、渡るかも…だったけど一瞬じゃない?」
他には。
「おぉ、三笠の鉄道村まで載ってますね!」
「そうそう。ここは行かないの?」
「小樽行きましたし…2つも鉄道の博物館に行ってしまうと情報が処理できないので…」
「じゃあ、また今度か。」
「そしてこの万字線ってのは…」
「ああ、あったんだよ、万字線。」
「卍線?(本当にこっちだと思っていた)」
「本当だよ、あったんだって。笑」
 このようにして、宿泊客との会話が交わされる憩いの地図になっていた。安平町だけでなく、周辺市町村の事まで網羅されているのが非常に凄かった…のが記憶に残っている。改めてだが、案内している様子の写真として支配人さんの様子を撮影して来れば良かった。
 他にも、北海道…日本で京都とこの場所にしか保存機がいないというB20形の居場所も教えて頂いた。
 と、この地図やバスの時刻表などを中心にしてやりとり終了。談話室内での会話は深夜に入り、23時でお開きになった。
「明日は始発かな?」
「残念ですけどそうなります。もう少し話したかったですけど。」
「その方が良いよ、こんだけ行くんだもん。」
と、宿の設備を教えていただき就寝。無料の水分系や水回りについてのご教授をいただき、夜の時間になった。

※夜の線路を走るDF200形。北海道では夜に遭遇していないので、三重県で活躍する姿を。写真のDF200-201は愛知県・三重県での活躍で知名度を上げ、『Ai-Me』の愛称で親しまれているラッピングを施している。見かけるとラッキーな機関車だ。

安平の夜に響く歌

 無料の水をいただけた。薬系の疾患を持っている自分にとってこの恵みほど感謝感動…というか、頭に上がらない事はなかった。このミネラルウォーターでしばらくの服薬に安堵し、この日も隠れて薬を飲んでいた。
 そして、簡易的に室内の徒歩宿ガイドを読んで就寝。
「旭川市に宿泊する」
と話したところ、
「旭川の宿決まってない?インターハイで埋まっているかもだけど載ってるかもよ」
と教えてくださり、希望を縋る意味で読んでみた。
 そして、就寝。中々ガラナの所為で寝付けず、目が脳の反射的な作用で暗がりの中をゴロゴロ起きてしまう。
 その中でも、後方から石勝線・室蘭本線の音色が聞こえてくるのだ。
『カタタタタタタタタタタタン…サァァァァ…』
「多分、貨物が走っているのだろうか?」
虫の音に混ざって走る車輪の音色に、自分の小さな体力を向けてみた。
「大丈夫だろうか、明日…」
そんな不安を、時たま過ぎ去る貨物列車らしき過ぎゆく音に乗せて何処かに払おうとする。
 頭に浮かんだのは、台形の形状をしたDF200形ディーゼル機関車。力強くコンテナを率いて本州へ走る姿に思いを浮かべていた。
「長い事かもしれないけど、北海道に来たな…」
先がもっと長いのに、北海道への感慨を先にぶつけたりして。自分は知らずに眠ってしまった。
 明日はいよいよ、北海道蒸気機関車の聖地としての路線、室蘭本線に乗車して岩見沢方面を目指していく。

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