風船売り【掌編小説】

 ペンキで塗ったような青い空をした日曜日。こんな日には、もしかしたら〈風船売り〉がやってくるかもしれない。

 風船売りはもちろん風船を売るのが仕事だ。でもそれは表向きの話。風船売りの風船には、街中で囁かれた言葉が詰まっている。良い言葉も悪い言葉も、真実も嘘も噂話も。

 僕の弟は風船売りの風船につかまったまま、どこかへ行ってしまった。お父さんもお母さんも早く手を離しなさいって大声で叫んだけど、弟はそのタイミングを逃してしまったんだ。泣きながらどんどん空に登っていった。風に流されて綿雲の向こうへと飛んでいってしまった。もうずっと昔の話だよ。お父さんもお母さんも、もう弟の名前は口には出さないんだ。悲しくなってしまうから。

 もう一度風船売りがきたら、僕はたくさんの風船を買って弟を探しにいくんだ。そのためにずっとお金を貯めてきたんだからね。お菓子を買うのも我慢して、玩具を買うのも我慢して。

 風船売りは人気のない公園にやってくる。できるだけ誰にも見つからないように。小さな屋台を出して、ペンキの剥げかけた看板を掲げる。

〝楽しい風船はいかが? よい子のためのお楽しみ〟

 僕は風船売りの前に立って、小銭で膨らんだ財布を見せつける。風船売りは汚れた歯を見せながらお代を受け取って、たくさんの風船を僕にくれる。風船売りは疑い深そうな目でお金を数えている。僕は両手に風船の紐を握りしめ、スニーカーを履いた両足が地面から離れていくのを待つ。でも、いつまで経っても僕の体は浮き上がらない。僕は手綱を引くように、両手の風船の紐をぐいぐいと引っ張ってみる。でも駄目だ。空はちっとも近づいてこない。頭の上では色とりどりのゴム風船が風に吹かれて踊っている。結びつけられた紐がぐるぐると絡まりだしている。僕は風船に向かって囁いた。僕は弟を探しに行かなくちゃいけないんだ。だからもっと膨らんでおくれよ。僕の声を吸い上げた風船はぷくりと一回り大きくなった。弟がいないとお父さんとお母さんが悲しむんだ。僕だって寂しいよ、たった一人の弟だもの。もう一度会いたいんだよ。

 僕の言葉を飲み込んで風船はまたしても膨らんだ。僕の体を引っ張り上げる力が次第に強くなっていった。スニーカーの底が石畳から離れた。僕の体は宙に浮かんだ。ボートが岸辺を離れるように、静かに地面から遠のいていった。それはとてもゆっくりとした時間の中で起こったように思えた。でもまだまだ足りない。もっと高く飛んでいかないと。僕は頭の上の風船達に向かって話しかけ続けた。弟のことを思いつくかぎり話した。風船はどんどん形を大きくし、僕の体はどんどん上昇していった。

 電信柱を飛び越えて、街の外れが見えてきていた。ふと見下ろすと小さくなった風船売りが呆けた顔でこちらを見上げていた。僕の言葉は止まらなかった。風の日のように語り続けた。窓を開けた途端、机の上の手紙が散らされたように、心の中に積みっぱなしになっていた言葉が、自由に、乱雑に、体の内側で舞上がっているみたいだった。だから僕はあの日のことを思い出してしまった。しまい込んでいた記憶の引き出しを開けてしまった。

 あの日。弟がいなくなってしまった日。それは今日のようによく晴れた初夏の日曜日で、弟の誕生日だった。僕は公園の風船売りから風船を買い、弟の小さな手にそれを握らせた。誕生日プレゼントのつもりだった。弟はすごく嬉しそうだった。だって初めて兄弟からもらった贈り物だったんだから。何度も得意げに風船を僕に見せてくれた。だからついたしなめてしまったんだ。手を離しちゃいけないよ、手を離したら君の風船は飛んでいってしまうからって。

 はしゃぎながら戻ってきた僕らを見て、お父さんとお母さんは困ったように顔を見合わせたけど、目は優しく笑っていた。そしてお祝いの言葉と、今晩用意されている素晴らしいパーティーと贈り物の秘密を打ち明けてくれた。その話がどれだけ二人の子供を素敵に喜ばせたことだろう。僕らは興奮し、歓声を上げて公園の中を走り回った。弟の持つ黄色い風船がどんどん膨らんでいっているのに、僕ら家族はまったく気がつかなかった。それまで勢いよく走っていた弟の体が突然ぐらりと揺れた。小さな体があっという間に宙に投げ出されていた。ああ、でも何ということだろう。弟は決して手を離さなかった。弟は僕の言いつけをしっかり守ってしまったんだ。

 だからきっと、弟は今でもあの黄色い風船を握りしめたままでいるに違いない。青い空の中でまだ誕生日のパーティーと贈り物を楽しみにしているはずなんだ。僕はプレゼントの箱の中身がなんだったかを彼に伝えてあげたい。

 僕の頭の上の風船達ははち切れそうなほど大きくなっている。こんなに語ってしまえば、楽になるかと思ったけど、そんなことは無かったみたいだ。僕は消えた弟のことをことある度に語り続け、風船を膨らまし続けるだろう。破裂して墜落するのか、それともこのまま空の果てまで飛び続けるのか。僕自身にも分からない。

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