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感想散文 #1 映画『土を喰らう十二ヵ月』

2023年、映画初めにふさわしい1本だった。

作家のツトムは人里離れた長野の山荘で一人、暮らしている。山の実やきのこを採り、畑で育てた野菜を自ら料理し、季節の移ろいを感じながら、原稿をしたためている。時折、担当編集者で恋人の真知子が、東京から訪ねてくる。食いしん坊の真知子とふたり、旬のものを料理して一緒に食べるのは楽しく、格別な時間。歳の離れた恋人がいて、悠々自適な暮らしをするツトムだが、13年前に亡くした妻の遺骨を墓に納められずにいる。

© 2022『土を喰らう十二ヵ月』製作委員会

信州長野の山あいに佇む古民家に、ひとりと一匹で暮らすツトム。彼の家と周辺の山里ほかに登場する場所はなく、ただつつがなく進む彼の生活を、二十四節季ごとに綴っていく。

まず、音が良い。

雪をぎゅっと踏みしめる音、山のなかで葉と葉がこすれあう音、台所の冷や水(温度感は映画では分からないけど絶対あの山から引いている水は冷たい)で野菜を洗う音。知っているけれど聞き落としがちな音が、丁寧に丁寧に拾い集められている。

人里離れた山あいでの生活で一貫して描かれるのは食。山や田畑が恵む食材に、米と汁。一汁一菜の質素な食卓に深い奥行きが感じられるのは、食材はもちろん、料理の過程や器選び、箸使いの所作、それらすべてが揃っているからだと思う。

料理シーンごとに、客席から静かに感嘆が漏れる。「あんな器使いができたらねえ」なんて呟きが、後方の席から聞こえた。きっと会場みんなが頷いていると思う。

料理と共に印象的だったのは主人公・ツトムと年下の恋人・真知子の関係性だ。

ツトムが掘って来た筍を真知子と食べるシーンでは、ツトムは早々に食べはじめる真知子に筍をよそってやり、「お汁も」との催促にハイハイと答える。

また別のシーンでは、お八つとしてツトムが干し柿を二皿出す。こちらもまたツトムと真知子しかいないので、二人分ということだろう。ツトムは真知子が美味しく食べる様子を楽し気に眺め、「これも」と自分の皿も彼女に差し出す。

年下の恋人の世話を甲斐甲斐しく焼くツトム。愛情がつまったそれらが微笑ましく、そこはかとなく色気を感じる。

そして、そのやりとりの背景に存在感を放つのは、ツトムが墓に納められずにいる亡き妻の遺骨だ。

なんだろうな。私みたな若輩者が見ると「はあー愛とは恋とはそういうものなのか」なんて思う。だから、最後に真っ赤なセットアップを着た真知子が登場したとき、そおら見たことか、と思った。ツトムはいっぺん痛い目をみるべきだ、なんて。ね?

死生観

物語は淡々と進む。四季折々の美しい風景と食、そこで営まれる生活をドキュメンタリーのように追いながら、徹頭徹尾「死生観」についてのお話で、それらがなにも特別なことではなく日常に溶け込んでいた。

ドラマティックな展開がない分、観る側の人生の土壌が試される。土壌が肥えていない私では、享受できなかったものがたくさんあるのだろう。けれども、そんな私でも、下手な起承転結のある映画よりもよっぽど真に迫っていたのではないかと思えるものだった。

物語の終盤、妻に先立たれ、世話になった師夫婦に先立たれ、義母を送り、自身も一度は死ぬ思いをし、恋人にも去られたツトムの前に白菜が届けられる。と言っても、早朝の玄関先に置いてあるだけ。ただ黙って受け取り、手を合わせたツトムの様子では、これも日常なのかもしれない。

それで、ツトムは淡々と朝食を作りはじめる。人里離れた山あいで、ひとりになっても、誰かに生かされ、つつがなく紡がれる日常。これが生きるってことかしらね。

さいごに

私が最も好きだったシーンがある。序盤、真知子がツトムの住む山へやってきたときだ。訪れた恋人に干し柿を用意し、美しい所作でお茶を点てるツトムに、真知子は言う。「良い男ね」と。

まったくその通りの映画だった。


映画『土を喰らう十二カ月


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